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救済の神子はまだ知らない  作者: 染井吉野
神子候補編
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08.いまさら母の偉大さを知るようです

 母を見送ってから、もう半年近くが過ぎようとしていた。

 庭を彩っていた夏の花は咲き終え、木々の葉先には少しずつ秋の色が混じり始めている。

 窓を開けるたび、風はあの日よりも少しだけ冷たく感じられた。


 最近、私は乳母や教育係に、母の慈善事業についてよく尋ねている。


 前々から母が慈善事業をしていることは知っていた。

 けれど、葬儀の日に弔問客たちから感謝の言葉を聞いてから、もっと詳しく知りたいと思うようになった。


 今日は久しぶりに父と一緒に食事を取った。

 父は忙しいので、普段は乳母や乳母の子供たちと食べることが多い。


 長い食卓には湯気の立つ料理が並び、銀食器が灯りを映していた。

 それでも、母が座っていた席だけは空いたままだった。

 誰もそこへ視線を向けない。それなのに、その空席だけが妙に目についた。

 

「お母様の慈善事業は、今は誰が引き継いでいるのですか?」

「私が引き継いでいる。侍女長や会計官にも任せている」

「よかった……。なくなってしまったのかと思いました」


 父は静かに首を横へ振った。


「母が長い年月をかけて守ってきたものだ。簡単になくすつもりはない」


 その言葉に、胸をなで下ろす。

 けれど父は、すぐに表情を曇らせた。


「とはいえ、公爵家の仕事と並行して続けるのは容易ではない。以前と同じようにはいかないだろう」


 慈善事業の規模は、少しずつ縮小されてしまうのかもしれない。


「セシリアさ……お姉様は?」

「セシリアは寄宿舎暮らしだ。休暇中は手伝っているが、常に関わるのは難しい」


 父は少し考えてから続けた。


「卒業すれば話は別だが、それまでは一部を手伝う程度になるだろう」


 私は母が座っていた席へ視線を向けた。


「……私にも、何かできることはありませんか」


 父が少し驚いたように私を見る。


「私も、お母様が大切にしていたことを引き継ぎたいです」


 父は少し目元を緩ませたかと思うと、またすぐに引き締まった。


「慈善事業は遊びではないぞ」

「はい」


 私は父の目を見据えた。


「でも、お母様は、元気な時は修道院や施療院を訪れていました。私にもできませんか?」

「楽しいことばかりではないぞ」

「分かっています」

「病に苦しむ者もいれば、助けられない者もいる。それでもか」


 私は少しだけ言葉に詰まった。

 それでも、母が座っていた席を見つめる。


「……お母様が何を見ていたのか、知りたいんです」


 父は黙って私を見ていた。


「そうだな……。お前も公爵家の娘として学ぶべきことだ」


 食堂には暖炉の薪がはぜる音だけが響く。

 父はしばらく考え込むように目を伏せ、それからゆっくり口を開いた。


「では、まずは母が支援していた場所を見て回りなさい」

「はい!」

「できることがあれば、お前にも任せよう。ただし、実務はこれまで通り私と担当の者たちが行う」


 父はしばらく黙ったあと、わずかに目元を緩めた。


「お前の母も喜ぶだろう」


 認めてくれて、私はほっと胸をなでおろした。



 それから私は、母が支援していた場所を少しずつ訪ねるようになった。


 修道院や孤児院では、母がしていたように、パンや毛布を届けた。

 子どもたちには、小さな焼き菓子も用意した。

 焼きたてのパンの香りが漂い、庭では子どもたちの笑い声が響いていた。

 毛布を受け取った子どもが嬉しそうに頬ずりする。


 秋風に洗濯物がゆったりと揺れ、修道女たちは穏やかな表情でその様子を見守っている。

 私も簡単な水魔法と風魔法で、洗濯を手伝った。



「ありがとうございます、ルシア様」


 小さな女の子がそう言って、毛布を抱きしめた。

 私は思わず、その頭を撫でた。


 以前のように人々に取り囲まれることはなくなったけれど、祈るように手を合わせる人は今もいる。

 そんな人たちには、できるだけ笑顔で応えた。


 施療院では、寝台を一つずつ回った。

 薬草の香りが満ち、あちこちから咳や苦しそうな息遣いが聞こえてくる。


 咳き込む子供の小さな手は熱く、母親は眠れていないのか、目の下に濃い隈を作っていた。

 私が寝台へ近づくと、母親は縋るようにこちらを見た。


「聖女様……どうか、この子を」


 その声に、胸が少し苦しくなる。


 私は子どもの熱い手を両手で包んだ。


「神々の癒しがありますように」


 淡い光が、小さな手を包む。

 けれど、荒い呼吸は変わらなかった。


「……ごめんなさい」

「いいえ」


 母親は首を横に振った。


「祈っていただけただけでも……ありがとうございます」


 そう言って、涙を浮かべながら何度も頭を下げた。


 怪我や病気で苦しむ人を、いつも助けられるわけではない。

 それでも、寝台を回り、声をかけ、祈ることならできる。


 お母様も、こうして助けられない人たちを見てきたのだろう。

 それでも、ここへ通い続けていた。


 施療院を後にすると、ひんやりとした秋風が頬を撫でた。

 重たい空気を振り払うように深く息を吸い、帰り道、私は給水所へ立ち寄った。


 桶を抱えた人々が列を作り、水を汲む音が絶えず響いていた。

 水面には高い秋空が映り込み、風が吹くたび、小さな波紋が広がる。


「ルシア様の給水所ができてから、腹を壊す子が減りました」

「近頃は、井戸水は洗濯用の水にし、飲み水は給水所の水を使っています」


 そんな言葉を何度も耳にした。


 私がやってきたことも、無駄ではなかったのだ。

 そう思うと、胸が少し温かくなった。


 修道院で毛布を抱きしめていた子ども。施療院で何度も頭を下げていた母親。

 母はもういない。それでも、母が支えようとしてきた人たちは、今もここで暮らしている。


 そして、この給水所には、私が始めたことが少しずつ根づいていた。


 母が残したものと、私がこれから積み重ねていくもの。

 きっと、同じにはならない。


 それでも、私にできる形で、人を支えていきたい。


 澄んだ秋空を見上げる。

 高く伸びる雲が、ゆっくりと流れていた。


 いつか胸を張って、お母様の娘だと言えるようになりたい。


 そう思った。


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