第三十八話 治した傷が、別の誰かに現れる
研究日誌を読んだルーシェは声を失った。
「誰かを治したら、別の誰かが傷つく……?」
リオンは頷く。
「回復の負担を消すんじゃなくて、移す薬だね」
若返り薬は、その技術を使っていた可能性があった。
実証するため、二人は過去の患者記録を調べた。
若返り薬を飲んだ人の近くで働いていた使用人に、原因不明の疲労が集中している。
「薬を飲んでいない人まで被害者なんですね」
ルーシェは拳を握った。
その日の午後、工房に少年が駆け込んだ。
「母さんが! 突然、昔の傷から血が出て!」
女性の腕には十年前に治ったはずの傷が開いていた。リオンは出血を抑え、負担の少ない治療を施した。
「命は助かる。今は安静に」
少年が泣きながら母親の手を握る。
リオンはルーシェに小声で告げた。
「薬の負担が、時間差で戻ってきてる」
「誰がこんなものを……」
「作った人は、たぶんもういない」
「どうして分かるんですか?」
「日誌の最後のページを見て」
そこには一行だけ残されていた。
『最初の被験者は私自身。残り時間は七日』
午後、少年が母親を連れてきたとき、女性は腕を布で強く押さえていた。布の端から赤い血が染み出している。
「昨日まで何ともなかったんです!」
少年の声が裏返った。
リオンが布を外すと、古い縫合痕に沿って皮膚が裂けていた。十年前に事故で負った傷だという。
「まず出血を止める。ルーシェ、清潔な布と検査液を」
ルーシェは走った。女性は痛みに耐えながら言った。
「どうして今さら。あのとき、ちゃんと治ったのに」
「まだ原因は断定できない。でも、今の傷は俺たちが処置する」
止血はできた。
ところが二時間後、別の場所に細い裂傷が現れた。
皮膚を引っかいたわけでもない。傷が移動するように再発していた。
「師匠、治療が効いていません!」
「いや、最初の傷は塞がっている。別の場所で負担が表に出ているんだ」
リオンは日誌を読み返した。
回復反動を外へ移す技術。
十年前の治療記録。近くにいた使用人の不調。
「これは傷が移った証拠なのか、それとも同じ原因で二人が傷ついているのか。まだ分からない」
ルーシェははっとした。恐ろしい仮説ほど、すぐに信じてしまいそうになる。
二人は女性の同意を得て、発症時刻と症状を細かく記録した。
治療は急激な回復を避け、体が耐えられる範囲で進める。
夜、少年が母の手を握っていた。
「僕が代わりに痛くなればいいのに」
女性は弱く首を振る。
「そんなこと、言わないで」
リオンは二人を見つめた。
「誰かの痛みを別の誰かに押しつける。それを治療とは呼びたくない」
ルーシェはその言葉を記録帳の余白に書いた。
夜明け前、女性の出血は落ち着いた。しかし原因はまだ残っている。
日誌の最後にある『残り時間は七日』の文字を見て、ルーシェは呟いた。
「この薬を作った人は、自分も同じ苦しみを知っていたんでしょうか」




