日野畑高校の妖精
「むむむむ――」
イルムと親父殿、魚人たちと出会い、そして別れてから1週間。
今日も今日とて学校で朱鷺海 恋慈は席に座って読めもしない参考書を逆さまにして眺めていたのだが、チラと本から顔を上げ、前の席で机に突っ伏している幸之信に目をやった。
「幸、いい加減切り替えてくれないか?」
「う~、イルムとおじいちゃん、あの後大丈夫だったかな。子どもたちは無事かな――ああもう! なんで日帰りなんだよ」
「気持ちはわかるが、騒いでも仕方がないだろう。それにイルムと翁ならなんとかやっているさ、あいつらは強い」
「むぅ……そうかもだけどさぁ」
椅子ごと回し、前を向いていた幸之信が恋慈へと向きを変え、控えめな表情の上目遣いで唇を尖らせ、小さく頬を膨らまして恋慈に目を向ける。
「次に向こうに行くことがあったら誰かに聞いてみよう。噂になってるかもしれんだろ」
「もう1週間経ってるんですけど」
「焦るな焦るな、それに毎日なんて行ってられないだろ。さすがに体がもたん」
恋慈はふと、幸之信の肩に軽く手で触れ、思案顔を浮かべる。
「……怪我はとっくに大丈夫だっての。それよりも1人で絶対に行くなよ」
「わかってるさ」
眉間に寄っていたしわをやっと戻した幸之信が学校指定のカバン――ではなく、あの異世界での出来事の後に購入した大きめの肩にかけるボストンバックの中を恋慈に見せた。
「またいつああいうことが起きてもいいように、色々詰めてきたよっ」
「重いだろうに。無理するなよ」
「へっちゃらだいっ」
恋慈は幸之信に微笑みを返すのだが、彼は不意に振り返った。
「恋慈?」
「いや、今誰かに見られていたような――」
すると突然廊下が騒がしくなる。
先ほどまでただの軽い口論だった男子生徒2人が殴り合いの喧嘩に勃発し、それにヤジを飛ばしていた別の生徒たちも突如隣の人間に殴り掛かる、日野畑高校名物、まっぴる喧嘩である。
お昼休みの長い休み時間に発生する喧嘩で、やることもなく時間を持て余した生徒たちが暇つぶしなどの理由により喧嘩をはじめ、それを同じく暇をしていた生徒たちに伝播する喧嘩のことである。
幸之信が呆れたように発生した喧嘩を眺めていたのだが、誰かが投げた消火器がすっぽ抜けて目標から逸れ、変な軌道で幸之信目掛けて飛んできた。
「ひゃっ――」
両目をつぶり、両手で頭を抱え体を縮こめる幸之信の正面に、恋慈が目視できないほどの速さのパンチを放ち、消火器を吹っ飛ばしてそれを投げた男子生徒を睨みつけた。
睨まれた男子生徒は人懐っこい顔ですまんすまん。と片手を立てそれを振って謝罪するのだが、その彼と殴り合っていた男子生徒が蒼い顔を浮かべて「あっ」と声を上げた。
恋慈もまた、彼の背後に目をやって頭を抱える。
「何だかんだお兄ちゃん大好きっ子だからなぁ」
「う~……恋慈ありがと~って、凜ちゃん?」
消火器を投げた男子生徒の背後にそっと這いよる影――その影はスカートを翻し、腰まで伸びた赤茶の髪をなびかせ、前髪をかき上げて男子生徒に笑みを浮かべていた。
手にはひしゃげた鉄パイプが握られている。
消火器の彼が振り返り、体を震わせながら口を開き「……暴精」と言うと、他の生徒も「リトルフェアリーだ」や「誰だクローバーに手を出したの!」や「……今日はもう終わったかもしれん」などなどの声が悲壮感漂う空気の中で聞こえた。
消火器の彼が引きつった顔でヘラヘラすると、妖精の名を持つその者が無邪気なまでに可愛らしい笑顔でニコっと彼に笑いかけた。
消火器の彼もへへっと笑顔を返すのだが、その瞬間、ほとんどノーモーションで振られた鉄パイプが彼の顔面に届き、顔を歪めながら飛んで行った。
血液がキラキラと陽の光を浴びて輝くその中心で、まるで舞うように鉄パイプをぶん回しているその見た目可愛らしい者。
笑顔を浮かべるのを忘れずに、血しぶき舞うその空間で、その小さな体躯と髪をなびかせる様はまさに妖精で、敵味方の区別なく、ただただ血の虹を作り出していた。
「……うん。凜は今日も元気だな」
可愛らしい見た目と相まって、この学校では人気も高く、それと同様に恐れられている。足が露出している短いスカートに、制服ではなくワイシャツにリボン、長い髪に、人目を惹く可愛らしく幼い顔、マニキュアを気にする程度には乙女らしい感性を持ち、私服もどれも可愛らしい。街に出れば何かにスカウトされるし、ナンパも多い。
なお、この日野畑高校は男子校である。
男子高校である!
「わっわっ、凜ちゃん怪我しなければいいけど」
「……あれに限ってそれはない」
鉄パイプをあちこちに振り回し、笑顔を振りまくその姿はまさに暴れる妖精。




