第六十一話 病気を減らしたら、病院から苦情が来た
王都中央病院からの抗議文は、朝食のパンより先に工房へ届いた。
「師匠、たいへんです!」
ルーシェが扉を開けた勢いで、棚の乾燥薬草が揺れた。
「今度は何が爆発したの?」
「何も爆発していません! 病院から抗議です!」
「それは珍しいね。
薬が効かなかった?」
「逆です。
効きすぎたんです!」
リオンは手紙を受け取った。
『貴工房が主導する予防検査事業の影響により、当院の外来患者数が減少している。
診療体制の維持に重大な支障が生じているため、至急説明を求める』
「患者が減ったなら、喜ばしいことじゃないかな」
「私もそう思ったんですけど、院長先生は全然喜んでいません」
手紙には、外来患者の推移を示す表が添えられていた。
三か月前と比べ、軽い発熱や腹痛で受診する人が明らかに減っている。
井戸水の検査、手洗いの普及、薬の正しい使い方を教える講習。
どれもリオンたちが進めてきた仕事だった。
「いい数字だ」
「でしょう? なのに苦情なんです」
「数字は一つじゃないよ」
リオンは表の下に記された小さな注記を指した。
『重症病棟維持費、前月比赤字』
ルーシェの笑顔が消えた。
「……重い病気の人を診るお金が、足りない?」
「たぶんね。
行って話を聞こう」
中央病院は、王都で最も大きな医療施設だった。
白い石造りの建物には、いつも患者と付き添いの家族が行き交っている。
ところが今日は、玄関前の長椅子がいくつも空いていた。
「こんなに静かな病院、初めて見ました」
「静かなのはいいことだけどね」
院長室へ通されると、白髪の院長が分厚い帳簿を机に置いた。
「お待ちしておりました、リオン殿」
「手紙を読みました。
患者が減ったそうですね」
「ええ。
あなた方のおかげで」
礼を言っているようには聞こえなかった。
院長は帳簿を開いた。
薬の売上、診察料、病床の維持費、夜勤の医師への報酬。
細かな数字がびっしり並んでいる。
「軽症患者の診察料で、重症病棟の費用を補ってきました。
ところが軽症患者だけが減り、重症患者は残った。
薬も人員も設備も必要です。
このままでは病棟を一つ閉じなければなりません」
ルーシェは思わず口を開いた。
「でも、病気を減らすのは良いことですよね?」
「もちろんです。
医師としては喜ばしい。
しかし病院を経営する者としては、明日から患者をどこへ運べばいいのか考えなければならない」
院長は窓の外を見た。
「昨夜も、遠くの村から重い肺炎の少年が運ばれてきました。
あの子の治療には、普通の診察料の何十倍もかかる。
金が足りないからといって追い返せますか?」
ルーシェは黙った。
病気を減らせば、すべて良くなると思っていた。
少なくとも、病院が困るとは考えていなかった。
「先生。
では、病人が増えればいいんでしょうか」
リオンが尋ねると、院長は顔を上げた。
「何を馬鹿なことを!」
「ですよね。だったら、病人が増えなくても病院が続く仕組みを考えるしかありません」
院長の眉が動いた。
「簡単に言ってくれる」
「簡単ではないと思います。
だから、現場の人に相談したいんです」
そのとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
「院長先生! 救急です!」
若い看護師が飛び込んできた。
「荷運びの青年が倒れました。
高熱と呼吸困難です!」
院長は椅子を蹴るように立ち上がった。
「診察室を開けろ。
リオン殿、手伝っていただけますか」
「もちろん」
運ばれてきた青年は、まだ二十歳そこそこだった。
汗で髪が額に張りつき、浅い呼吸を繰り返している。
付き添いの母親は、息子の手を握ったまま泣いていた。
「三日前から熱があったんです。
でも、病院に来るお金がなくて……」
リオンは診察を補助し、院長が治療方針を決めるのを待った。
ルーシェは必要な器具を揃え、患者の体温と脈拍を記録した。
治療が始まり、青年の呼吸が少し落ち着いた頃、母親が深く頭を下げた。
「もっと早く来ればよかった。
どうか、この子を助けてください」
院長は母親の肩に手を置いた。
「できることをします」
その姿を見て、ルーシェは胸が苦しくなった。
病院がなくなれば、この親子はどうなるのだろう。
院長室へ戻ったあと、彼女は帳簿をもう一度開いた。
「師匠、健康な人にも、病院を支えてもらうことはできませんか」
「どういうこと?」
「病気になったときだけお金を払うから、病気が減ると病院が困るんですよね。
だったら、健康なときに少しずつ負担して、定期検査も受けられるようにするんです」
院長が身を乗り出した。
「町全体で医療を支えるというのか」
「はい。
商会や王宮にも協力してもらって。
重症患者の治療費を、軽症患者の数に頼らなくてもいいように」
リオンは嬉しそうに笑った。
「それなら病院は、病気を減らすほど損をする場所じゃなくなるね」
院長はしばらく考え込んだ。
「……すぐには変えられん。
金を出す者も、制度を決める者も必要だ」
「では、一つの町で試しましょう」
ルーシェが答えた。
院長は初めて、少しだけ笑った。
「君は薬師なのか、それとも役人なのかね」
「薬師です。
役所の書類は苦手なので!」
帰り道、リオンが言った。
「今日は薬を一滴も作らずに、いい仕事をしたね」
「師匠がいつも言っていることです。
薬を売るのが目的じゃないって」
「でも、まだ問題は残ってる」
「はい。病気にならない町を、本当に作れるかどうかです」
工房へ戻ると、受付に一人の女性が待っていた。
「ルーシェ先生。
先週、健康だと言われた夫が、今朝倒れたんです」
女性の手には、ルーシェ自身が記入した検査票が握られていた。
判定欄には、はっきりと『異常なし』と書かれていた。
ルーシェは、紙を受け取る手が震えるのを止められなかった。




