20.意外にも奇跡だけでは足りないようです
――施療院訪問の日。
私は馬車に揺られていた。
数名の侍従と侍女に、十名ほどの護衛騎士が着いてきている。
向かいではフェリクス様が今日の訪問予定を記した紙を静かに確認していた。
「施療院とは、どのような場所なのですか?以前訪れたことはありますが、改めてお聞きしてもよろしいですか?」
「病人や怪我人を受け入れ、治療を行う施設です」
フェリクス様は手元の紙から顔を上げた。
「働いている方は?治癒魔法師もいるのでしょうか?」
「治癒魔法師の他、医師と薬師、看護をする修道女などがいます」
「いろんな方がいらっしゃるのですね」
以前訪れたときは、そこで働く人たちのことまで気にしていなかった。
「ええ。しかし、魔法も医療も万能ではありません」
フェリクス様はそう言うと、確認していた紙を膝の上へ置いた。
馬車の車輪が石畳を軽く揺らす。
私は窓の外へ目を向けた。
私はまだ、自分の力をよく分かっていない。
果たして施療院の人々を助けることはできるのだろうか。
「ルシア様」
フェリクス様がこちらを見る。
「無理はなさらないでください」
「?」
「施療院側も、奇跡を当てにしているわけではありません」
「そうなのですか?」
「ええ」
なぜだろう。少し意外だった。
「祝福をいただけるだけでもありがたい、と考える方は多いですよ」
私はよく分からないまま頷いた。
やがて、二階建ての石造りの建物が見えた。
遠目から見ると小さな教会にも見えるが、鐘楼はなく、代わりに大きな中庭があった。
入口には、患者を運ぶであろう荷車が止まっている。
中庭では、修道女たちが洗濯物を干していた。
白い布が風に揺れている。
「ここが施療院ですか」
「はい」
フェリクス様が頷いた。
「領都で最も大きな施療院になります」
施療院に到着すると、数名の職員が出迎えてくれた。
その中から、年配の男性が進み出た。
白髪交じりの髭を整えた男性だった。疲れた表情をしているが、その目だけは穏やかだった。
「ルシア様、ようこそお越しくださいました」
「ルシア・アクエリアです」
どうやら彼は、施療院の院長らしい。
施療院の中に入ると、薬草と消毒用の薬液が混じった独特の匂いが鼻をついた。
廊下には椅子が並び、患者たちが静かに順番を待っていた。
小さな子どもを抱く母親もいれば、腕を押さえて俯く男性もいた。
領都最大の施療院とだけあって、たくさんの人がいた。
「こんなにいらっしゃるのですか」
「本日は少ない方です」
院長は苦笑しながら、廊下に並ぶ患者たちへ目を向けた。
これでも少ない方らしい。
私は思わず、待っている人たちを端から端まで見渡した。
まず初めに院長に案内されたのは、外傷のある人が療養している部屋だった。
中には八名ほどの人が寝台に横たわっている。
包帯の巻かれた腕や脚が痛々しく、部屋には時折うめき声が漏れていた。
「神々の癒しがありますように」
私は部屋全体の人の怪我が治るよう、祈ってみた。
以前公衆浴場で試したときは、私の治癒魔法は広範囲に効いていた。
「痛くない!」
「傷が消えてる……!」
あちこちから驚きの声が上がった。
包帯を巻いていた腕を恐る恐る動かす人もいれば、寝台から身を起こして自分の身体を確かめる人もいる。
けれど、全員が治ったわけではなかった。
「神子候補様、こちらにもお願いできますか?」
「痛みは軽くなったのですが、まだ少し……」
治り方にも差があるようだった。
「どうしてだろう……」
私は周囲を見回した。
同じように祈ったはずなのに、治り方が違う。
公衆浴場でも、離れた場所にいる人ほど効きにくいことはあった。けれど今回は、近くにいる人でも傷が残っている。
「これほど多くの患者が、一度に……」
院長は驚きを隠せない様子で、病室を見回した。先ほどまで苦しそうに横たわっていた人たちが、次々と身体を起こしていた。
「私が目を通した教会の記録にも、ここまで広範囲に治癒を施した例はほとんどありません」
フェリクス様も驚いたように、治癒した人たちへ目を向けていた。
「ルシア様は、広範囲に祝福をかけることができるのですね」
「一度に何人も治すのは、珍しいのですか?」
「通常、治癒魔法は一人ずつ行います。複数人へ同時にかければ、それだけ効果も弱まります」
「そうなのですね」
だから治り方に差があったのか。
公衆浴場では軽い怪我の人がほとんどだったから、気づかなかったらしい。
「それに、重い怪我ほど多くの魔力を必要とします」
院長が寝台の患者たちを見ながら付け加えた。
「傷の状態が分かっていれば、その分だけ治癒もしやすくなります」
「怪我の具合が分からなくても治せるのですよね?」
「もちろんです。ただ、どこをどのように傷めているのか分かっている方が、より確実です」
なるほど。
「では、一人ずつ祈ってみます」
私は、先ほどの治癒でもまだ痛みが残っているという男性の寝台へ向かった。
「どこを怪我されたのですか?」
「脇腹と脚です。魔獣に襲われまして」
院長が包帯の巻かれた脇腹を示した。
「脇腹には深い裂傷があります。脚の骨も折れております」
痛そうだ。さっきは、そこまで詳しいことは知らずに祈っていた。
私は教えてもらった傷を意識しながら、男性の怪我が癒えるように祈った。
淡い光が男性の身体を包む。
「……痛くない」
男性は驚いたように脇腹へ触れ、それから恐る恐る脚を動かした。
「治ってる……!」
院長は脇腹の傷を確かめ、それから慎重に男性の脚へ触れた。
「傷は塞がっています。脚の骨も、問題なく繋がっているようですね」
男性は恐る恐る脚を曲げ伸ばしし、痛みがないことを確かめると、安堵したように笑った。
「ありがとうございます!」
「お役に立ててよかったです」
胸を撫で下ろした、その時だった。
「これでまた森へ入れます」
「森ですか?」
「薪を取って暮らしておりますので」
男性は照れくさそうに笑った。
「娘にも心配をかけてしまいました」
――そういえば。
母も施療院では、患者の話を聞いていた。怪我だけではなく、その人の暮らしまで気に掛けていた。
「娘さんはおいくつなのですか?」
「七つです。私が働けない間は妻が一人で頑張ってくれていました」
そう言って笑う男性の顔は、さっきよりずっと穏やかだった。
「ご家族も安心されますね」
「ええ。本当に助かりました」
その笑顔を見て、私も少し嬉しくなった。
その後も、一人ひとり治癒魔法をかけた。
けれど、傷が深かったり、長く患っていたりする人の中には、完全には治しきれない人もいた。
次に、病気で苦しんでいる人の部屋を訪れた。
今度は最初から一人ずつ、順番に治癒魔法を使うことにした。
ぜぇぜぇと、苦しそうに息をする少年が横たわっている。
少年の額には汗が浮かび、呼吸のたびに細い胸が苦しそうに上下していた。
枕元では母親が濡れ布を何度も取り替えている。
「どのような症状なのですか?」
「咳と高熱でございます」
院長が答えた。
「神々の慈愛がありますように」
私は、少年の咳と熱が治るように祈った。
すると、呼吸音が静かになり、顔色も心なしか良くなったように見えた。
「――先ほどより、熱が下がっています」
院長は、少年の額に手を当てた。
私はほっと息を吐いた。
「しかし」
院長は少年の腕を取った。
「脈はまだ速いですね。病はまだ残っているように思われます」
「え……」
治せないのだろうか。病床にいた母の姿が、ふいに頭をよぎった。
そもそも、何の病気なんだろう。
「何の病気かは分かっているのですか?」
「いいえ。熱と咳がありますが、何の病かまでは分かっておりません」
私は少年を見る。
「では、治癒魔法も……」
「効かないわけではありません。熱や咳を和らげることはできるでしょう。ただ、病そのものを癒すとなれば、何の病なのか分かっている方が治癒魔法も効きやすくなります」
院長は眠る少年へ目を落とした。
「それでも治せるかどうかは、術者の力量と病によります」
「そうなのですね……」
もう一度祈ってみようか。
そう思ったところで、院長が静かに声をかけた。
「ルシア様。ありがとうございます。ここからは我々が診ます」
「でも、まだ……」
「呼吸も熱も先ほどより落ち着いております。これ以上はお疲れになるでしょう」
院長は廊下の方へ目を向けた。
「他にも、ルシア様をお待ちしている患者がおります」
私は少年を見る。
まだ治ったわけではない。
それでも、廊下にはまだ多くの人が待っている。
「……分かりました」
「ありがとうございます。少しでも楽になりました」
少年の付き添いの母親が、何度も頭を下げた。
「昨夜よりずっと呼吸が楽そうです」
まだ順番を待っている人たちがいる。
そう思うと、ここで立ち止まることはできなかった。
そうは思っても、どうしても、治せない少年のことが気がかりだった。
――その後も、思うように治せない患者は少なくなかった。
やがて日も傾いてきて、本日は終了となった。
私は重い体をなんとか支えて歩いた。
「ルシア様、本日は本当にありがとうございました」
院長が穏やかな顔で微笑む。
「……今日、治癒魔法を使った方は何人でしたか?」
「二十七人です」
廊下にも待合室にも、まだ診察を待つ人が列を作っていた。
子どもを抱いた母親があやす声。木の杖に体を預ける老人。包帯を巻いた若い冒険者。
その視線が、静かに私へ集まっていた。
「施療院には、あと何人くらいいるのですか?」
「現在、院内で療養している方と診察を待っている方を合わせれば、まだ九十八人おります」
「……」
施療院には、まだ九十八人もの患者がいる。
今日治癒魔法を使った二十七人の中にも、すべてを治せたわけではない人がいる。
その時、施療院へ向かう馬車の中で聞いた、フェリクス様の言葉を思い出した。
「フェリクス様が、施療院は奇跡を当てにしていないと仰っていました」
「ええ」
「どうしてですか?」
院長は少し考えるように沈黙した。
「もちろん期待はしております。本日も多くの方が救われました。本当にありがたいことです」
院長は優しく微笑んだ。
「ですが、それを当てにしてはならないのです」
「当てにしてはならない?」
「ルシア様はお一人です。いつでも来られるわけではありません」
院長が静かに言った。
「ですから我々は、奇跡がなくても患者を救えるよう努めなければならないのです。医師を育て、薬師を育て――施療院を維持するのです」
院長は患者たちの方へ目を向けた。
「我々の仕事は、神子候補様がお帰りになった明日も続きます」
私はその言葉を聞きながら、まだ廊下に残る患者たちを見た。
今日だけでも、治しきれなかった人が大勢いる。
院長の言葉が、胸の奥に残った。
帰りの馬車の中で、今日のことを思い返していた。
「難しいですね」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
「何がですか?」
向かいに座るフェリクス様が尋ねる。
「人を救うということです」
今日、私は二十七人に治癒魔法を使った。
けれど、その全員を治せたわけではない。
施療院には、まだ大勢の患者が残っている。
もっと力をつければいいのだろうか。
もっと上手に治癒魔法を使えるようになればいいのだろうか。
けれど、院長の言葉が頭に残っていた。
――我々の仕事は、神子候補様がお帰りになった明日も続きます。
ふと、給水所のことを思い出した。
一人で水を配るのではなく、仕組みを作ったから多くの人に届いた。
人を救うのも、一人で頑張るだけでは駄目なのかもしれない。
馬車は夕暮れの街道をゆっくり進んでいく。
窓の外では、施療院の白い建物が少しずつ遠ざかっていった。
あの建物では、今も医師や薬師、治癒魔法師や修道女たちが患者のために働いているのだろう。
西の空は茜色へと染まり、一日が終わろうとしている。
けれど、施療院の一日はまだ終わらない。
人を救うというのは、思っていたよりずっと難しい。
それでも私は、救える人を一人でも増やしたいと思った。




