17.おかげで慈善を学ぶようです
六歳になった春。
屋敷の庭では若葉が風に揺れ、花壇には色とりどりの花が咲き始めていた。冬の冷たい空気はすっかり和らぎ、窓を開けると、どこか甘い花の香りが部屋へ流れ込んでくる。
朝食の席には父と母、そして私の三人だけが座っていた。
この春からは兄も姉のように学院へ通い始めたため、二人は普段は皇都で暮らしている。
長い食卓は少し広く感じられるけれど、父も母も穏やかな表情で食事をしていた。
「ルシア」
「なんでしょう、お母様」
「今日は私と一緒に領都へ参りましょう」
「お出掛けですか?」
「ええ。慈善活動へ行きます」
慈善活動。母が時々領都へ出掛けていることは知っていたけれど、一緒に行くのは今日が初めてだった。
「孤児院と施療院を回る予定です」
父は母を見つめた。
「無理はするな」
「ええ」
短い言葉だったけれど、その声には母を案じる優しさが滲んでいた。
食事を終えると、父は席を立った。
「行ってまいります、父上」
「ああ。気を付けて行ってこい」
父は私の頭へそっと手を置く。大きくて温かい手だった。
「ありがとうございます」
父は小さく頷くと、そのまま執務室へ向かって歩いて行った。
私は母とともに馬車へ乗り込み、屋敷を後にした。
畑では農夫たちが土を耕し、村では洗濯物が風に揺れている。
窓から流れる景色を眺めながら、私は母へ尋ねた。
「お母様は、いつも慈善活動へ行かれているのですか」
「ええ。月に何度かは」
「どうして孤児院や施療院へ?」
母は窓の外へ目を向けた。
「困っている方が多い場所だからです」
「困っている方……」
「親を亡くした子どもたち。病で苦しむ方。それぞれ事情は違います」
私は静かに頷く。
「全部助けることは難しいですよね」
「ええ」
母は穏やかに笑った。
「だからこそ、一人ずつ向き合うのです」
「一人ずつ?」
「その方が何に困っているのか。それを知らなければ、本当に必要な手助けはできませんから」
私はその言葉を胸の中で繰り返した。
慈善というと、お金や食べ物を配ることばかり想像していた。
でも、母は違うらしい。
そんなことを考えているうちに、馬車はゆっくり速度を落とした。
「さぁ、孤児院に着きましたよ」
窓の外には白い漆喰の建物が見える。
庭では子どもたちが元気いっぱいに走り回り、笑い声が春風に乗って聞こえてきた。
馬車を降りると、一人の修道女が母へ深く頭を下げた。
「リヴィア様、本日もありがとうございます」
「皆さん、お変わりありませんか」
「はい。子どもたちも元気にしております」
その様子だけで、母が何度もここを訪れていることが伝わってきた。
そのときだった。
「リヴィア様!」
庭で遊んでいた子どもたちが一斉に駆け寄ってくる。
「来てくれた!」
「こんにちは!」
母は一人ひとりの目を見て微笑んだ。
「こんにちは、ヨハン」
「元気でしたか、エルナ」
「この前のお野菜、大きくなりましたか?」
「うん!」
「見て見て!」
子どもたちは競うように母へ話しかけている。
私は思わず目を丸くした。
「お母様……皆さんのお名前を覚えていらっしゃるのですか」
「もちろんですよ」
母は楽しそうに答えた。
「何度も会っていますから」
修道女も微笑む。
「リヴィア様は、来られるたびに子どもたちのお話を聞いてくださるのです」
その言葉通りだった。
母は急ぐ様子もなく、一人ひとりの話へ耳を傾けている。
礼拝のこと。畑のこと。転んだこと。
小さな出来事まで嬉しそうに聞いていた。
すると、一人の女の子が私を見つける。
「その子は?」
母が私の肩へ優しく手を添えた。
「娘のルシアです」
「ルシア様?」
女の子は目を輝かせた。
「一緒に遊ぼ!」
「えっ?」
突然手を引かれ、私は戸惑って母を見る。
母は優しく頷いた。
「行ってらっしゃい」
「でも、お手伝いは……」
「子どもたちと遊ぶことも、大切なことですよ」
「そうなのですか?」
「ええ。笑顔になる時間も、その子たちには必要なのですから」
私は少し迷ったあと、小さく頷いた。
「……はい!」
子どもたちの輪へ駆け出すと、すぐに鬼ごっこが始まった。
庭いっぱいを走り回る子どもたち。笑い声が春空へ響いていく。
子供たちの笑顔が嬉しい。
気付けば私まで夢中になって走っていた。
鬼ごっこが終わる頃には、私はすっかり息を切らしていた。
「ルシア様、速かった!」
「もう一回!」
子どもたちが口々に笑う。
その様子を見ていた修道女が、手を軽く叩いた。
「皆さん、おやつの時間ですよ」
「はーい!」
元気よく返事をすると、子どもたちは一斉に建物の中へ駆けていった。
私も母のもとへ戻る。
「お疲れさま」
母は懐から布を取り出し、私の額の汗を優しく拭った。
「皆さん、とても元気ですね」
「ええ。その笑顔を見るたびに、私も元気をいただいています」
そのとき、修道女が帳簿を抱えて歩み寄った。
「リヴィア様、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
母は修道女と建物の奥へ入っていった。
私は廊下の長椅子へ腰掛けて待つことにする。
部屋の扉は少しだけ開いていて、中から話し声が聞こえてきた。
「この春は五人、新しい子どもを迎えました」
「そうでしたか」
「服や寝具が少し足りなくなりまして……」
「分かりました。手配いたします」
「ありがとうございます」
母は迷うことなく答えていた。
何を持っていけばいいのか、何が必要なのか。
それを修道女へ尋ねながら、一つずつ帳簿へ書き留めている。
しばらくして部屋を出た母へ、私は尋ねた。
「お母様」
「はい」
「今日は、お菓子やお洋服を渡しに来たのではなかったのですか」
母は優しく微笑んだ。
「それも慈善の一つです」
「でも、それより大切なのは、お話を聞くことなのですよ」
「お話を?」
「ええ」
母は孤児院を振り返る。
「困っていることは、毎年変わります。食べ物が足りない年もあれば、お布団が足りない年もあります。だから、まずは何に困っているのかを知ることが大切なのです」
私は静かに頷いた。
相手のことを知らなければ、本当に助けることはできない。
その言葉は、私の胸へすっと落ちてきた。
孤児院を後にした私たちは、そのまま施療院へ向かった。
建物へ入ると、薬草の香りがふわりと漂う。
病室には何人もの患者さんが横になり、施療師や聖職者が静かに行き来していた。
孤児院とは違い、ここには笑い声はない。
代わりに、小さな咳払いと祈りの声だけが聞こえていた。
母は寝台の一つへ歩み寄る。
「こんにちは」
「リヴィア様……」
年配の女性が穏やかに笑う。
「お加減はいかがですか」
「まだ少し熱があります。でも、お話しすると元気になります」
母は椅子へ腰掛け、その女性の話を静かに聞き始めた。
病気のことだけではない。家族のこと。畑のこと。孫のこと。
話し終える頃には、その女性の表情は少しだけ明るくなっていた。
施療院では、病気だけではなく、怪我の治療も行われていた。
施療師さんは、傷口を丁寧に水で洗ってから薬草を当てている。
この世界には、まだ細菌という考え方はないだろう。
それでも、「傷はきれいにした方が治りやすい」ということは、長い経験の中でちゃんと受け継がれているらしい。
学問がなくても、人は経験を積み重ねてきたのだ。
施療院を出たあと、私は母へ尋ねる。
「お話をするだけでも、元気になれるのでしょうか」
母はゆっくり頷いた。
「病気そのものは治らないかもしれません。ですが、心が軽くなることはあります。一人ではないと思えることも、大切なのですよ」
私は病室を振り返った。まだ苦しそうな人もいる。
それでも母は、一人ひとりへ寄り添っていた。
帰りの馬車の中。
夕日が窓から差し込み、車内を淡い橙色に染めていた。
「今日はどうでしたか」
母が静かに尋ねる。
私は少し考えてから答えた。
「慈善というのは、何かを差し上げることだと思っていました。でも違いました。相手のお話を聞いて、その人が何に困っているのかを知ること。それが一番大切なのですね」
母は嬉しそうに微笑んだ。
「そう思っていただけたなら、一緒に来てもらって良かったです」
私は窓の外を眺めた。
孤児院の子どもたち。施療院の患者さん。
困っている人は、それぞれ違う。
だから、助け方も一つではないのだろう。
私も、いつか。
母のように、一人でも多くの人の力になれるだろうか。
まだ分からない。
それでも今日学んだことは、きっと忘れない。
馬車は夕暮れの街道をゆっくりと進み、春風に揺れる木々の間を抜けながら、屋敷への帰路をたどっていった。




