第九十四話 世界一の薬師を、誰も治せなかった
王都中央病院の廊下に、世界各国の薬師が集まった。
帝国の研究者。
北の山国の医師。
魔力を使わない薬を研究してきた少年ノエル。
かつて薬の効かない国で、リオンたちと共に働いた仲間たち。
「リオン先生が倒れたと聞いて、じっとしていられませんでした」
ノエルは旅の埃がついた鞄を抱えていた。
ルーシェは深く頭を下げた。
「来てくれて、ありがとう」
最初の会議は、朝から始まった。
症状の経過。
黒い筋の広がり。
筋力の低下。
魔力循環の乱れ。
既知の薬草や毒物との反応。
すべての記録が机に並んだ。
「魔力の暴走では?」
一人の研究者が言った。
「それなら、循環を抑える薬が効くはずだ」
「だが、抑制すると手の感覚がさらに鈍くなる可能性がある」
意見は次々に出た。
しかし、決定的な答えは見つからなかった。
ルーシェはノートに書き続けた。
試せること。
試してはいけないこと。
まだ分からないこと。
夕方、院長が会議を止めた。
「今日はここまでにしよう」
「でも、まだ原因が……」
ルーシェが言いかけると、院長は首を振った。
「疲れた頭で治療を決めれば、患者を危険にさらす。
君も休みなさい」
「休んでいる間に、師匠が悪くなったら?」
「だから病院がある。
君一人で見張る必要はない」
ルーシェは唇を噛んだ。
理屈は分かっていた。
それでも病室の前を離れるのが怖かった。
夜、リオンは少しだけ食事を取れた。
「みんな来てくれたんだって?」
「はい。
ノエルも来ています」
「そう。
嬉しいな」
リオンは窓の外を見た。
「昔は、薬師は一人で何でもできると思っていた」
「師匠がですか?」
「若い頃はね。
自分が一番よく知っているつもりだった」
ルーシェは椅子に座った。
「今は違いますか」
「うん。
知らないことを教えてくれる人が、こんなにいる」
リオンは微笑んだ。
「いい時代になったね」
ルーシェは泣きそうになった。
「そんな、最後みたいなこと言わないでください」
「最後のつもりはないよ」
リオンは少し困ったように笑った。
「ただ、嬉しいだけ」
夜の会議室には、まだ数人の研究者が残っていた。
「リオン先生なら、こんなとき何と言うだろう」
帝国の若い薬師が呟いた。
「『もう一度、記録を見よう』でしょうね」
隣の医師が答えた。
彼らは、診断がつかないことを失敗だとは考えなかった。
分からないと認めたところから、次の調査が始まると知っていたからだ。
一人が、以前リオンから受け取った手紙を取り出した。
『あなたの報告した副作用は、私たちの患者を守りました。
結果が悪かったからといって、研究の価値がなくなるわけではありません』
手紙は何度も読み返され、折り目が白くなっていた。
「この人に教えられたんです。
だから、今度は私が役に立ちたい」
誰も返事をしなかった。
ただ、全員が机へ向き直った。
その頃、病室のリオンは眠れずにいた。
窓の外には、遠い街灯が見える。
彼は右手を持ち上げようとしたが、思うように動かなかった。
「……参ったな」
声に出すと、怖さが少しだけ形になった。
人を助けるための手が、動かなくなるかもしれない。
薬瓶を握れなくなるかもしれない。
それでも彼は、病室の外にいる弟子のことを思った。
ルーシェには、自分がいなくても歩ける道を作ってほしい。
だが、その願いと、まだ一緒に働きたいという気持ちは、どちらも本物だった。
「もう少しだけ、時間が欲しいな」
誰にも聞こえない声で、リオンは呟いた。
看護師は廊下の椅子に温かい茶を置いた。
ルーシェは礼を言い、ようやく一口飲んだ。
誰かに支えられているのは、師匠だけではなかった。
翌日、ノエルが新しい検査結果を持ってきた。
「普通の魔力検査では異常が小さく見えます。
でも、魔力を使わない方法で測ると、神経の伝達がかなり遅くなっています」
ルーシェは身を乗り出した。
「つまり、魔力の異常だけじゃない?」
「はい。
体そのものの反応が変わっているんです」
院長は慎重に頷いた。
「それなら、症状の進行を抑える方法を探せるかもしれん。
ただし、原因はまだ不明だ」
研究者たちは記録を見直した。
リオンが最近使った薬。
長寿薬の試作品。
過去の研究。
どれも決定打にならない。
昼過ぎ、ルーシェは病院の屋上に出た。
王都の屋根が遠くまで続いている。
この町には、師匠が助けた人が大勢いる。
それなのに、その師匠を助ける薬がない。
「……悔しい」
声にすると、涙がこぼれた。
背後で足音がした。
ノエルだった。
「僕も、悔しいです」
「ノエル……」
「でも、先生は僕に言いました。
薬が効かないなら、薬を変えるだけじゃなくて、考え方を変えろって」
ルーシェは顔を上げた。
「考え方を?」
「病気を一つの原因だけで説明しようとしない方がいいのかもしれません」
その言葉が、胸に残った。
ルーシェは研究室へ戻った。
机には、まだ調べていない古い記録の一覧があった。
師匠が若い頃に作った薬。
最初に失敗した薬。
その記録だけが、今も村の工房に残されている。
「……行ってきます」
ルーシェは院長に告げた。
「師匠が隠していたものじゃありません。
まだ、私たちが読んでいない記録です」
院長は頷いた。
「気をつけて。必ず戻ってこい」
ルーシェは馬車に飛び乗った。
世界一の薬師を治すために、彼女は師匠が最初に薬を作った場所へ向かった。




