第六十四話 薬を飲まない町を作ってみた
ベルナの町に到着したとき、リオンとルーシェを迎えたのは歓迎の花束ではなかった。
『薬を取り上げるな!』
町の広場に、そう書かれた板が立っていた。
「師匠、私たち、何か悪いことをしましたっけ?」
「まだ何もしてないね」
「それが一番困るんです!」
広場には三十人ほどの住民が集まっていた。
腕を組んだ鍛冶屋、買い物籠を抱えた主婦、杖をついた老人。
誰もが二人を警戒している。
「王都の薬師が、町から薬をなくすって聞いたぞ!」
最初に声を上げたのは、顔を煤で黒くした鍛冶屋だった。
「うちの親父は毎日薬が必要なんだ。
飲むなと言われたらどうする!」
「飲んでください!」
ルーシェが思わず叫ぶと、広場が静まった。
「必要な薬は、今までどおり使ってください。
むしろ勝手にやめないでください!」
「じゃあ『薬を飲まない町』って何なんだ?」
「病気を防げるところから防いで、必要な薬を減らせる町にしたいんです」
説明したつもりだったが、住民の顔にはまだ疑いが残っていた。
町長のハロルドが咳払いをした。
「皆さん、まずは話を聞いてください。
王宮と中央病院が認めた事業です」
「王宮が認めたから安心ってわけじゃないだろう」
後ろから飛んだ声に、町長は言葉を詰まらせた。
リオンは一歩前へ出た。
「そのとおりです。
偉い人が認めたから安全とは限りません。
だから、皆さんに確かめてもらいたいんです」
「何を?」
「私たちが、何をするのかを」
リオンは持参した木箱を開いた。
中にあったのは、高価な万能薬ではなかった。
水を調べる検査石、手洗い用の石鹸、体調を記録する紙、それから何冊もの空白の帳簿だった。
「薬は?」
「必要になったら使います。
まず、皆さんがどんなことで困っているのか教えてください」
老人が杖を突いて前へ出た。
「冬になると、うちの孫は毎年腹を壊す。
薬を飲めば治るが、また次の冬に同じことになる」
「水はどこから汲んでいますか?」
「東の井戸じゃ」
別の女性が顔を上げた。
「うちの子もです。
東の井戸を使ってます」
ルーシェは帳簿を開いた。
「師匠、最初の仕事が決まりましたね」
東の井戸は、町外れの低い土地にあった。
石組みは古く、井戸の周りには雨水がたまっている。
すぐ近くには家畜小屋があり、地面に細い水の流れた跡が残っていた。
「見た目は普通の水ですね」
ルーシェは汲み上げた水を透明な瓶に入れた。
「見た目だけで決めないこと」
「分かっています」
検査石を浸すと、表面に薄い灰色の筋が浮かんだ。
「……反応しました」
リオンは別の井戸から汲んだ水でも同じ検査を行った。
そちらは変化しない。
「東の井戸だけ、何かが混じっている可能性があるね」
「毒ですか?」
「まだ分からない。
まずは使うのを控えてもらって、詳しく調べよう」
ところが、井戸を一時的に閉鎖すると伝えた途端、住民は猛反発した。
「水を止められたら飯が作れない!」
「西の井戸まで毎日歩けっていうのか!」
「病気になるかもしれないからって、今日の生活を止める気か!」
ルーシェは口を開きかけて、閉じた。
正しいことを言っているはずなのに、相手が怒る理由も分かる。
水がなければ、人は暮らせない。
「師匠、どうしましょう」
「井戸を使わずに暮らせる方法を、先に作ろう」
二人は町長と一緒に地図を広げた。
町の北には湧き水がある。
ただし距離があり、老人や子どもが毎日運ぶには遠すぎた。
「馬車で運べばいいんじゃないですか?」
「毎日、何台必要かな」
ルーシェは世帯数と一日の水の使用量を計算した。
必要な量は予想よりずっと多かった。
「……馬車だけじゃ足りません」
「だったら、運ぶ量を減らす方法も考えよう」
町の大工が提案した。
「湧き水から仮の水路を引けるかもしれない。
木の樋なら三日で作れる」
「樋が漏れたら?」
「俺たちが直す」
鍛冶屋も手を挙げた。
「継ぎ目の金具は任せろ」
最初に抗議していた男だった。
翌朝、町の人々が北の丘に集まった。
木を切る者。
樋を削る者。
土を掘る者。
水を運ぶ者。
リオンとルーシェも作業に加わったが、慣れない力仕事で、昼前には二人とも泥だらけになった。
「師匠、ポーションで筋肉痛を治したいです」
「それを言い出すと、この実験の意味が薄れるね」
「筋肉痛の予防法を研究しましょう!」
「まずは休憩と水分補給かな」
三日目の夕方。
仮設の水路から、広場の水桶へ澄んだ水が流れ込んだ。
子どもたちが歓声を上げる。
井戸を閉じられて怒っていた老人も、流れる水をじっと見つめていた。
「薬師が来たら、薬を配ると思っておった」
「期待外れでしたか?」
ルーシェが尋ねると、老人は首を振った。
「いや。
水の方が、毎日使える」
その後の詳しい調査で、東の井戸には家畜小屋の排水が流れ込んでいる可能性が高いと分かった。
町は井戸の周囲を改修し、水質を定期的に調べることにした。
一か月後。
ベルナの診療所から報告が届いた。
腹痛を訴える患者が減り、冬に備えて健康相談を受ける住民が増えていた。
「成功ですね!」
ルーシェは喜んだ。
「まだ一か月だよ。
季節の違いもあるから、長く見ないとね」
「師匠は慎重すぎます」
「ルーシェも、そのうちそうなるよ」
そのとき、診療所の扉が開いた。
入ってきたのは、町で唯一の薬屋を営むマルクだった。
彼は笑っていなかった。
「リオン先生。
話があります」
「何でしょう?」
マルクは帳簿を机に置いた。
「患者が減ったのは結構なことです。
だが、このままだと、うちの店がなくなります」
帳簿の売上欄には、前月の半分以下の数字が並んでいた。
ルーシェは、喜んでいた自分の顔が熱くなるのを感じた。
病気を減らすことには成功した。
だが、その成功によって困る人が、目の前に立っていた。




