15.なにやら神子候補になりました
――数日後。
私は再び父と共に光神大聖堂を訪れていた。
今日は神子候補認定の儀らしい。
らしい、というのは、正直なところよく分かっていないからだ。
神子候補といわれても実感がない。
ただ、過去の神子は人々を救ったという。
神託や神子の力というものが、本当にあるのだとしたら。
私にも何かできることがあるのだろうか。
そんなことが少し気になっていた。
もちろん、公爵領でやりたいことも山ほどある。
水務局で見た管理方法。給水士養成学校。領地全体の水問題。
考えたいことはたくさんあった。
それでも今日は、その認定の儀とやらに参加することになったのである。
――案内されたのは、大礼拝堂ではなかった。
一般信徒が祈る場所よりさらに奥の、高位聖職者のみが立ち入ることを許された小礼拝堂だった。
白い石で造られた静かな空間。祭壇に灯された炎が静かに揺れていた。
石床に響く足音が、いつもより大きく聞こえる。
祭壇の奥には光神の紋章が刻まれていた。
そして左右には、地・水・火・風の紋章が並んでいる。
出席者も多くはない。総大司教グレゴリウス様。神話研究所所長のオットー様。
数名の司教と司祭。そして記録係らしき人物。
「本日はお越しいただきありがとうございます」
総大司教が一礼した。
「本儀は神子候補認定のための儀です」
父は朝から険しい表情を崩さなかった。
「何をするのですか?」
「祈りを捧げるだけです」
私が尋ねると、総大司教は答えた。
「神子であるかどうかを決める儀ではありません。教会が神子候補として記録するための儀です」
難しいことはしなくて良さそうだった。
私はほっと胸を撫でおろす。
総大司教に促されるまま、私は祭壇の前へ進んだ。
私が祭壇へ進む間も、父の視線だけは片時も私から離れなかった。
司祭たちが祭壇を囲むように並ぶ。
礼拝堂から人の気配がすっと遠のいたように感じた。
やがて祈りが始まる。
静かな歌声が白い石壁に反響した。
しばらくして、ふと違和感を覚えた。
祭壇脇に置かれていた銀白色の水瓶が、淡く光っている。
先日見た、聖泉の水瓶だった。
風などないのに、水面に小さな波紋が広がった。
一つ、二つ。
やがて水瓶の内側から白い光が滲み出し、祭壇を、石床を、祈りを捧げる司祭たちの白い法衣を照らしていく。
「……!」
歌声が途切れた。
誰かが息を呑む。
何もしていない。
私は本当に……何もしていない。
胸の奥がひやりとした。
私が望んだわけではないのに、また何かが起きてしまった。
礼拝堂が静まり返る。
思わず父へ視線を向ける。
父は水瓶を見つめたまま、眉間を押さえた。
「……またか」
低い呟きが聞こえる。
なんだか申し訳なくなって、私は小さく肩をすぼめた。
神話研究所の所長は、目を見開いて水瓶を見つめていた。
手にしていた手帳を落としかけ、慌てて抱え直す。
震える指で眼鏡を押し上げても、その視線は水瓶から一瞬たりとも離れなかった。
「……やはり」
掠れた声が漏れた。
「先日の反応は偶然ではなかった……」
周囲の司祭たちは誰も動かなかった。
胸元で祈りの印を結ぶ者。呆然と私を見つめる者。中には、その場で深く頭を垂れた者までいる。
記録係の一人は羽根ペンを紙の上で止めたままだった。
穂先から落ちたインクが、羊皮紙に黒い染みを作る。
「記録を」
総大司教の声が響いた。
記録係がはっと顔を上げる。
「今起きたことを、すべて記録しなさい」
「は、はい」
ようやく羽根ペンが動き始めた。
総大司教の声はいつもと変わらなかった。
けれど、祭壇の前で組んだ指には、わずかに力が入っている。
その間にも光は少しずつ弱まり、やがて水面も元の静けさを取り戻した。
しばらくして、総大司教が祭壇へ向き直った。
「儀を続けます」
その一言で、司祭たちもそれぞれの位置へ戻る。
一度途切れた祈りの声が、再び礼拝堂を満たしていった。
私は何となく落ち着かないまま、その中央に立っていた。
やがて最後の祈りが終わる。
祭壇の炎だけが、何事もなかったように揺れていた。
総大司教が一歩前へ出た。
「教会は本日をもって、ルシア・アクエリアを神子候補として正式に記録し、認定いたします」
静かな声が礼拝堂に響く。
記録係は震える手で認定の文言を書き記している。
礼拝堂にいた司祭たちが一斉に頭を垂れた。
さっきまで私と同じように水瓶を見ていた人たちが、今度は私に向かって頭を下げている。
誰一人として言葉を発しない。
どうしていいか分からず、父を見る。
父だけは頭を下げていなかった。静かに拳を握り、やがて力を抜いた。
こうして私は、神子候補になったらしい。
◇
儀式が終わり、礼拝堂を出ようとした時だった。
「ルシア様」
総大司教に呼び止められる。
「後日、神子候補同士の交流の場を設ける予定です」
「交流ですか?」
「はい。同じ立場の方々と話す機会も必要でしょう」
神子候補同士。
その言葉に、以前姉に紹介された少女の姿を思い出した。
「エレオノーラ様ですか?」
「エレオノーラ様をご存じでしたか」
「以前、一度だけお会いしました」
「はい。もちろんエレオノーラ様も参加されます。しかし、彼女以外にも三名おります」
エレオノーラ様以外にもいるのか。
どんな人たちだろう。
以前お会いしたときの、エレオノーラ様のまっすぐな背中を思い出す。
神子にならなければならないのかもしれない――そう言った彼女は、神子候補として、皇族として、立派な覚悟を持っているように見えた。
他の人たちも、そうなのだろうか。
何をすればいいのかさえ分かっていない私だけが、場違いな気がした。
「詳しい日程は改めてお伝えします」
総大司教はそう言って口元を緩めた。
隣を見ると、父の眉間の皺が一本増えていた。
――帰りの馬車。
大聖堂の尖塔が少しずつ遠ざかっていく。
けれど、今日起きた出来事だけは遠ざかってはくれそうになかった。
父は肘掛けに腕を置き、窓の外を見つめていた。
その横顔はいつもより少し疲れて見えた。
窓の外では皇都の街並みがゆっくり流れていく。
「申し訳ありません」
私がそう言うと、父は眉をひそめた。
「なぜ謝る」
「また騒ぎになってしまいましたから」
「お前が気に病むことではない」
それだけ言って父は窓の外を見る。
しばらく沈黙が続いた。
「父上」
「なんだ」
「神子候補になってしまいました」
「そうだな」
父は窓の外へ視線を向けたまま、しばらく黙っていた。
やがて深く息を吐く。
「厄介なことになった」
「やはり怒っていますか?」
父の顔を窺う。
「怒ってはいない」
父は短く答えた。
そして、少しだけ声を低くした。
「これから教会も皇族も、お前を放ってはおかん」
「はい」
「だが、お前は公爵家の娘だ」
父はそれ以上何も言わなかった。
けれど、その一言だけで十分だった。胸の奥が少し温かくなった。
自分の存在がなんなのか、なぜ不思議な反応が起こるのかは分からない。
どうして私は、この世界に生まれたのだろう。
そんなことを考えても、今まで答えなんて出なかった。
それでも、何かできることがあるのなら、頑張りたい。
誰かの役に立てるのなら。
――そうすれば。
私がここにいる意味も、見つかるかもしれない。
その時の私は、それがきっと答えなのだと思っていた。




