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14.気がつけば私にもできることがあるようです

 収穫期に入った。

 父に連れられて、領都の農村と城下町に遊びに――いや、視察に来た。


 馬車が揺れるたび、車輪が乾いた土を踏みしめる音が響く。

 やがて視界いっぱいに黄金色の麦畑が広がった。

「きれい……」

 風が吹くたび、穂が波のように揺れる。


 遠くでは水車がゆっくりと回り、澄んだ用水路の水が畑の間を流れていた。


 農村では、農民たちが額に汗を浮かべながら、鎌で麦を刈り取っている。

 畑では玉ねぎやキャベツ、エンドウ豆が収穫され、果樹園ではりんごや梨、葡萄が枝いっぱいに実っている。

 家々の軒先には乾燥させた薬草や玉ねぎが吊るされていた。


「梨……!」

 私は籠いっぱいに積まれた梨に目を向けた。

「ルシア様、食べますか?」


 農民が差し出した梨を受け取ると、後ろの従者が代金を渡していた。


「梨、おいし~~」


 果汁が口いっぱいに広がる。前世で食べた梨と変わらない甘さに、思わず頬が緩んだ。


 その一方で、村のあちこちでは冬支度も始まっていた。

 薪を高く積み上げる人。収穫した穀物を倉へ運ぶ人。

 豚を解体し、燻製や塩漬けにして保存食を作る人。うっ……今は見たくなかった……。



 ――気を取り直して城下町に赴いた。


 収穫祭を前にした街は、一年で最も活気づく季節を迎えていた。

 石畳の大通りには、農村から戻ってきた荷馬車が何台も列をなし、山のように積まれた麦束や野菜を運んでいる。

 花売りの露店には秋の花が並び、香草の香りが風に乗って漂ってきた。

 

 川沿いでは、酒造や製粉所が大きな音をたてて休みなく動き続けている。


 父は、倉庫へ運ばれた作物の備蓄状況を一つひとつ確認していた。

 領民が冬を越せるかどうかは、この時期の備えにかかっているのだという。


「収穫は良さそうに見えますね」

「ああ。今年は実りが良い」

「それなら安心ですね」

「そうとも限らん」


 父は荷馬車へ目を向けた。


「収穫できても、保管を誤れば腐る。運べなければ売れん。冬まで持たねば意味はない」


 父は倉庫を離れ、さらに街の様子を見て回る。


 そばでは商人の客を呼び込む声が聞こえてきた。

 焼きたての黒パンや燻製肉の香りが風に乗って漂ってきた。


 井戸の前には長い列ができている。

 人々は桶へ水を汲み、子どもたちはその場で喉を潤していた。


 その時、生ごみが腐ったような臭いが風に乗って漂い、思わず鼻をしかめる。

 城下町の賑わいには似つかわしくない臭いだった。

 臭いのする方へ目を向けると、井戸のすぐそばを、汚れた排水が流れていた。


 うっ、汚い……。住人は平気なのかな?

 排水は濁っていて、野菜くずや家畜の糞まで混ざっているように見えた。


「父上、井戸のすぐそばに汚水が流れています」

「……それがどうした?」

「病気になる人が増えると思います」

「井戸へ流れ込んでいるようには見えんが」

「汚れた水が土の中を通って、井戸に悪い影響を与えると思います」


 まだこの世界には、細菌の概念はないのだろうか。


「ふむ……杞憂だと思うが、調べてみるか」


 父は近くに控えていた側近へ視線を向けた。


「井戸と排水路を調べよ」

「はっ」



 ——数日後。教育係から勉強を教わっていると、父から呼び出された。


「失礼します」


 初めて入る父の執務室はとても広く、中央には大きな執務机が鎮座していた。

 壁には、公爵領の全体図や、領都の地図が張られていた。湖の絵と、水神様の紋章も飾られている。


「ルシア、こちらに来なさい」


 父の執務机に寄る。机にはたくさんの書類が積まれ、羽ペンやインク壺、封蝋などが置かれていた。

 開かれた窓から秋風が吹き込み、一番上の書類がかすかに揺れる。

 公爵というのは、毎日こんなにも仕事をするらしい。


「井戸の位置や排水路、周辺の様子も調べさせた。確かに汚水の近くにある井戸ほど、熱病や腹を下す者が多かった」

 父は資料に目を落としながらそう言った。

「偶然かもしれん。だが無視できる差ではなかった」

 そこで父は、難しい顔を緩めた。


「お前が言わねば、私は気づかなかったかもしれん」

 私の頭に手を置き、父は珍しく微笑んだ。

 しかし、すぐにいつもの真面目な顔に戻った。


「だが原因が井戸かどうかまでは分からん」

「でも」

「ただ、お前の指摘は無視できない」

 それを聞いて私は胸を撫で下ろした。


「しかし新しい井戸を掘るにせよ、側溝を引き直すにせよ、すぐにはできん」

「そんなに大変なの?」

「人手も石材も必要だからな。今年中に全て改善するのは難しい」

 父は腕を組み、窓の外へ目を向けた。

「石工も大工も限られている。橋の補修も、城壁の修繕もある」

「うーん……」


 壁いっぱいに広げられた領都の地図へ近付く。

 青い線で川が描かれ、小さな丸印が井戸を表していた。


「これは何ですか?」

「昔使われていた貯水槽だな」

「使えないのですか?」


 父は顎へ手を当て、地図と私を交互に見た。


「改修すればすぐ使えるだろうな」

「それなら……!」

「しかし、近くの井戸はお前の言う汚染された井戸だ。町を流れる川は飲めん。上流まで汲みに行くなら話は別だがな」

「では、その上流から運ぶのですか?」

「それも手間がかかる。本来なら水運び人を雇うところだ」

「……屋敷のように、水魔法では給水できないのですか?」


 屋敷では、使用人たちが水魔法を用いて給水している姿をよく見かける。


「市民には、そもそも水魔法を使える者が少ない。まして、大規模な水魔法を使える者となればなおさらだ」

「水魔法の使い手が足りないんですね……」

「ああ。そのような者がいれば、すぐに貴族や教会が取り立てている」


 この屋敷では、魔法があまりにも身近にありすぎて、忘れていた。

 普通の市民に水魔法を使える者は少ない。使えたとしても、コップ一杯の水を出したり、顔を洗ったりする程度の生活魔法くらいだ。


「それなら、私が行きます」

「ルシアがか?」

「貯水槽なら満たせると思います!」


 細かい魔法の制御は難しいが、水をたくさん出すことはできる。

 きれいな水を飲める場所が増えれば、病気の住人も減るだろう。


「貯水槽は一週間もすれば空になるぞ」

「毎週行きます!」

「一生続けるのか?」

「うっ……私だけでは続けられません。騎士や使用人の方にもお願いできませんか」


 父は腕を組んだ。


「確かに、水運び人を雇い続けるよりは効率が良いかもしれん。水魔法を使える者なら、一人で桶何十杯分もの水を用意できるからな」



 父は考え込むように眉間に皺を寄せた。

 部屋には窓の外で揺れる木々の音だけが聞こえる。

 やがて小さく頷いた。


「試してみる価値はある。公爵家の慈善事業として、使用人や騎士が給水を兼務するように手配しよう」

「ありがとうございます!」


「給水所で病人が減るようなら、やはり井戸に問題があるのだろう。そうなれば井戸の配置も排水路も見直さねばならん」

 父は険しい顔をした。


「だが、それまでは貯水槽を設置し、公爵家の騎士と使用人が交代で給水するとしよう。

 領民にも、公爵家が動いていることを示せるしな」


 父は椅子にもたれ、私をじっと見た。


「せっかくだ。初回の給水は、ルシアにやってもらい、領民にも見せよう」

「見せるのですか?」

「水公爵家が領民のために水を用意する。それを示すのも領主の務めだ」


 なるほど。そういうものらしい。



 ――数週間後。


 使われなくなっていた古い貯水槽は修繕され、公爵家の紋章が刻まれた給水所へと生まれ変わった。


 周囲には多くの領民が集まっている。

 子供たちは肩車をされ、商人たちは仕事の手を止め、農民たちも興味深そうにこちらを見ている。

 早くも桶を持って並び始めている人もいる。


「ルシア様だ!」

「公爵家のお嬢様ー!」

「黒髪黒目の……」

「ノクティス王国の特徴にそっくりだ」


 従者に抱き上げられ、貯水槽の縁から、ぽっかりと開いた穴を見下ろした。


 高い貯水槽の上から見下ろすと、思っていたよりたくさんの人がこちらを見上げていた。

 小さな子どもがお母さんの手を握りながら私を見つめている。


「本日より、公爵家の管理する給水所を開放する。我が娘、ルシア・アクエリアが最初の給水を行う」


 と、父が高らかに宣言した。

 みんなに注目されて恥ずかしい。失敗したらどうしよう。


 水、みず……。

 私は貯水槽に手をかざした。そして、庭園にある湖の水を思い浮かべる。

 澄み切った青い水を。キラキラと陽光を反射させる、綺麗な水を。


 次の瞬間、掌から清らかな水が溢れ出した。


 思ったより魔力を使う。

 腕が少し震え、体の奥から力が抜けていくような感覚がした。


 それでも、水は少しずつ増えていった。

 水面は陽光を受けてきらきらと輝き、静かに貯水槽いっぱいへ広がっていく。


「おお……」

「すごい……」

「さすがアクエリア公爵家だ」

「水神様の血筋だな」

 

 水が縁まで満ちると、誰からともなく拍手が起こった。

 子どもたちは歓声を上げ、大人たちも顔を見合わせて頷いている。


 後ろを振り返ると、父も満足げに頷いた。


「ルシア様、ありがとう!」

「ありがとう!」

 子供たちが手を口に当てて叫んだ。

 

 私はただ貯水槽に水を満たしただけなのに。


 けれど、領民たちにとっては、それだけでも大きなことだったらしい。

 領民たちは本当に嬉しそうに笑っていた。それだけで胸の奥が少しだけ温かくなる。


 誰かの役に立てたのなら嬉しい。


 日本では当たり前だったことが、この世界ではまだ当たり前ではない。

 だったら、少しずつでも変えていけたらいいな。


 帰りの馬車から城下町を振り返る。


 人々は新しい給水所で水を汲み、子どもたちは笑いながら桶を運んでいた。


 あの水が、誰かの明日を支えてくれるなら。


 魔法を使って誰かに喜ばれたのは、初めてだった。


 私なんかでも、この世界でできることはあるのかもしれない。そんなふうに思えた。

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