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17/22

17.おかげで慈善を学ぶようです

 六歳になった春。

 屋敷の庭では若葉が風に揺れ、花壇には色とりどりの花が咲き始めていた。冬の冷たい空気はすっかり和らぎ、窓を開けると、どこか甘い花の香りが部屋へ流れ込んでくる。


 朝食の席には父と母、そして私の三人だけが座っていた。


 この春からは兄も姉のように学院へ通い始めたため、二人は普段は皇都で暮らしている。

 長い食卓は少し広く感じられるけれど、父も母も穏やかな表情で食事をしていた。


「ルシア」

「なんでしょう、お母様」

「今日は私と一緒に領都へ参りましょう」

「お出掛けですか?」

「ええ。慈善活動へ行きます」


 慈善活動。母が時々領都へ出掛けていることは知っていたけれど、一緒に行くのは今日が初めてだった。


「孤児院と施療院を回る予定です」


 父は母を見つめた。

「無理はするな」

「ええ」


 短い言葉だったけれど、その声には母を案じる優しさが滲んでいた。


 食事を終えると、父は席を立った。


「行ってまいります、父上」

「ああ。気を付けて行ってこい」


 父は私の頭へそっと手を置く。大きくて温かい手だった。


「ありがとうございます」


 父は小さく頷くと、そのまま執務室へ向かって歩いて行った。


 私は母とともに馬車へ乗り込み、屋敷を後にした。




 畑では農夫たちが土を耕し、村では洗濯物が風に揺れている。

 窓から流れる景色を眺めながら、私は母へ尋ねた。


「お母様は、いつも慈善活動へ行かれているのですか」

「ええ。月に何度かは」

「どうして孤児院や施療院へ?」


 母は窓の外へ目を向けた。


「困っている方が多い場所だからです」

「困っている方……」

「親を亡くした子どもたち。病で苦しむ方。それぞれ事情は違います」


 私は静かに頷く。


「全部助けることは難しいですよね」

「ええ」


 母は穏やかに笑った。


「だからこそ、一人ずつ向き合うのです」

「一人ずつ?」

「その方が何に困っているのか。それを知らなければ、本当に必要な手助けはできませんから」


 私はその言葉を胸の中で繰り返した。

 慈善というと、お金や食べ物を配ることばかり想像していた。

 でも、母は違うらしい。


 そんなことを考えているうちに、馬車はゆっくり速度を落とした。


「さぁ、孤児院に着きましたよ」


 窓の外には白い漆喰の建物が見える。

 庭では子どもたちが元気いっぱいに走り回り、笑い声が春風に乗って聞こえてきた。


 馬車を降りると、一人の修道女が母へ深く頭を下げた。


「リヴィア様、本日もありがとうございます」

「皆さん、お変わりありませんか」

「はい。子どもたちも元気にしております」


 その様子だけで、母が何度もここを訪れていることが伝わってきた。

 そのときだった。


「リヴィア様!」


 庭で遊んでいた子どもたちが一斉に駆け寄ってくる。


「来てくれた!」

「こんにちは!」


 母は一人ひとりの目を見て微笑んだ。


「こんにちは、ヨハン」

「元気でしたか、エルナ」

「この前のお野菜、大きくなりましたか?」


「うん!」

「見て見て!」


 子どもたちは競うように母へ話しかけている。

 私は思わず目を丸くした。


「お母様……皆さんのお名前を覚えていらっしゃるのですか」


「もちろんですよ」

 母は楽しそうに答えた。

「何度も会っていますから」


 修道女も微笑む。

「リヴィア様は、来られるたびに子どもたちのお話を聞いてくださるのです」


 その言葉通りだった。


 母は急ぐ様子もなく、一人ひとりの話へ耳を傾けている。


 礼拝のこと。畑のこと。転んだこと。

 小さな出来事まで嬉しそうに聞いていた。


 すると、一人の女の子が私を見つける。


「その子は?」


 母が私の肩へ優しく手を添えた。


「娘のルシアです」

「ルシア様?」


 女の子は目を輝かせた。


「一緒に遊ぼ!」

「えっ?」


 突然手を引かれ、私は戸惑って母を見る。

 母は優しく頷いた。


「行ってらっしゃい」

「でも、お手伝いは……」

「子どもたちと遊ぶことも、大切なことですよ」

「そうなのですか?」

「ええ。笑顔になる時間も、その子たちには必要なのですから」


 私は少し迷ったあと、小さく頷いた。


「……はい!」


 子どもたちの輪へ駆け出すと、すぐに鬼ごっこが始まった。


 庭いっぱいを走り回る子どもたち。笑い声が春空へ響いていく。

 子供たちの笑顔が嬉しい。

 気付けば私まで夢中になって走っていた。


 鬼ごっこが終わる頃には、私はすっかり息を切らしていた。


「ルシア様、速かった!」

「もう一回!」


 子どもたちが口々に笑う。

 その様子を見ていた修道女が、手を軽く叩いた。


「皆さん、おやつの時間ですよ」

「はーい!」


 元気よく返事をすると、子どもたちは一斉に建物の中へ駆けていった。

 私も母のもとへ戻る。


「お疲れさま」


 母は懐から布を取り出し、私の額の汗を優しく拭った。


「皆さん、とても元気ですね」

「ええ。その笑顔を見るたびに、私も元気をいただいています」


 そのとき、修道女が帳簿を抱えて歩み寄った。


「リヴィア様、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」

「もちろんです」


 母は修道女と建物の奥へ入っていった。

 私は廊下の長椅子へ腰掛けて待つことにする。


 部屋の扉は少しだけ開いていて、中から話し声が聞こえてきた。


「この春は五人、新しい子どもを迎えました」

「そうでしたか」

「服や寝具が少し足りなくなりまして……」

「分かりました。手配いたします」

「ありがとうございます」


 母は迷うことなく答えていた。

 何を持っていけばいいのか、何が必要なのか。

 それを修道女へ尋ねながら、一つずつ帳簿へ書き留めている。


 しばらくして部屋を出た母へ、私は尋ねた。


「お母様」

「はい」

「今日は、お菓子やお洋服を渡しに来たのではなかったのですか」


 母は優しく微笑んだ。


「それも慈善の一つです」

「でも、それより大切なのは、お話を聞くことなのですよ」

「お話を?」

「ええ」


 母は孤児院を振り返る。


「困っていることは、毎年変わります。食べ物が足りない年もあれば、お布団が足りない年もあります。だから、まずは何に困っているのかを知ることが大切なのです」


 私は静かに頷いた。


 相手のことを知らなければ、本当に助けることはできない。


 その言葉は、私の胸へすっと落ちてきた。




 孤児院を後にした私たちは、そのまま施療院へ向かった。

 建物へ入ると、薬草の香りがふわりと漂う。


 病室には何人もの患者さんが横になり、施療師や聖職者が静かに行き来していた。


 孤児院とは違い、ここには笑い声はない。

 代わりに、小さな咳払いと祈りの声だけが聞こえていた。


 母は寝台の一つへ歩み寄る。


「こんにちは」

「リヴィア様……」


 年配の女性が穏やかに笑う。


「お加減はいかがですか」

「まだ少し熱があります。でも、お話しすると元気になります」


 母は椅子へ腰掛け、その女性の話を静かに聞き始めた。


 病気のことだけではない。家族のこと。畑のこと。孫のこと。

 話し終える頃には、その女性の表情は少しだけ明るくなっていた。


 施療院では、病気だけではなく、怪我の治療も行われていた。


 施療師さんは、傷口を丁寧に水で洗ってから薬草を当てている。

 この世界には、まだ細菌という考え方はないだろう。

 それでも、「傷はきれいにした方が治りやすい」ということは、長い経験の中でちゃんと受け継がれているらしい。


 学問がなくても、人は経験を積み重ねてきたのだ。


 施療院を出たあと、私は母へ尋ねる。


「お話をするだけでも、元気になれるのでしょうか」


 母はゆっくり頷いた。


「病気そのものは治らないかもしれません。ですが、心が軽くなることはあります。一人ではないと思えることも、大切なのですよ」


 私は病室を振り返った。まだ苦しそうな人もいる。

 それでも母は、一人ひとりへ寄り添っていた。




 帰りの馬車の中。


 夕日が窓から差し込み、車内を淡い橙色に染めていた。


「今日はどうでしたか」


 母が静かに尋ねる。

 私は少し考えてから答えた。


「慈善というのは、何かを差し上げることだと思っていました。でも違いました。相手のお話を聞いて、その人が何に困っているのかを知ること。それが一番大切なのですね」


 母は嬉しそうに微笑んだ。


「そう思っていただけたなら、一緒に来てもらって良かったです」


 私は窓の外を眺めた。


 孤児院の子どもたち。施療院の患者さん。

 困っている人は、それぞれ違う。


 だから、助け方も一つではないのだろう。


 私も、いつか。

 母のように、一人でも多くの人の力になれるだろうか。


 まだ分からない。

 それでも今日学んだことは、きっと忘れない。


 馬車は夕暮れの街道をゆっくりと進み、春風に揺れる木々の間を抜けながら、屋敷への帰路をたどっていった。


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