18.いつか清潔も当たり前になるようです
初夏。青く澄み渡った空の下、水公爵領では一年で最も大きな祭り――水神祭の準備が進んでいた。
街道には露店を組み立てる職人の姿があり、商人たちは荷車いっぱいの商品を運び込んでいる。
領都へ向かう道には巡礼者の姿も目立ち、いつもより町全体がどこか浮き立って見えた。
私も父と母に連れられ、水神祭の準備の様子を見て回ることになった。
最初に訪れたのは、中央広場だった。
広場では大勢の人が箒や桶を手に、石畳を磨いている。
「皆さん、お疲れ様です」
母が声を掛けると、町の人々が笑顔で振り返った。
「リヴィア様!」
「ルシア様もいらっしゃったんですね」
子どもたちまで小さな箒を持ち、一生懸命落ち葉を集めている。
私はその光景を見て思わず笑顔になった。
「光神祭の時より、ずいぶん多いですね」
父が静かに頷く。
「ああ。今では祭の前に町をきれいにすることが、少しずつ根付いてきた」
町は以前よりずっときれいだった。
側溝にはごみがほとんどなく、石畳も水で洗われて明るく見える。
掃除を終えた人たちの表情も、どこか誇らしげだった。
「自分たちの町ですもの」
一人の女性がそう言って笑う。
私はその言葉が嬉しかった。
給水所も、清掃の日も、最初は小さな取り組みだった。
それでも、少しずつ町の人たちのものになってきている。
そんな変化を感じながら、私たちは次の場所へ向かった。
石造りの大きな建物から白い湯気が立ち上っている。公衆浴場だった。
「今日は賑わっていますね」
母が管理人へ声を掛けた。
「ええ。水神祭の前ですから」
管理人は額の汗を拭いながら笑った。
「祭の前に身を清めようという方が多いのです」
浴場へ入ると、温かな湯気が辺りを包み込んだ。
入口では浴場番が利用客を案内し、桶を抱えた人々が次々と中へ入っていく。
奥からは楽しそうな笑い声や話し声が聞こえてきた。
その一方で、浴場の者たちは何度も桶を運び、床を磨き、薪をくべるために忙しく行き来していた。
「お忙しそうですね」
「ありがたいことですが、大変でもあります」
管理人は苦笑した。
「本当はもっとこまめに湯を替え、浴槽も掃除したいのですが……」
「難しいのですか」
「はい」
管理人は浴場の奥を指差した。
「水は川から運び、薪で沸かしております。浴槽を空にして洗い、新しい湯を張るだけでも大仕事です。水魔法を使える者がおりますので多少は助かっていますが、それでも数日に一度、張り替えが精一杯です」
私は浴場の奥を見つめた。
町をきれいにしても、体が清潔でなければ病気は減りにくい。
前世では毎日お風呂へ入るのが当たり前だった。
けれど、この世界では違う。
「皆さんは、どのくらい浴場へ来られるのですか」
管理人は少し考えた。
「職人の方でも十日に一度くらいでしょうか。もっと間が空く方も珍しくありません」
「そんなにですか」
「代金も掛かりますが、なにより川で体を流せば十分だと考える方も多いですから」
私は小さく頷いた。
なるほど。お金が払えないわけではない。
必要だと思われていないのだ。
屋敷へ戻る馬車の中で、私は父へ尋ねた。
「父上」
「何だ」
「給水所を担当してくださっている方々は、今も町を回っていらっしゃいますよね」
「ああ。退役騎士を中心に巡回している」
「その皆さんに、公衆浴場も手伝っていただくことはできませんか」
父は私を見た。
「理由を聞こう」
「浴場がもっときれいになれば、また来たいと思う方が増えるかもしれません」
「増える保証はあるのか」
「……ありません」
「給水所とは事情が違う。給水所は水が必要だから使う。浴場は使わなくても生活はできる」
「清潔に暮らす人が増えれば、病気も減ると思うのです」
「思う、では領政は動かせん」
前世では一般的な考えだが、この世界ではどう言えば納得してくれるだろうか。
私は少し考え、以前母と一緒に行った施療院を思い出した。
「施療院では、怪我を洗ってから薬を当てていました」
「ああ」
「汚れたままだと、傷が膿みやすいそうです」
父は頷く。
「昔からそう言われている」
「でしたら、普段から体も清潔にしていた方が傷口も汚れにくくなると思うのです」
父は黙ったまま私を見ている。
「水をきれいにしたら、お腹を壊す方が減りました」
私は給水所の報告を思い出しながら続けた。
「体を清潔にすることも、人を守ることにつながると思うのです」
父はすぐには答えなかった。
馬車の中へ、車輪の音だけが響く。
やがて父が口を開いた。
「理屈は分かる。だが、それで本当に病気が減るとは限らんし、浴場をきれいにすれば利用者が増えるとも限らん」
「はい。だから試したいのです」
私は父の目を見た。
「水神祭の間だけでも、給水班の皆さんに浴場を手伝っていただけませんか」
父は黙って耳を傾けていた。
「掃除や給水を少しでも助けられれば、浴場はもっときれいになります」
「それで終わりか」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「利用した方がどう感じたのか。管理人さんは何に困っていたのか。それを聞いてみたいのです」
父は腕を組んだまま、続きを促すように私を見ている。
「お母様がおっしゃっていました。何が必要なのかは、お話を聞かなければ分からないと」
私は父の目を見て続けた。
「浴場も同じだと思います。皆さんのお話を聞けば、本当に必要なことが見えてくると思うのです」
父はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「管理人も言っていたな。祭の前は利用者が増えると」
「はい」
「普段より利用者が多いなら、反応も集めやすいか」
父は少し考えた。
「期間も限られている。試すにはちょうどいい」
私は思わず顔を上げた。
「祭の期間だけだ。給水班にも負担を掛け過ぎるわけにはいかん。結果を見て、その先を考える」
「はい!」
私は嬉しく頷いた。
すぐに答えは出ない。
でも、一歩ずつ試していけばいい。
給水所も、町の清掃も、そうやって少しずつ広がってきたのだから。
数日後、水神祭が始まった。
給水班の退役騎士たちは給水所を巡回しながら浴場にも立ち寄り、水魔法で浴槽へ給水し、火魔法で湯を沸かし、掃除も手伝った。
「今日は湯を張るのが早く終わりました」
「掃除まで手が回ります」
管理人たちにも少しだけ余裕が生まれたようだった。
「今日は浴場がいつもよりきれいですね」
「気持ちよかった」
「また祭の後にも来ようかな」
そんな声が聞こえるたび、管理人は嬉しそうに笑っていた。
私は浴場を見つめながら思う。
町をきれいにすること。体をきれいにすること。
どちらも、人が元気に暮らすためには欠かせない。
今日だけでは何も変わらないかもしれない。
それでも、「湯に浸かると気持ちがいい」「きれいな浴場は心地いい」と感じる人が一人、また一人と増えていけば。
いつか、この町では体を清潔に保つことも、当たり前になっていくのかもしれない。




