第六十三話 患者が減った病院で、医師たちが困っていた
ベルナでの予防医療実験が決まった翌朝、王都中央病院の会議室には、いつもより多くの椅子が並んでいた。
「健康な人を診るために医師を増やすだと?」
「重症病棟の夜勤すら埋まらないのに、誰が行くんだ!」
リオンとルーシェが入ったときには、すでに怒号が飛び交っていた。
机の中央に置かれた計画書には、『病気になる前に相談できる町を作る』と書かれている。
「いい目標だ。
だが、誰がその仕事をする?」
白髪の外科医グレンが、ルーシェを睨んだ。
「昨夜、私は腕を切断しかけた労働者の手術をしていた。
今朝は熱の下がらない子どもを診た。
そこへ健康な人の検査まで引き受けろというのか」
「そういうつもりでは……」
「では、どういうつもりだ」
ルーシェは言葉に詰まった。
院長が机を叩いた。
「まず最後まで説明を聞こう」
だが、グレンは引かなかった。
「院長、数字を見せてください。
予防事業が始まってから、病院の収入は減った。
一方、救急病棟の維持費は減っていない。
ここへ新しい事業を載せたら、誰かが倒れます」
ルーシェは拳を握った。
彼の言うことは正しい。
それでも、病気にならずに済む人を増やしたいという願いまで、間違っているとは思えなかった。
「私は、病院に来る患者さんを減らしたいわけじゃありません」
「同じことだろう」
「違います!」
声が大きくなり、会議室が静まった。
「病院に来たくても来られない人がいます。
先日のパン職人ダリオさんは、検査で異常なしと言われたあとに倒れました。
検査を受けたから安心してしまったんです」
ルーシェは検査票を掲げた。
「私は、この『異常なし』という書き方をやめました。
検査は万能じゃありません。
だから、普段の暮らしの中で相談できる場所が必要なんです」
グレンは鼻を鳴らした。
「相談場所を増やせば、心配性の患者が押し寄せるぞ」
「その危険もあります。
だから、誰が何を判断していいのか決めます」
ルーシェは黒板に線を引いた。
生活相談。
基本的な測定。
医師の診断。
緊急搬送。
「薬師や看護師ができることは、研修を受けた人が担当します。
診断や治療の判断は医師に任せる。
異常が疑われたら、必ず病院へつなぎます」
若い医師が手を挙げた。
「だが、研修を受けたばかりの者が異常を見落としたら?」
「そのときのために、検査記録と紹介基準を共通にします。
見落としも公開して、改善します」
「患者の命を練習台にするつもりか!」
グレンの声が響いた。
ルーシェは顔を赤くした。
「違います。
だから、いきなり全員を対象にしないんです」
そのとき、扉が開いた。
「院長先生!」
看護師が息を切らしていた。
「昨日退院予定だった荷運びの青年が、また呼吸を苦しがっています。
付き添いの妹さんが泣いていて……」
院長とグレンが立ち上がった。
「会議は中断だ」
リオンも同行した。
病室には、先日高熱で運ばれた青年が横たわっていた。
妹が寝台の端を握っている。
「お兄ちゃん、帰れるって言ったのに」
少女の声は震えていた。
グレンは青年を診察し、院長と相談して治療を調整した。
ルーシェは器具を運び、記録を取った。
しばらくして呼吸が落ち着くと、少女がグレンの袖を引いた。
「先生、また明日も来てくれる?」
「ああ。
必ず来る」
その言葉は、会議室での怒声とはまるで違っていた。
廊下へ出たあと、ルーシェは尋ねた。
「グレン先生。
どうして、そんなに反対するんですか」
グレンは疲れた顔で壁にもたれた。
「私は予防医療が嫌いなんじゃない」
「え?」
「病人が減るなら嬉しいさ。
だが、去年、夜勤明けの若い医師が倒れた。
代わりの医師を雇う金もない。
新しい制度のために、また誰かが無理をするのが怖いんだ」
ルーシェは息を呑んだ。
彼は病院の収入を守ろうとしているのではない。
患者を守るために働く人を、守ろうとしていた。
「……すみません。
私、先生の話をちゃんと聞いていませんでした」
「いや。
私も怒鳴りすぎた」
二人は少しだけ笑った。
会議室へ戻ると、ルーシェは計画書の最初のページを破った。
「何をしている?」
院長が驚く。
「この計画、現場の負担を十分に考えていませんでした。
作り直します」
彼女は新しい紙を広げた。
「まず、医師の仕事を増やさないことを条件にします。
ベルナで相談窓口を担当するのは、研修を受けた薬師と看護師。
病院は紹介を受けた患者の診断と、緊急時の対応に集中します」
グレンが尋ねた。
「紹介患者が増えたら?」
「受診数と重症度を毎週確認します。
負担が増えすぎたら対象を絞ります。
制度を続けるために現場を壊したら意味がありません」
院長が頷いた。
「それで、金はどうする」
会議室が再び静まった。
ルーシェは黒板に大きく書いた。
『健康な人も、病院を支える』
「町と商会、王宮に費用を分担してもらいます。
病気になった人だけが病院を支える仕組みを変えるんです」
財務担当の事務長が首を振った。
「商会が善意だけで金を出すとは思えん」
「善意だけに頼りません」
ルーシェはダリオの店の記録を取り出した。
「働く人が倒れれば、店は人手を失います。
病気を防ぐことは商会にも利益があります。
ただし、効果があると決めつけず、費用と結果を三か月調べます」
「三か月で結果が出なかったら?」
「中止か見直しです」
グレンが初めて身を乗り出した。
「重症患者の治療費は、どう守る」
「予防事業の予算とは別に、救急病棟の維持費を確保します。
病人が減ったから病棟を閉じる、ということにならないように」
院長は長い間、黙っていた。
やがて、机の上の帳簿を閉じた。
「それなら、王宮と商会に話を持っていける。
だが条件がある」
「何でしょう」
「医師も薬師も、無理をしているときは無理だと言える仕組みにしてくれ」
ルーシェは力強く頷いた。
「はい」
グレンがため息をついた。
「研修の内容なら、私も見よう。
ただし、危険な判断を現場任せにするなら容赦なく反対する」
「お願いします!」
その返事に、会議室から小さな笑いが起きた。
夕方、病院を出たルーシェは、石段に座り込んだ。
「師匠。
今日は薬を百本作るより疲れました」
「いい仕事だったね」
「師匠は途中から、ずっと黙ってましたよね」
「ルーシェが、ちゃんと話を聞けるようになったから」
「……でも、最初は聞けていませんでした」
「気づいて直せたなら、それでいいんだよ」
工房へ戻ると、ベルナの町長から手紙が届いていた。
『試験事業の受け入れを了承する。
ただし住民の間では、薬を飲むことが禁止されるとの噂が広まっている』
ルーシェは手紙を二度読んだ。
「誰がそんな話にしたんですか!」
リオンは旅用の鞄を取り出した。
「今度は、町の人の話を聞きに行こう」
ルーシェも鞄を持った。
病院の医師に反対された理由は、今日ようやく分かった。
町の人々が何を怖がっているのかは、まだ分からない。
だから、次の仕事も決まっていた。
まずは、相手の声を聞くことだった。




