13.あらためて国を治めるのは難しいようです
魔道具工房を出ると、午後の日差しが職人街の屋根を明るく照らしていた。
私は先ほど見た水質判定具のことを考えていた。
魔道具に水を垂らし、色の変化で状態を調べる。
あれがあれば、見た目では分からない異常にも、早く気づくことができる。
水公爵領でも各地の井戸を調べれば、どこから改善するべきなのか分かりやすくなるかもしれない。
「ルシア様? 何を考えていますの?」
すぐ隣から声がして顔を上げると、クラウディア殿下がこちらを覗き込んでいた。
「給水所と、水質判定具のことです」
「ああ、やっぱり」
反対側を歩いていたアルヴィン殿下が、くすりと笑った。
「また水なんですね」
「大事なことです」
「ルシア様ならそう言うと思いました」
「……馬鹿にしていませんか?」
「してませんよ!」
慌てて両手を振るものだから、余計に怪しい。
「本当ですか?」
「本当です」
「……怪しいです」
じっと見つめると、アルヴィン殿下は困ったように眉を下げた。
そのやり取りを少し前から見ていたレオンハルト殿下が、肩を揺らす。
「それほど気になるなら、水務局へ寄っていくかい?」
「水務局ですか?」
「皇都の井戸や導水路を管理している役所だよ」
思わず一歩、殿下の方へ近づいた。
「行きたいです」
「即答だな」
「はい!」
水公爵領でも、何か役に立てられるかもしれない。
◇
水務局へ向かう途中、私たちは東地区を通った。
職人や労働者が多く住む地区らしい。
大通りから一本入るだけで道幅は狭くなり、建物も隙間なく並んでいる。荷車が通るたびに、歩いている人たちが道の端へ寄っていた。
活気はある。
けれど、どこを見ても人が多い。
「あれ?」
共同井戸の前に、長い列ができていた。
十人、二十人……もっといるかもしれない。
桶を持った大人に交じって、子供の姿もある。
「ずいぶん並んでいますね」
近くにいた女性が、私の声に気づいて苦笑した。
「最近は毎日こんなものですよ。仕事を求めて、この辺りへ移ってくる人が増えましてね」
「井戸が足りないんですか?」
「ええ。朝なんて、もっと酷いですよ」
女性は列の先にある井戸へ目を向ける。
「夕方には水の出が悪くなることもあります。そうなると、少し離れた井戸まで行かなくちゃならなくて」
「そんなに……」
「これから暑くなったら、もっと水が要りますしねえ」
その時だった。
私と同じくらいの年頃の男の子が、いっぱいに水の入った桶を抱えて列から離れた。
数歩進んだところで、小さな身体がぐらりと傾く。
「あっ」
水が桶の縁からこぼれた。男の子は慌てて踏ん張り、なんとか桶を地面へ置く。
肩で息をしながら少し休むと、また両手で持ち上げた。
細い腕が震えている。
それでも誰かに頼ることなく、男の子はふらつきながら歩いていった。
私はその小さな背中を見送った。
毎日、あんなふうに水を運んでいるのだろうか。
◇
水務局は、大きな石造りの建物だった。
中へ入って最初に目に飛び込んできたのは、壁一面を覆う皇都の地図だった。
共同井戸や導水路の位置が細かく記され、ところどころに色の違う印や数字が書き込まれている。
「すごい……」
「皇都全域の管理図です」
案内してくれていた局長が、地図の前へ進み出た。
「こちらが共同井戸。青い線が主要な導水路です。こちらの印は修繕予定箇所になります」
示された場所を追って、私も地図へ近づく。
井戸だけでも、こんなにたくさんある。
水公爵領でも、同じように管理しているのだろうか。
帰ったら父上に聞いてみたい。
「結構あるな」
いつの間にか兄も隣に立ち、地図を覗き込んでいた。
「皇都は今も人口が増えておりますからな。井戸を増やしても、数年後には足りなくなる地区が出てまいります」
局長が説明した、その時だった。
「だから、この土地に井戸が必要だと言っているでしょう!」
「こちらだって遊びで倉庫を建てようとしているわけではない!」
壁の向こうから怒鳴り声が響いた。
びくりと肩が跳ねる。
アルヴィン殿下も目を丸くし、声のした扉へ顔を向けた。
「……喧嘩ですか?」
「協議でございます」
局長は一瞬目を閉じてから、疲れたように息を吐いた。
「東地区の土地利用について、話し合っているところでして」
「東地区……」
さっき通ってきた場所だ。
「もしかして、井戸のことですか?」
「ええ」
ますます気になって扉を見つめていると、レオンハルト殿下が私の視線を追った。
「見学しても構わないか?」
「もちろんでございます」
局長が扉へ手を向けた。
案内されて協議室へ入ると、長机を挟んで二つの集団が向かい合っていた。
一方は東地区の住民代表。
もう一方は商人ギルドの代表らしい。
先ほど聞こえた声の名残なのか、部屋の空気はまだ張り詰めていた。
中央の机には、大きな地図が広げられている。
「東地区の人口は、この数年で大きく増えています」
住民側の中央に座っていた男性が、地図の一点へ指を置いた。
「共同井戸がまったく足りません。朝には一刻近く待つこともある。夕方には水量が落ち、別の地区まで水を汲みに行く家もあります」
その言葉に、先ほどの男の子の姿が浮かぶ。
「子供まで毎日の水汲みに駆り出されています。これから暑くなれば、さらに水が必要になる。井戸を増やしていただきたいのです」
住民たちが揃って頷いた。
けれど、向かい側からすぐに声が上がる。
「必要なのはこちらも同じです。皇都へ入る荷は年々増えている。今の倉庫だけでは、すでに余裕がありません」
商人代表の男性が、手元の書類を机の中央へ押し出した。
「保管場所が足りず、荷を屋外へ置くこともある。特に雨の多い時期には、商品を駄目にすることもあります。このまま人が増えれば、食料をはじめとする物資の流通にも影響が出るでしょう」
住民側から不満そうな声が漏れた。
商人たちも表情を崩さない。
水が足りない。でも、物を保管する場所も足りない。
どちらも、人が増えたから起きている問題なんだ。
「別の場所に井戸を掘ることはできないのですか?」
思わず口を挟むと、局長が地図の上を指でなぞった。
「もちろん調査いたしました。しかし、この周辺は地盤の弱い場所が多く、飲用に適した水脈も限られております」
「では、他には……?」
「東地区の中心部で、十分な水量を確保できる可能性が高い場所は、今のところこの土地だけです」
住民代表は、待っていたように身を乗り出した。
「ここを倉庫にされれば、次の井戸をどこに作れるのかも分からないのです」
クラウディア殿下は地図から商人たちへ視線を移した。
「ですが、倉庫もここでなければならないのですか?」
「ここが最も適しております」
商人代表の指が、地図に描かれた大通りを辿った。
「大通りと荷揚げ場の両方へ出やすく、大型の荷馬車も入れます。他の土地に建てることも不可能ではありませんが、運搬の手間も費用も増えてしまいます」
「では、土地を半分ずつ使うことは?」
今度はレオンハルト殿下が地図を覗き込んだ。
局長はすぐに首を横へ振る。
「難しいでしょうな。井戸を設ける場所が、ちょうど倉庫の荷馬車の出入り口に当たります。双方を建てれば、どちらも十分には機能しなくなります」
少し離れたところで黙って聞いていたセヴェリン殿下が、首を傾げた。
「どうして東地区ばかり、人が増えているんですか?」
「仕事を求めて地方から移り住む者が多いためです。職人街にも近く、比較的安い住まいも多いですからな」
「これからも増えるんですか?」
局長はすぐには答えず、地図へ目を落とした。
「おそらくは」
そして、井戸予定地と倉庫予定地――同じ一点を指す。
「だからこそ、どちらも必要なのです」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
私は地図を見つめた。
井戸を作れば、今、水に困っている人たちは助かる。
あの男の子も、遠くまで水を運ばなくてよくなるかもしれない。
でも、倉庫を作らなければ、これから増えていく人たちへ物を運ぶのが難しくなる。
静けさの中で、姉が口を開いた。
「井戸を作った場合、どれくらいの方が利用するのですか?」
「直接利用するのは、およそ三百人を見込んでおります」
局長が東地区の一角を手で囲う。
「倉庫は、どれくらいの人に関わるんですか?」
兄が続けて尋ねた。
「現在でも、この一帯を通る物資は二千人以上の暮らしに関わっております。今後はさらに増えるでしょう」
「二千人……」
兄は小さく呟き、しばらく地図を見つめていた。
やがて腕を組む。
「……だったら、俺は倉庫ですね」
その瞬間、住民代表の表情が曇った。
兄は一度だけそちらへ目を向けたが、考えは変えなかった。
「井戸が必要なのは分かります。でも、これからもっと人が増えるなら、その分だけ物資も増える。倉庫に使える土地を今のうちに確保しておく方がいいと思います」
私は何も言えなかった。
三百人と二千人。数字だけを見れば、兄の言うことは分かる。
でも、単純に人数だけを比べていい話でもない。
倉庫がなければ二千人全員が物を受け取れなくなる、という話ではないのだ。運ぶのに時間やお金が余計にかかったり、品物が傷んだりする。
一方で、井戸を使う三百人は、毎日の水に直接困っている。
どちらが重いのか。
人数だけでは、私には決められなかった。
隣を見ると、姉もまだ地図を見つめていた。
「私も、選ぶのであれば倉庫ですね」
そう答えてから、姉は住民代表へまっすぐ顔を向けた。
「ですが、井戸を必要としている方々に、ただ我慢してくださいと申し上げるわけにはまいりません。選ばなかったのであれば、その方々の負担を少しでも減らす方法を考え続けるべきだと思います」
住民代表は少し驚いたように姉を見た。
商人側からも、反論は出なかった。
そこで局長が、レオンハルト殿下へ向き直る。
「殿下は、どのようにお考えでしょうか」
皆の視線が一斉に集まった。
けれど、レオンハルト殿下はすぐには答えなかった。
レオンハルト殿下は地図へ目を落とし、それから住民代表、商人代表へと順に視線を向けた。
誰も、その沈黙を急かそうとはしなかった。
「ここへ来るまでは、井戸を作るべきだと思っていた」
ようやく出た答えに、住民たちの顔がわずかに明るくなる。
「実際に東地区も見た。あれだけの人が毎日水を汲むために並んでいるのなら、井戸は必要だ」
住民代表が期待するように身を乗り出した。
けれど、レオンハルト殿下の視線は再び地図へ戻った。
「だが、私は倉庫を選ぶ」
住民代表の肩がわずかに落ちた。
先ほどまで身を乗り出していた者たちも、黙って俯く。
「今困っている人だけを考えるなら、井戸を選びたい。けれど、これからも皇都へ人が集まるのであれば、その人たちの暮らしを支える物資も増える。今のうちに受け入れられる場所を作らなければ、別の問題が起きると思う」
商人代表は静かに頷いた。
一方で、住民たちは誰も口を開かなかった。
「ただし、井戸を選ばなかったからといって、水の問題がなくなるわけではない」
レオンハルト殿下は局長を見た。
「既存の井戸から少しでも多く水を確保する方法はないか。混雑する時間だけでも水運びを増やせないか。遠くの井戸へ行かなければならない家には、何か支援ができないか。調べてほしい」
「承知いたしました」
局長が深く頭を下げる。
「それで井戸不足そのものが解決するとは思っていない。だが、新しい候補地を探しながら、今できることはするべきだ」
住民代表はしばらく俯いていた。
やがて、小さく息を吐く。
顔を上げても、その表情は晴れなかった。
「……お願いいたします」
納得したわけではないのだと思う。
井戸が増えるわけではない。
明日になれば、また同じ列ができる。
それでも、話し合いはそこで一度終わった。
◇
水務局を出ると、皇都の石畳にはまだ多くの人が行き交っていた。
荷馬車が私たちの横を通り過ぎる。
荷台には、たくさんの木箱が積まれていた。
今までなら気にも留めなかったかもしれない。
けれど、さっき倉庫の話を聞いたばかりだからか、そこへ運ばれている一つ一つの荷物まで目に入った。
「私は、まだ迷っています」
隣を歩いていたアルヴィン殿下が、荷馬車を目で追いながら呟いた。
「倉庫が必要なのは分かります。でも、あの井戸を見てしまうと……」
「俺は倉庫ですね」
少し前を歩く兄は、先ほどと同じ答えだった。
「アストさんは迷わないんですね」
「迷わないわけじゃない」
兄は振り返り、少し眉を寄せる。
「でも、どっちか選ばないといけないならな」
姉はしばらく黙って歩いていたが、やがて静かに口を開いた。
「私も倉庫です。ただ、選ばれなかった方々にも誠実であるべきだと思うわ」
アルヴィン殿下はしばらく考えてから、反対側を歩くクラウディア殿下へ顔を向けた。
「姉上はどう思われたのですか?」
皇女殿下はすぐには答えず、少しだけ唇を尖らせた。
「私は……井戸かしら」
思わずそちらを見る。
少し意外だった。
「倉庫が必要なのも分かるわ。でも、毎日水に困っている人に、将来のためだから我慢して、とは言いたくないもの」
言い終えても、クラウディア殿下はどこか納得のいかない顔をしている。
「姉上らしいですね」
「どういう意味よ」
じろりと睨まれ、アルヴィン殿下が笑って誤魔化した。
私は少し考えてから、前を歩くレオンハルト殿下へ声をかけた。
「殿下は、どうして倉庫を選んだのですか?」
レオンハルト殿下は歩みを緩め、こちらを振り返る。
「最初は井戸だと思っていたんだ。実際に困っている人を見たからね。でも、商人の話を聞いて、局長の説明を聞いて、見えていなかったものが見えた」
少しだけ間が空いた。
「間違っている人を止めるのは、たぶんそれほど難しくない」
どういう意味だろう。
私は殿下を見上げた。
「難しいのは――正しい人同士の間で、どちらかを選ぶことなんだと思う」
井戸を望んだ人たちは、間違っていない。
商人たちも、間違っていない。
どちらも必要だった。
それでも、同じ土地には作れない。
領地で給水所を作ったときは、水が足りないなら給水所を作ればいいと思っていた。
もちろん、父上はお金や人手、場所までたくさん考えていたけれど、少なくとも私には、何をすれば人を助けられるのかが見えていた。
でも、いつもそうとは限らないんだ。
どちらを選んでも、困る人がいる。
水務局で見た地図を思い出す。
井戸の場所。修繕予定箇所。利用する人の数。これから増えていく人口。
父上が何かを決める前に、いつもたくさんの資料を集めていた理由が、少しだけ分かった気がした。
知らなければ、選ぶことすらできない。
でも、知れば正しい答えが分かるとも限らない。
ふと、東地区で見た男の子を思い出した。
あの子は、明日も井戸へ並ぶのだろう。
それでも、レオンハルト殿下は倉庫を選んだ。
それが本当に一番良かったのか、私にはまだ分からない。
もしかしたら、誰にも分からないのかもしれない。
それでも、決めなければならない人がいる。
前を歩くレオンハルト殿下の背中を見る。
優しい方だと思っていた。
でも、優しいだけでは皇帝にはなれないのだろう。
どうやら国を治めるというのは、私が思っていたよりずっと難しいようだった。
春風が石畳を吹き抜け、どこからか花びらが舞ってくる。
今の私には、どちらを選ぶべきだったのか分からない。
それでも、いつか私も、どちらも間違っていない選択肢の前で、一つを選ばなければならないのだろうか。
この時の私は、まだ知らなかった。
その問いが、いつか自分自身に向けられる日が来ることを。




