04.どうしたものか留学生が気になるようです
昼食を終えた私たちは、午後の講義を受けるため学び舎へ戻った。
大きな窓から差し込む日差しが、長い廊下の床を明るく照らしている。
朝にはどことなく緊張した面持ちだった生徒たちも、今は何人かで連れ立ち、楽しそうに言葉を交わしながら講義室へ向かっていた。
「次は宮廷史でしたね」
隣を歩くシルフィアが講義表を確かめる。
「私は歴史が好きです」
ナイアさんが嬉しそうに言った。
「歴史がお好きなのですか?」
「はい。昔の出来事を知ると、今の皇室と水領の関係がどうしてこの形になったのかも分かりますから」
いかにもナイアさんらしい答えだった。昔から、自分の家や領地のことには熱心だった。
「宮廷史は、覚える名前が多そうですね」
歴史そのものは嫌いではないけれど、そこだけは少し心配だった。
「ルシアは人の名前を覚えるのが苦手だものね」
シルフィアにはすっかり知られている。
「それは昔からですわ」
ナイアさんまで当然のように言うので、思わずそちらを見た。
「昔からですか?」
「七歳の時も、領主館へいらした方のお名前を翌日には忘れておられました」
……そんなこともあったかもしれない。
「ですが、人の顔は覚えておられるのですよね。昔から不思議でした」
言われてみれば、名前が出てこなくて困ることはあっても、顔まで忘れてしまうことは少ない気がする。
「顔のほうが覚えやすいのかもしれません」
「普通は一緒に覚えるものではありませんか?」
ナイアさんに真顔で返されてしまった。
ナイアさんとは幼い頃から、領内の行事や家同士の付き合いで何度も顔を合わせてきた。
学院はまだ知らない場所ばかりだけれど、こうして話していると、水領にいた頃とそれほど変わらない気がしてくる。
いつの間にか、朝から残っていた緊張も薄れていた。
やがて講義室へ着き、午後の授業が始まった。
宮廷史では建国初期の年表が配られ、礼法では挨拶の作法を復習し、魔法理論基礎では魔力の流れについて学んだ。
どれも初回らしい内容だった。
最後の講義が終わる頃には、窓から差し込む日差しが赤みを帯びていた。
「本日はここまでです」
教師が教本を閉じると、それまで静かだった講義室に一斉に物音が戻った。
私も羽ペンを置き、教本と筆記帳をまとめる。
「ルシア様、寄宿舎までご一緒いたします」
「私も!」
「ありがとうございます」
三人で生徒たちの流れに交じって講義室を出たところで、後ろから小さな音がした。
ぱさり、と何かが床へ落ちる。
振り返ると、廊下の床に一冊の本が落ちていた。
すぐ近くを歩いていた生徒たちは話に夢中なのか、そのまま通り過ぎていく。
私は足を止めて本を拾い上げ、持ち主らしい姿を探した。
少し先を、腰まで届く長い黒髪の少女が歩いていた。
皇国ではあまり見かけない装いにも、見覚えがある。
今朝の顔合わせで見た、セレネ・ノクス・レギナ殿下だ。
私は本を抱え、その背中を追いかけた。
「落とされましたよ」
呼びかけると、黒髪が揺れた。
振り返ったセレネ殿下の紫の瞳が、わずかに見開かれる。その視線は私の顔から、抱えている本へと移った。
「あ……ありがとうございます」
少し驚いたように目を瞬かせてから、セレネ殿下は丁寧に頭を下げた。
「どうぞ」
「助かりました」
差し出した本を、白い指がそっと受け取る。
ほんの短いやり取りだったけれど、昼食の時に聞いた言葉が、不意に頭をよぎった。
――邪神を信仰しているのでしょう?
――少し怖いです……。
セレネ殿下が受け取った本の表紙が目に入った。
『皇国神話学入門』
今日の授業で使った教本とは違う。
「神話学の本ですか?」
「……ノクティスでは少し違う内容を学びますので」
「そうなんですね」
図書館で借りたのだろうか。
皇国の神話学では、闇神は邪神として語られている。
自分たちが崇める神をそう記した本を、セレネ殿下はどのような気持ちで読んでいるのだろう。
「では、ありがとうございました」
セレネ殿下はもう一度小さく会釈すると、本を胸元に抱えて歩き出した。
私はその背中をしばらく見送った。
「……怖い方には見えませんでした」
口にすると、ナイアさんは少し困ったように眉を下げた。
「それだけでは分かりませんわ」
交わした言葉はほんのわずかだ。
あれだけで、セレネ殿下がどのような方なのか分かるはずもない。
でも、それは昼食の時に聞いた話だって同じではないだろうか。
もう一度振り返ると、長い黒髪は廊下の向こうへ遠ざかっていた。
もっと話してみたい。
そう思いながら、私はナイアさんたちと寄宿舎への道を歩き始めた。




