25.いよいよ学院へ旅立つ前夜のようです
学院への出発を翌日に控えた夜。
私室には荷造りを終えた木箱がいくつも並んでいた。
ドレスや装飾品、普段着に羽ペンとインク壺。それから、お気に入りの本。
必要なものはほとんど揃っていた。
それなのに、なんだか落ち着かない。
私は読みかけの本を閉じた。
「眠れないのですか?」
侍女が心配そうに尋ねる。
「少しだけ」
そう答えると、侍女は優しく微笑んだ。
「学院へ向かわれる前日は、皆様そうおっしゃいます」
そういうものなのだろうか。
しばらくすると、扉を叩く音がした。
「ルシア様!」
元気な声が聞こえてきた。
「どうぞ」
入ってきたのは、テオとミーナだった。
二人とも、どこかそわそわしている。
明日から、私は皇立宮廷学院へ、テオは皇立騎士学院へ、ミーナは皇立侍女学院へ通う。学院は別だけれど、同じ敷地内にあり、朝と夕方には今まで通り会えるらしい。
二人とも一緒に皇都へ来てくれると知ったときは、少し安心した。
「ルシア様も眠れませんか?」
「少しだけ」
「俺もです!」
テオが目を輝かせている。
どうやら私とは違う意味で眠れないらしい。
「皇都ってどんなところなんでしょうね!」
「大きいらしいですよ」
「騎士もたくさんいるでしょうか?」
「いると思います」
答えるたびに、テオの目がますます輝いていく。どうやら頭の中は、もう明日からの学院生活でいっぱいらしい。
「俺、絶対に一番強い騎士になります!」
テオは拳を胸に当てた。
「その時は、俺がルシア様を守ります!」
「ふふ。楽しみにしています」
一方でミーナは少し不安そうだった。
「私……ちゃんとお役に立てるでしょうか」
「大丈夫です」
私は答えた。
「ミーナは昔からしっかりしています」
「そうでしょうか」
「そうです」
するとミーナの表情が和らいだ。
「私たちも頑張ります!」
「一緒に頑張りましょう」
「はい!」
嬉しそうに頷いた二人を見送った後も、眠る気にはなれなかった。
私は小さな魔道灯を手に、部屋を出た。
どこへ行こうと決めていたわけではない。
けれど気づけば、お母様の部屋の前に立っていた。
少しだけ躊躇ってから、扉に手をかけた。
手にした魔道灯の淡い光が、暗い室内を照らした。
部屋の中は、お母様がいた頃とほとんど変わっていなかった。
本棚には本が並び、机と窓辺の椅子も、記憶にある場所にそのまま置かれている。
もうお母様はいないのに、ここへ来ると、今にもあの椅子に座っている姿を見つけられそうな気がした。
「……あら」
窓辺に人影があった。
セシリアさんだった。
月明かりを受けながら庭を眺めていた姉が、こちらを振り返る。
「ルシア」
「セシリアさん」
姉はいつもの柔らかな笑みを浮かべた。
私は持っていた魔道灯を机の上へ置き、姉のそばへ向かう。
「やっぱり来たのね」
「セシリアさんもです」
「なんとなく」
二人で窓の外を眺めた。
夜の庭園は静まり返り、月明かりが木々の梢を淡く照らしていた。
「いよいよ学院ね」
「はい」
「楽しみ?」
「少し」
「少し?」
姉が不満そうな顔をした。
姉は指先で、私の髪をそっと耳に掛けた。
「もっと楽しみにしなさいよ」
「勉強ですよ?」
「お茶会もあるし、お買い物もあるし、一緒に遊べるじゃない!」
そう言って、姉は嬉しそうにほほ笑んだ。
「今までは長い休暇の時しか会えなかったでしょう?今度は同じ皇都だもの」
姉はそっと私の手を握った。
「困ったらすぐ会えるし、一緒にお茶もできるわ」
どうやら姉の中では、私の学院生活には勉強以外の予定もたくさん組み込まれているらしい。
「……勉強は?」
念のため尋ねると、姉はきょとんと目を瞬かせた。
「もちろん勉強もよ」
ふと机の上を見ると、家族の肖像画が置かれていた。
「お母様なら何て言うでしょう」
懐かしい笑顔を見つけながら、姉に尋ねた。
「忘れ物はない?」
姉は即答した。
あまりにもそれらしくて、思わず吹き出した。
「本当に言いそうです」
「でしょう?」
お母様は心配性だった。
きっと何度も確認したと思う。
私は肖像画を見つめた。
肖像画の中のお母様は、穏やかに微笑んでいた。
私の記憶の中にある笑顔と、何も変わらない。
「お母様に、もっと色々聞いておけばよかったです」
気付けば口にしていた。
「……そうね。私もそう思うわ」
姉の視線も、肖像画へ向いた。
「でも、お母様なら喜ぶと思う」
「何をですか?」
「ルシアが学院へ行くこと」
「そうでしょうか」
「ええ」
姉は自信満々に頷いた。
「だってルシアのこと、大好きだったもの」
胸の奥が少しだけ温かくなった。
けれど同時に、チクリと痛む。
お母様は私を愛してくれていた。
でも私は、その愛情に何も返せていなかった気がする。
ずっと、家族としての距離を計りかねていたからだ。
それは今も、あまり変わっていない。
すぐ隣にいる姉へ、そっと視線を向ける。
月明かりに照らされた輪郭が、朧げに浮かび上がっている。
夜の静けさの中、二人でしばらく何も話さなかった。
やがて姉は立ち上がる。
「もう遅いわ。明日に備えて休みましょう」
「はい」
部屋を出て、姉と廊下で別れる。
私も自室へ戻ろうとしたところで、家族用の小居間から灯りが漏れていることに気づいた。
こんな時間に誰だろう。
扉を覗くと、アストさんがいた。
卓上には何冊かの本と書類が広げられ、兄はその一つに目を落としている。
「まだ起きていたのですか」
「お前もな」
私が入っても、しばらくは顔を上げなかった。
そんなところが兄らしかった。
「明日出発ですね」
「ああ」
兄は書類を一枚めくった。
「学院では本ばかり読むなよ」
「なぜですか」
「歩きながら読むからだ」
「読みません」
今度こそ顔を上げるかと思ったけれど、兄の視線は書類に落ちたままだった。
「読む」
なぜそんなに断言できるのだろう。さすがに歩きながらは読んでいない……と思う。
「それから、迷子になるな」
「なりません」
ようやく兄がこちらを見た。疑わしそうな目だった。
「どうだかな」
皇都は領都よりずっと広い。
兄なりに心配しているのだろう。
「困ったら来い」
「アストさんのところへですか?」
「同じ学院だろう」
それだけ言うと、また本に目を落とした。
やっぱりアストさんはよく分からない。
けれど少しだけ安心した。
――翌朝。
屋敷は朝から慌ただしかった。
玄関前には何台もの馬車が並び、護衛騎士や使用人たちが忙しく行き交っている。
出発の準備は着々と進んでいた。
玄関には父がいた。
「準備は終わったか」
「はい」
父は腕を組んだまま私を見ていた。
厳しい表情はいつも通りなのに、その視線だけがどこか優しかった。
「忘れ物はないか」
私は少し驚いた。
昨夜、姉とした話を思い出したからだ。
「ありません」
「そうか」
父は短く頷く。
「学べ」
「はい」
「視野を広げろ」
父の視線を受けながら、私はもう一度頷いた。
「はい」
少しの沈黙のあと、父は低い声で続けた。
「困ったら帰ってこい」
父は昔から多くを語らない。
それでも、その一言だけで十分だった。
もしかしたら。
父も少しだけ寂しいと思ってくれているのかもしれない。
「はい」
そう言うと、父もほんの少しだけ口元を緩めた気がした。
出発の時刻になった。
テオもミーナも、セシリアさんもアストさんも、それぞれ支度を終えていた。
私も父に一礼して、馬車へ乗り込んだ。
やがて御者の声が響き、馬車がゆっくりと動き出す。
窓の外では、父が静かにこちらを見送っている。
屋敷が少しずつ遠ざかっていく。
窓越しに、見慣れた屋敷を目に焼き付けた。
――お母様。
行ってきます。
心の中でそう呟くと、胸のつかえが少しだけ軽くなった。
馬車は春の街道を、皇都へ向かって進んでいく。
私の学院生活が、これから始まる。




