第六十五話 町から病人が減ったら、薬屋が潰れそうになった
ベルナの薬屋は、広場から一本入った通りにあった。
扉を開けると、乾燥した薬草の香りがした。
壁には薬瓶が整然と並び、奥には丁寧に磨かれた調合台が置かれている。
「いい店ですね」
ルーシェが言うと、店主のマルクは苦笑した。
「昔はな」
彼は帳簿を開いた。
「腹痛の薬が売れなくなった。
熱さましも減った。
病気が減るのは嬉しいさ。
俺だって、客が苦しむのを見たいわけじゃない」
「でも、売上が……」
「娘が王都の学校に通っている。
来月の学費をどう払うか、そればかり考えている」
ルーシェは黙った。
工房を続けるには、材料費も家賃も必要だ。
誰よりそれを知っているはずだった。
「マルクさんは、どんな仕事が得意ですか?」
リオンが尋ねた。
「何だ、突然」
「薬を売る以外に、です」
「薬師なんだから薬を作るのが仕事だろう」
「でも、薬師ができることは、それだけじゃないですよね」
マルクはしばらく考えた。
「薬の飲み合わせを調べたり、患者の体質に合わせて量を変えたりはしている。
最近は年寄りの家に薬を届けることもあるな」
「それです」
「何が?」
「その仕事に、きちんと値段をつけましょう」
マルクは目を丸くした。
「薬を売らずに金を取れと?」
「必要な知識や時間には、価値があります」
ルーシェが勢い込んで説明した。
「定期的な薬の確認、健康相談、井戸水の簡易検査。
病院と連携して、異常があれば医師に紹介する仕事もできます」
「そんな相談に、誰が金を払うんだ」
「町と商会です」
マルクは椅子から立ち上がった。
「町長がそんな金を出すものか!」
「だから、まず数字を見せましょう」
ルーシェは、診療所の記録を机に広げた。
以前は同じ病気を繰り返していた人が、今は受診する回数を減らしている。
重症化する前に相談できれば、病院の負担も減る。
「まだ短い期間の結果ですけど、試す価値はあります」
マルクは帳簿と記録を交互に見た。
「……話だけなら、聞いてやる」
翌日、町長を交えた会議が開かれた。
しかし、話は簡単には進まなかった。
「健康な人の相談に、町の金を使うのか?」
町長は眉をひそめた。
「病人に使う金も足りないのに」
「病気を防ぐための費用です」
ルーシェは答えた。
「病気になってから治すより、安く済む場合があります」
「場合がある、では困る。
役所の金は町民の金だ」
リオンは静かに頷いた。
「そのとおりです。
では、最初から大きく始めるのはやめましょう」
「どうする?」
「三か月だけ、対象を絞って試すんです。
費用も成果も記録する。
良くなければやめる」
町長は腕を組んだ。
「三か月か……」
「それと、相談した人が病院に行くべきかどうかは、必ず医師と連携して判断します」
ルーシェが付け加えた。
町長はようやく頷いた。
「試験事業としてなら、認めよう」
こうして、マルクの薬屋に小さな相談窓口ができた。
最初の日、客は一人も来なかった。
二日目も、誰も来なかった。
三日目の夕方、マルクは腕を組んでルーシェを睨んだ。
「ほら見ろ。
誰も金を払って相談なんかしない」
「まだ三日です!」
「三日もだ」
そのとき、扉が開いた。
洗濯屋の女性が、おずおずと入ってきた。
「あの、薬を買いに来たわけじゃないんですけど……」
マルクは椅子から立ち上がった。
「どうしました?」
「手が荒れてしまって。
毎日洗濯していると、赤くなって痛いんです」
女性の指先はひび割れ、ところどころ赤くなっていた。
マルクは丁寧に状態を確認し、使っている洗剤や作業時間を聞いた。
「最近、洗剤を変えましたか?」
「ええ。
よく落ちる新しいものに」
「それが刺激になっているかもしれません。
まず洗剤を見直して、作業中は手を保護してください。
傷が悪化するなら医師に診てもらいましょう」
女性は驚いた。
「薬は?」
「今の話だけなら、まず生活の方を変えてみましょう」
「薬屋さんなのに、薬を売らないんですね」
マルクは苦笑した。
「俺も、まだ慣れてないんです」
一週間後。
女性は友人を三人連れて戻ってきた。
「この前の相談で手が楽になったの。
みんなも困っていることがあるんだって」
友人の一人は、夜になると咳が出るという。
もう一人は、薬を二種類飲んでいて、同時に使っていいか不安だという。
三人目は、父親の薬を取りに来るたび、飲み忘れが増えていることを心配していた。
マルクは一人ずつ話を聞いた。
必要な場合は医師につなぎ、薬の使い方を記録し、次回確認する日を決めた。
閉店後、マルクは椅子に座り込んだ。
「……今日は薬をほとんど売ってないのに、忙しかった」
「どうでした?」
ルーシェが尋ねる。
「疲れた。
でも、悪くない」
その表情は、初めて店を訪れたときより明るかった。
三か月後。
町の試験事業は継続されることになった。
相談を受けた住民の満足度は高く、重い症状を見逃さないための医師との連絡も機能し始めていた。
マルクの収入は以前ほど不安定ではなくなった。
「まさか、薬を売らない仕事で店を続けられるとはな」
「薬師の仕事が増えたんですよ」
ルーシェは笑った。
ところが、最後の報告書をまとめていたとき、奇妙な記録が見つかった。
健康な住民の何人かが、毎日ほぼ同じ時間に強い疲労を訴えていた。
「仕事も年齢も違うのに……」
ルーシェは記録を並べた。
症状が出るのは、決まって夕方。
町の鐘が鳴る頃だった。
「師匠。
これ、何か変じゃありませんか?」
リオンは記録を見て、ゆっくり顔を上げた。
「うん。
今度は町の生活の中に、原因がありそうだね」




