21.なんとも人を育てるのは難しいようです
施療院を訪れてから、数日が経った。
窓の外では、初夏の陽射しを受けた木々が青々と葉を茂らせている。
それでも、頭の中に浮かぶのはあの日の光景ばかりだった。
二十七人に治癒魔法を使った。
けれど、施療院には九十八人もの患者が残っていた。
熱に苦しんでいた少年の顔も忘れられない。咳と高熱は和らいだものの、病そのものを治すことはできなかった。
私には、治せないものがある。
そう思うたび、胸の奥に重たいものが沈んでいく。
人を救うというのは、思っていたよりずっと難しい。
そんなことを考えていると、侍女が私室へやって来た。
「ルシア様、旦那様がお呼びです」
「父上が?」
私は顔を上げた。
「はい。執務室へお越しくださいとのことです」
父に呼ばれるとなれば、何か用件があるのだろう。
教会のことか。それとも、施療院のことだろうか。
考えながら廊下を進み、執務室の前で足を止めた。
扉を叩くと、ほどなく低い声が返ってくる。
「入れ」
「失礼します」
執務室へ入ると、机の上には相変わらず書類の山ができていた。
その向こうで、父が大きな図面を広げている。
「来たか」
「はい」
父は私が机の前まで来るのを待ってから、口を開いた。
「以前、お前が提案した学校の件だ」
「学校……給水士養成学校ですか?」
「ああ」
もうそこまで話が進んでいるのだろうか。思わず、机の上へ目を向けた。
「準備が進んでいる。一度見に行く」
「私も行ってよいのですか?」
「提案者だからな」
提案者。そう言われると、なんだか背筋が伸びる。
「はい。見たいです」
私が答えると、父は図面を畳んだ。
「支度しろ」
「今からですか?」
「そうだ」
相変わらず急だった。けれど、父らしいとも思った。
急いで支度を整え、馬車に乗り込む。
向かいの席には父が座っていた。
護衛騎士も数名ついている。
馬車が屋敷を出ると、窓の外には見慣れた領都への道が広がっていた。
父は手元の書類に目を落としている。
私は膝の上で手を重ねた。
「父上」
「なんだ」
「学校は、本当にできるのですね」
「まだできてはいない」
「そうでした」
思わず肩を落とすと、父は小さく息を吐いた。
「建物はまだ骨組みだ。教師も足りん。教材も整っていない。反対意見もある」
「反対意見、ですか?」
「ああ。平民に魔法を教えることを嫌がる者は多い」
またその問題か。納得できず、思わず眉を寄せた。
「……でも、給水のためです」
「そうだな」
「戦うための魔法ではありません」
「それでもだ」
父の声は淡々としていた。
「魔法を学べば、身分を越えた力を持つ者が出る。そう考える者もいる」
魔法は便利なものだと思っていた。
水を出したり、風を起こしたり、灯りをともしたり。
けれど、以前兄たちが剣と魔法を組み合わせて訓練していたように、魔法は戦う力にもなる。
誰にでも教えればよい、という単純な話ではないのだろう。
「難しいですね」
「簡単なら、とっくに誰かがやっている」
それだけ言うと、父は再び黙った。
窓の外へ目をやる。
領都へ近づくにつれ、道を行き交う人の姿が増えていた。
荷車を押す男。水桶を抱えた子供。給水所へ向かう女性。
その向こうには、私が初めて水を満たした貯水槽も見える。
あの日は、水が出ただけでみんなが喜んでくれた。
けれど、給水所を増やすとなれば、それだけでは足りない。
施療院でもそうだった。
医師も薬師も、看護をする修道女も、足りているわけではない。
私一人では、どうにもならない。
「施療院には、たくさんの患者がいました」
ぽつりと呟くと、父がこちらを見た。
「そうか」
「私は二十七人しか癒せませんでした」
「二十七人も、だ」
父はすぐに言った。
私は顔を上げる。
「ですが、九十八人残っていました」
「それはお前一人で抱える数ではない」
「でも……」
「ルシア」
父の声が少し低くなった。
「お前は神ではない」
私は息を止めた。
「神子候補だとは言われている。だが、お前はまだ子供だ」
「……はい」
「一日で百人救えなかったからといって、背負うな」
父は窓の外へ視線を戻した。
「人を救うのは、一人でやることではない」
その言葉が、ゆっくり胸に落ちた。
施療院の院長も言っていた。
奇跡を当てにしてはならない。
奇跡がなくても患者を救えるように努めなければならない。
医師を育て、薬師を育て、施療院を維持する。
それと同じなのかもしれない。
「だから、学校を作るのですか」
「お前が言い出したのだろう」
「そうでした」
父は少しだけ口元を緩めた。
からかわれた気がして、私は少しだけ頬を膨らませた。
やがて馬車は、領都郊外へ出た。
馬車を降りた途端、木を削る音と石を打つ音が耳に飛び込んできた。
以前は何もなかった草地に、太い柱が何本も立っている。積み上げられた石材の向こうでは、作業員たちが忙しなく行き交っていた。
「大きい……」
思わず声が漏れる。
まだ壁は一部しかない。それでも土台と柱が組まれ、建物の輪郭ははっきりと見えていた。
小さな教室を一つ作るくらいだと思っていたのに、想像していたものとはまるで違う。
土魔法を使える職人が地面を固め、水魔法を使える者が泥を落としていた。
離れたところから、建設責任者らしい男性が駆け寄ってきた。
「公爵様、ルシア様。ようこそお越しくださいました」
「進捗は」
「校舎の基礎はおおむね完了しております。南棟の柱も立ち始めました」
男性は図面を広げた。
「こちらが教室棟。こちらが実習場。こちらは貯水槽と水路の模型を置く予定の訓練区画です」
「模型ですか?」
私が図面を覗き込むと、責任者は頷いた。
「実際の給水所で訓練する前に、小型の設備で管理方法を学ぶためです」
「管理方法ですか」
「はい。給水士は、設備を管理し、帳簿をつけ、住民に水を配る仕事になります」
「帳簿もですか」
思わず眉を顰めると、横から父が口を挟んだ。
「役人だからな。読み書きと計算も教える」
「学校らしいですね」
「学校だからな」
思っていたより、勉強することが多そうだ。
「ただ、問題もございます」
「問題?」
「教師の確保です。魔法を使える者は貴重です。さらに人に教えられる者となると、数が限られます」
責任者は建設中の校舎へ目をやった。
「読み書きや計算を教える者は集まり始めていますが、魔法実習を担当できる者が不足しております」
建物のことばかり見ていたけれど、問題はそれだけではないらしい。
教師がいなければ、立派な校舎ができても授業は始められない。
「他にもある。反対の声だ」
父の言葉に、責任者が少し困った顔をした。
「一部の領内貴族や古くからの家臣から、平民に魔法を教えることへの懸念が出ております」
「やはり……」
馬車で聞いた話を思い出す。
「反乱が起きるかもしれない、ということですか?」
「そこまで直接言う者は少ない」
父は冷静に答えた。
「だが、魔法は貴族や騎士、聖職者が扱うべきものだと考える者は多い」
「でも、給水所の水は、貴族だけが使うものではありません」
「分かっている」
父の視線が、建設途中の校舎へ向かう。
「だから進めている」
父はそれ以上、何も言わなかった。
反対する人がいて、教師も足りない。
それでも、目の前にはもう校舎の骨組みが立っている。
必要だと決めてから、父たちはここまで進めてきたのだ。
ふと、水務局で見たレオンハルト殿下の姿を思い出した。
あの時も、誰かが決めなければ話は先へ進まなかった。
父もきっと、こうして何かを決め、それを形にしているのだ。
現場を一通り見て回った後、建設事務所に案内された。
粗末な木の机の上に、図面や帳簿が山積みにされている。
「これは費用ですか?」
「そうだ」
父が一冊の帳簿を示した。
石材、木材、人件費――。
頁を埋め尽くす数字を追っているうちに、だんだん桁が分からなくなってきた。
「こんなに必要なのですか」
「学校は建てれば終わりではない」
父は頁をめくり、教師への俸給が並ぶ箇所を示した。
「教師を雇い、生徒を受け入れ、維持し続けなければならん」
給水士を増やせばいい。
口にするだけなら簡単だった。
けれど目の前の帳簿には、そのために必要な人や物やお金が、細かな数字になって並んでいる。
「父上」
「なんだ」
「私は……言うだけでしたね」
思わず俯いてしまう。
「給水所も、学校も。私は思いついただけで、実際に動かしているのは父上や家臣の皆さんです」
「当然だ」
父はなんでもないことのように言った。
「お前は子供だ」
「……はい」
「だが、思いつく者がいなければ始まらない」
てっきり、考えが甘いと叱られるものだと思っていた。
顔を上げると、父は開いていた帳簿を閉じた。
「給水所もそうだった。お前が気づかなければ、井戸の問題はそのままだった」
「でも、私だけではできません」
「ああ。だから、人を集める。金を使う。仕組みを作る」
仕組み。
その言葉が、妙に心に残った。
「人を救うには、祈るだけでは足りない」
父は建設中の校舎へ目を向けた。
「水を出すだけでも足りん。続けられなければ意味がない」
施療院の院長の言葉が蘇る。
――奇跡を当てにしてはならない。
医師を育て、薬師を育て、施療院を維持する。
父の言葉と、同じ意味だった。
建設途中の校舎へ、もう一度目を向ける。
「……難しいですね」
「簡単ではない」
父はそう言ってから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「だが、お前の考えは悪くない」
一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「……今、褒めましたか?」
「聞き間違いだ」
「聞き間違いではありません」
「なら忘れろ」
「忘れません」
父は小さく息をつき、私は思わず笑ってしまった。
建設事務所を出ると、夕日に照らされた校舎の骨組みが赤く染まっていた。
まだ壁もない。教室もない。生徒もいない。
それでも、ここから始まる未来が確かに見えた気がした。
帰りの馬車に乗る前、私はもう一度振り返った。
「あそこで、誰かが学ぶのですね」
「ああ」
「そして、その人が誰かに水を届けるのですね」
「そうなるようにする」
馬車がゆっくりと動き出す。
建設中の校舎は少しずつ遠ざかり、やがて夕暮れの景色へ溶け込んでいった。
施療院には、私の手が届かなかった人が大勢いた。
目の前の学校だって、一人では作れない。
けれど、学校ができて、ここで学ぶ人が増えれば、私がいない場所でも誰かが水を届けられるようになる。
私が会ったことのない人にも、水が届くようになるかもしれない。
少しだけ、施療院で院長が言っていたことが分かった気がした。
「父上」
「なんだ」
「人を救うというのは、難しいですね」
膝の上に置いた手へ目を落とす。
「そうだな」
「でも……一人ではなく、みんなでなら、もっと多くの人を救えるのでしょうか」
父はすぐには答えなかった。
窓の外へ目を向け、遠ざかっていく校舎を見ている。
「できるようにするのが、我々の仕事だ」
私にも、そのためにできることがあるのなら。
できるところから、頑張ってみたい。
いつか胸を張って、誰かの役に立てたと言えるように。




