第七十七話 弟子が師匠を超えた日
「装置を止めるんじゃありません」
ルーシェは地下室の壁に、大きな図を描いた。
「装置が読み取る信号を、変えるんです」
ヴァイスが首を振った。
「簡単に言うな。この装置は国中の魔力をつないでいる。
信号を変えれば、予想外の反応が起きるかもしれない」
「だから、まず小さな模型で試します」
ルーシェは机に三つの瓶を並べた。
一つは普通の回復薬。
もう一つはノエルが作った魔力を使わない薬。
最後の一つは、かつてリオンと一緒に作った個人適応型ポーションの検査液だった。
「患者の体に起きた変化を、装置は魔力の印で読み取っています。
でも、その印を別のものに置き換えたら?」
リオンが目を細めた。
「治療そのものは残して、装置には安全な別の反応だけを見せる?」
「はい。治療の結果を隠すのではなく、装置が戻そうとする対象を変えるんです」
ノエルが身を乗り出した。
「それなら、魔力の少ない僕でも調整できます。
魔力を使わない基準を作ればいいんです」
ルーシェは頷いた。
「お願い。
基準の方を担当して」
研究が始まった。
最初の模型実験は失敗した。
装置は別の信号を受け取ると、激しい警報を鳴らした。
「失敗です!」
ルーシェが叫び、ノエルが装置を停止した。
ヴァイスは額の汗をぬぐった。
「本物で試さなくて良かった……」
二度目の実験では、治療の信号を隠すことには成功した。
しかし、患者の状態を調べる検査まで反応しなくなった。
「これでは危険です」
ルーシェは自分で図面に大きなバツをつけた。
「治療を守るために、患者の異常を見逃すようでは意味がありません」
リオンは黙って見守っていた。
彼なら、もっと強い遮断の仕組みを考えただろう。
だがルーシェは、信号を消すこと自体を疑い始めていた。
「師匠、少し相談してもいいですか」
「もちろん」
「私は、装置に嘘をつこうとしていました。
でも、嘘をつくから複雑になるんです」
「じゃあ?」
「装置に、正しい別の仕事をさせます」
ルーシェは図を描き直した。
治療の結果ではなく、あらかじめ用意した小さな魔石の状態だけを戻す。
患者の体には干渉させない。
余った魔力は安全な貯蔵石へ逃がす。
「これなら、装置の仕組みを全部壊さずに済みます」
ヴァイスは図面を見て、言葉を失った。
「百年前の研究者たちは、病気を戻すことしか考えなかった。
装置に別のものを戻させるなんて……」
リオンは微笑んだ。
「私も、止める方法ばかり考えていたよ」
三度目の模型実験。
検査石が静かに光った。
薬の作用は消えない。
患者の状態も読み取れる。
装置が戻したのは、小さな魔石の変化だけだった。
「……成功?」
ノエルが呟いた。
「模型では、ね」
ルーシェは息を吐いた。
「次は本物です。
でも、急に全部切り替えません」
各地の医師へ連絡し、患者の状態を確認する体制を整えた。
装置の一部だけを切り替え、問題が起きれば戻せるようにした。
最初の切り替えで、地下室の灯りが揺れた。
ルーシェの心臓が跳ねた。
「魔力の流れ、安定しています!」
ノエルが叫んだ。
二つ目、三つ目の区画も切り替わる。
しかし最後の区画で、貯蔵石が赤く光った。
「限界です!」
ヴァイスが叫ぶ。
ルーシェはすぐに切り替えを止めた。
「無理に進めません。余分な魔力を先に逃がします!」
切り替えの前夜、ルーシェは一人で模型の前に座っていた。
壁には、失敗した図面が何枚も貼られている。
最初の警報、二度目の誤作動、三度目の成功。
紙には消し跡が重なり、何度も書き直した線が残っていた。
「眠れない?」
リオンが扉から顔を出した。
「少しだけ。
明日、失敗したらと思うと……」
「怖いね」
「はい」
リオンは隣に座った。
「私も初めて大きな調合を任されたとき、手が震えたよ。
師匠に、失敗するなら早めに失敗しろと言われた」
「変な教えですね」
「小さな失敗を隠さずに見つければ、大きな失敗を防げるって意味だったんだろうね」
ルーシェは模型を見つめた。
「師匠。私の案を、本当に信じていますか?」
「君が作った記録と、確かめた手順を信じているよ。
それに、危険なら止めると決めている君の判断も」
ルーシェは目を伏せた。
「師匠がいなかったら、私はここまで来られませんでした」
「私も、君がいなかったらここまで来られなかった」
リオンは立ち上がった。
「明日は一緒に、慎重にやろう」
「はい」
ルーシェはようやく模型の灯りを消した。
怖さは消えなかった。
でも、怖いまま進む方法は知っていた。
リオンは彼女を見た。
焦って一気に終わらせようとしない。
その判断こそ、薬師に必要な強さだった。
数時間後、最後の区画も安定した。
国中の鐘が鳴った。
診療所では、傷が戻らなかった。
熱が下がった患者の状態も、以前のようには逆戻りしなかった。
各地から次々に知らせが届く。
『異常なし』
『治療効果、維持』
『装置、安定』
ヴァイスは椅子に崩れ落ちた。
「百年……百年かかった問題が……」
ルーシェは壁にもたれ、ようやく笑った。
「師匠。
終わりました」
リオンは彼女の前に立った。
「うん。
君のおかげだ」
「みんなのおかげです」
「それでも、最後の発想は君のものだよ」
リオンは深く頭を下げた。
「今回は、完全に私の負けだね」
ルーシェは目を丸くした。
「師匠、勝負なんてしてません!」
「そうだね。でも、私は嬉しいんだ」
彼は笑った。
「弟子が、自分には思いつかなかった答えを見つけたんだから」
ルーシェは唇を噛んだ。
「……ずるいです」
「何が?」
「そんなこと言われたら、泣くに決まってるじゃないですか」
地下室に、小さな笑い声が広がった。
百年前の失敗を直したのは、世界一の薬師ではなかった。
その弟子だった。




