23.今日も穏やかな一日のようです
ある朝。
朝食を終え、私室へ戻ろうと廊下を歩いていると、背後から名前を呼ばれた。
「ルシア」
「アストさん?」
「今日、予定はあるか」
今日の予定を頭の中で探してみる。
本を読むつもりではいたけれど、約束らしい約束はない。
「ありません」
「そうか」
兄は腕を組んだまま、まだこちらを見ている。
どうやら、予定を聞きたかっただけではないらしい。
「馬は乗れるか?」
「一応……」
淑女教育の一環として、乗馬は習っていた。
初めて乗ったときは、視点が高くなって怖かったのを覚えている。
「なら付き合え」
――一時間後。
私は愛馬の背に揺られていた。
蹄が土を踏むたび、身体が緩やかに上下する。
隣には兄、後方には護衛騎士が続いている。
「どこへ行くのですか?」
「見せたいものがある」
それだけ言って、兄は踵でそっと馬腹を促した。
なんだろう。
街道の両脇には若草が広がり、春風に揺れていた。
遠くでは農夫が鍬を振るい、畑では芽吹いたばかりの作物が陽を浴びている。
「ルシア様!」
畑で働いていた人たちが手を振る。
私も慌てて振り返した。
「人気者だな」
兄は、まだこちらへ手を振っている領民たちを眺めた。
「そうでしょうか?」
「給水所のことだ」
褒められたようで、なんだか落ち着かなかった。
「皆さんが協力してくださったからです」
「そうか」
兄は小さく頷くと、それ以上は何も言わなかった。
領都を抜けるにつれ、人の声は少しずつ遠ざかり、代わりに鳥のさえずりが耳に届いた。
しばらく進むと、やがて視界いっぱいに青が広がった。
「わぁ……」
湖だった。春の陽を映した湖面は青く澄み、岸辺では葦が風に揺れていた。
水鳥が羽を休め、遠くでは漁船がゆっくり網を引いている。
私は思わず馬を止めた。
波間できらめく光が眩しく、湖畔を渡る風には湿った土の匂いが混じっていた。
岸辺へ寄せては返す波音だけが静かに響いている。
何度か見たことのある湖だった。
けれど、馬上からこうしてゆっくり眺めるのは初めてだった。
「綺麗ですね」
兄も湖へ目を向けた。
「そうだな」
しばらく二人で眺める。
「昔からこの領地を支えてきた湖だ。ここが失われれば、領地の暮らしは大きく変わる」
湖を渡る風が、兄の霞んだ水色の髪を揺らした。
兄は湖面から目を離さないまま言った。
「飲み水も、畑を潤す水も、漁も、すべてここから得ている」
「そんなに大切な湖なのですね」
私は改めて湖を見つめた。
「給水所もこの湖から来ているのですか?」
「昔からあるものはな」
私が作った給水所とは違う。
ずっと昔から、この湖の水が人々の暮らしを支えてきたのだ。
「お前の給水所は違う。お前が考えた新しいやり方だ」
「皆さんのおかげです」
「……相変わらずだな」
兄は小さく息をついた。
「始めたのはお前だ」
そして少しだけ視線を逸らしてから、続けた。
「……父上も認めていた」
兄の口からそんな言葉を聞くとは思っていなかった。
少し気恥ずかしくて、きらめく湖面へ逃げるように視線を戻した。
しばらくして、再び馬を進めた。
湖を後にして街道を進むと、景色は少しずつ変わっていった。
森へ近づくにつれ、頬に触れる風がひんやりとしてきた。
木漏れ日が街道へまだら模様を落とし、馬の蹄が踏みしめる土は少し湿っていた。
木々の枝が風に揺れるたび、葉擦れの音が静かに重なる。
木々の上へ突き出すように見張り台が建っていた。
騎士たちが見張り台の上から周囲を見渡している。
「魔獣ですか?」
「ああ。最近は落ち着いているがな」
兄は見張り台を一瞥した。
「アストさんは、魔獣と戦ったことありますか?」
「ある。学院でも魔獣討伐実習があるからな」
学院で自分も魔獣と向き合うのだと思うと、背筋に冷たいものが走った。
「怖いですね……」
「怖い」
返事は思いのほか早かった。
「アストさんでも、怖いのですか」
「当たり前だ」
兄は藍色の瞳で森の奥を静かに見据えた。
「怖くない奴はいない。だから備える。だから鍛える。だから守る」
見張り台の騎士たちがこちらに敬礼した。
兄も軽く手を上げる。
「給水所を作るのも大事だ」
「はい」
「だが、それだけでは領地は守れない」
兄はゆっくりと馬を歩かせながら続けた。
私は黙って話を聞く。
「騎士だけでは領地は成り立たない。農民も、商人も、職人も必要だ」
巡回する騎士たちを見ながら、兄は静かに言った。
「公爵家は、その全部を見る」
見張り台を見上げる。
水を届ける人がいる。畑を耕す人もいる。森では騎士たちが魔獣に備えている。
給水所だけを見ていた頃には、領地がこんなにも多くの人の仕事で成り立っているなんて、考えたこともなかった。
――帰り道。
西へ傾いた陽が畑を黄金色に照らし、長く伸びた馬の影が街道をゆっくり流れていく。
一日の仕事を終えた農夫たちが家路につき、煙突からは夕餉の煙が立ち上っていた。
「アストさん」
「なんだ」
「今日はなぜ連れて来てくれたのですか?」
兄が誘ってくれるのは珍しかった。
兄はすぐには答えず、馬の耳越しに続く街道へ目を向けた。
「お前も水公爵家の人間だからだ」
「……?」
「学院へ行けば領地から離れる。――だから見せておきたかった」
私はゆっくりと周囲を見渡した。
湖も、畑も、森も、どこまでも続くこの景色が、水公爵領なのだ。
今日まで何度も見てきたはずなのに、不思議と少し違って見えた。
「ありがとうございます」
馬の蹄が静かな街道に規則正しく響く。
「学院で何を学んでもいい」
少し間を置いて兄は続けた。
「だが、自分がどこの人間かだけは忘れるな」
それだけ言うと、兄はもう前を向いてしまった。
こういうところが、なんだか兄らしい。
私は少しだけ笑って、手綱を握り直した。
屋敷へ戻る頃には日が暮れかけていた。
「楽しかったか」
「はい」
私は素直に答えた。
「そうか」
兄は短く頷いた。その表情は、いつもより少しだけ柔らかかった。
春の風が頬を撫で、遠くで鳥が夕暮れを告げていた。
湖も、畑で手を振ってくれた人たちも、森を守る騎士たちも。
そのすべてが、この領地を支えていた。
朝までと同じ景色のはずなのに、今は少し違って見える。
いつか私も、この領地を支える一人になりたい。
誰かの役に立てるように。
水公爵家の娘であることを、いつか誇れるように。
灯りのともり始めた屋敷を見上げながら、そう願った。




