第九十一話 世界を救った薬師が、田舎に帰ってきた
王都の門が見えなくなった頃、リオンはようやく目を覚ました。
「師匠。
右手を見せてください」
ルーシェの声は、いつもより硬かった。
「さっきも見せたよ」
「今朝とは色が違います。
黒い筋が、指の付け根まで伸びています」
リオンは苦笑し、手袋を外した。
確かに皮膚の下を墨で描いたような細い線が走っている。
痛みはないという。
だが、指先の感覚が少し鈍いらしい。
「いつからですか」
「ひと月くらい前かな」
「ひと月!」
馬車の御者が振り返るほど大きな声が出た。
「長寿薬の安全性をあれほど厳しく調べておいて、自分の体は放っておいたんですか」
「忙しかったからね」
「それ、患者さんが言ったら何て答えます?」
「……忙しい人ほど検査が必要です、かな」
ルーシェは唇を結んだ。
「正解です。
明日、中央病院へ行きます」
翌朝、二人は病院へ向かった。
院長は黒い筋を見るなり、顔をしかめた。
「なぜもっと早く来なかった」
「弟子にも同じことを言われました」
「いい弟子を持ったな」
血液に相当する魔力循環の検査、皮膚の反応、神経の伝達、既知の毒物との照合。
結果はどれも決定的ではなかった。
「今すぐ命に関わる異常は確認できない。
しかし原因も分からん」
院長は診療記録を閉じた。
「疲労を避け、数日ごとに再検査しよう。
新しい薬の自己投与は厳禁だ」
「もちろんです」
リオンは素直に頷いた。
ルーシェは、その素直さが気になった。
いつもの師匠なら、未知の症状を見つけると目を輝かせる。
今日は診察室の窓ばかり見ていた。
「師匠、何か隠していますか」
「何も」
「私の目を見て言ってください」
リオンは目を合わせた。
しかし、その答えはなかった。
病院を出た二人は、王都の工房に戻った。
棚には世界各国から届いた薬草が並び、机の上には長寿薬の研究記録が積み上がっている。
以前なら、その光景を見るだけで胸が躍った。
だが、ルーシェには今、その瓶の一本一本が重荷に見えた。
「研究は一時中断します」
彼女が言うと、リオンは驚いた。
「長寿薬の研究まで?」
「私たちの分担は、です。
他国の研究所は続けられます。
安全性の記録も共有済みですから」
リオンは少し考えた。
「そうだね。
もう、私たちがいないと進まない研究じゃない」
「それと、田舎の工房に戻りましょう」
ルーシェは地図を開いた。
二人が最初に暮らした、山あいの小さな村。
王都の華やかな工房とは違い、冬には窓の隙間から風が入り、薬草を干す場所も足りなかった。
けれど、リオンが最初に彼女へ薬の作り方を教えた場所だった。
「空気のいい場所で休んでください。
検査は村の診療所と中央病院をつないで続けます」
「ずいぶん手際がいいね」
「誰の弟子だと思っているんですか」
リオンは笑った。
数日後、二人は村へ戻った。
工房の扉には古い木札が残っていた。
『困っている人は、遠慮なくどうぞ』
「懐かしいですね」
ルーシェが扉を押すと、乾いた木の匂いがした。
机には、彼女が弟子入りした日に欠けさせた乳鉢がそのまま置かれている。
「まだ取ってあったんですか」
「捨てるには惜しかったから」
「欠けてますよ」
「失敗を忘れないための、いい道具だよ」
出発前、王都の研究所では小さな引き継ぎ会議が開かれた。
ルーシェは長寿薬の資料を三つの箱に分けた。
安全性が確認できた記録。
まだ結論が出ていない記録。
そして、危険が疑われるため中止した実験の記録。
「三つ目も渡すのか?」
若い研究者が尋ねた。
「もちろんです。
そこを知らないと、同じ失敗を繰り返します」
研究者はしばらく箱を見つめ、深く頷いた。
「分かった。
君たちが戻るまで、研究を進めるとは約束できない。
だが、記録を守り、必要な検証は続ける」
「それで十分です」
ルーシェは答えた。
リオンは部屋の隅からその様子を見ていた。
「ずいぶん頼もしくなったね」
「師匠が頼りなくなった分です」
「手厳しいなあ」
冗談を交わした直後、リオンの右手が小さく震えた。
ルーシェは見逃さなかったが、人前では何も言わなかった。
代わりに荷物を持ち、彼の歩く速さに合わせた。
帰郷の途中、馬車は小さな橋で止まった。
村人たちが壊れた欄干を修理していたのだ。
「薬師先生じゃないか!」
橋の上から声が飛んだ。
昔、リオンが傷の手当てをした大工だった。
男は工具を置いて近づいた。
「先生のおかげで、あのとき指を失わずに済んだ。
今じゃ息子と一緒に橋を直してる」
「それは良かった」
リオンは笑った。
ルーシェは、その笑顔を見て胸が詰まった。
師匠が守ってきたのは、薬の効き目だけではない。
人が明日も仕事をし、誰かと暮らせる時間だった。
その時間を、今度は自分が守りたいと思った。
出発前、王都の研究所では小さな引き継ぎ会議が開かれた。
ルーシェは長寿薬の資料を三つの箱に分けた。
安全性が確認できた記録。
まだ結論が出ていない記録。
そして、危険が疑われるため中止した実験の記録。
「三つ目も渡すのか?」
若い研究者が尋ねた。
「もちろんです。
そこを知らないと、同じ失敗を繰り返します」
研究者はしばらく箱を見つめ、深く頷いた。
「分かった。
君たちが戻るまで、研究を進めるとは約束できない。
だが、記録を守り、必要な検証は続ける」
「それで十分です」
ルーシェは答えた。
リオンは部屋の隅からその様子を見ていた。
「ずいぶん頼もしくなったね」
「師匠が頼りなくなった分です」
「手厳しいなあ」
冗談を交わした直後、リオンの右手が小さく震えた。
ルーシェは見逃さなかったが、人前では何も言わなかった。
代わりに荷物を持ち、彼の歩く速さに合わせた。
帰郷の途中、馬車は小さな橋で止まった。
村人たちが壊れた欄干を修理していたのだ。
「薬師先生じゃないか!」
橋の上から声が飛んだ。
昔、リオンが傷の手当てをした大工だった。
男は工具を置いて近づいた。
「先生のおかげで、あのとき指を失わずに済んだ。
今じゃ息子と一緒に橋を直してる」
「それは良かった」
リオンは笑った。
ルーシェは、その笑顔を見て胸が詰まった。
師匠が守ってきたのは、薬の効き目だけではない。
人が明日も仕事をし、誰かと暮らせる時間だった。
その時間を、今度は自分が守りたいと思った。
その夜、村の人々が次々に訪ねてきた。
焼きたてのパンを持ってきた農夫。
冬用の毛布を差し入れた織物屋。
かつてリオンに助けられた子どもたち。
「先生、お帰りなさい!」
小さな少年が花束を差し出した。
リオンは膝をつき、花を受け取った。
「ありがとう。
元気だった?」
「うん! 今度は僕が先生を元気にする!」
その無邪気な言葉に、ルーシェは笑おうとして、うまく笑えなかった。
夜更け。
皆が帰ったあと、リオンは一人で調合台に立っていた。
手には古い記録帳があった。
「師匠?」
ルーシェが声をかけると、リオンは帳簿を閉じた。
「眠れなくてね」
「それ、何の記録ですか」
「昔の失敗だよ」
リオンは静かに答えた。
ルーシェが近づくと、彼は帳簿を引き出しにしまった。
「今度、ちゃんと話す」
「今度じゃなくて、今聞きたいです」
長い沈黙が落ちた。
やがてリオンは、震える右手を見下ろした。
「……私の体のことと、関係があるかもしれない」
ルーシェの胸が冷たくなった。
窓の外で、夜風が薬草の束を揺らした。
世界中の病を研究してきた薬師は、自分自身の病について、まだ弟子にすべてを話していなかった。




