第10話 case 3-ボス「ヴォス」
その頃、ボストンではアビゲイルが愛犬のボスと散歩をしていた。
ボスは真っ白のラブラドールレトリバーで、飼い主であるアビゲイルとエヴァに非常に懐いている。とても賢く、三角の垂れ目で、『ヴォス、ヴォス』と吠える。
「今日も天気が良くて気持ちいいなぁ、ボス」
「ヴォス」
ボスはアビゲイルの言葉を理解しているかのように答えた。
「ボス、お前は賢いなぁ〜」
アビゲイルがボスの両頬をグルグルと撫で回すと、小さな三角の目が伸び縮みする。
アビゲイルはボスのこの顔がとても可愛く大好きであった。
ボスはよだれを垂らしながらアビゲイルの顔を舐め回した。
「ハッハッハッ、お腹が空いたか。もうすぐ家だ、家に着いたらご飯だな」
「ヴォス!ヴォス!」
よだれを飛ばしながらボスは答えた。
家に着くとエヴァが既にご飯の準備をしてくれていた。
ボスはエヴァの元へトップスピードで走って
行ったが、手前でスピードを落とし、エヴァの足元に何回も頬ずりをした。
ボスはエヴァの足が悪い事を理解しているようだった。
「おかえり、ボス」
エヴァはいつも優しく頭を撫でていた。
「まだだぞ、待てだ、待て、お座りだ」
アビゲイルが向こうの方から歩きながら、大きな声でボスに伝えた。
ボスは早くご飯が食べたいと言わんばかりに、お座りの状態で体を左右に揺らしている。
アビゲイルは焦らすように笑顔で歩き、ご飯が入った器の横に座り込んだ。
「よしっ」
アビゲイルの一言でボスはご飯を一心不乱に
食べた。それはそれは、とても美味しそうに。
「ハッハッハッ、美味しいか?ボス」
「…、…、…、」
ボスは食事中は答えない。
「ボスはいつも美味しそうに食べるわね。それじゃあ、私達も朝食にしましょう」
足の悪い妻を気づかい、2人で歩く時はいつも腕を組んでいる。
リビングには朝食の準備が整っており、トーストとコーヒーの良い香りがしていた。
椅子を引きエヴァをゆっくり座らせると、アビゲイルは正面のいつもの椅子に座り同時に朝食を食べ出した。
新聞を読んでいたアビゲイルはうなだれた…
「カールがまた負けたよ…」
カールとはアメリカで有名なプロテニスプレイヤー。
「あら、また負けちゃったの」
アビゲイルはカールのファンであったが最近調子が悪く敗戦が続いていた。
フルネームはカール・ベアであり、一般的にはベアと呼ばれていたが、アビゲイルは猛烈なファンのため、ファーストネームで呼んでいた。
「27歳…まだまだ若いとは言え、最近出て来た新人達にやられてるんだ…」
「若い子達は勢いがありますね、カールはこのまま引退してしまうんですかねぇ」
「い〜や、カールはやられっぱなしで引退なんかしないよ、テニスは体力・瞬発力も大事だがそれ以上に経験と勘も大事なんだ。カールは今の敗戦を肥やしにするさ」
アビゲイルは名コーチのように今のカールの事を解説し、なぜか得意気であった。
「さすが、学生時代にやってただけありますねぇ」
「ハッハッ、もう何十年も前の話だけどね。
一度で良いからカールとテニスしてみたいよ」
「それは夢のような話ですねぇ、定年後は一緒に
ツアー回りましょうか〜」
「おぉ〜、それはいいねぇ。カールはいずれ4大大会を制覇するよ。とりあえず、全米オープンを観戦しに行こうか〜」
2人の会話はとても軽快で、楽しい朝食の時間を過ごした。
アビゲイルは出勤の準備を整えると、リビングに入ってきていたボスの両頬を撫で回し笑顔になっていた。
「ボス、私が留守の間エヴァを頼んだぞ」
「ヴォス!」
ボスはしっかりと返事をした。
「あなた、ちょっと待って」
エヴァが椅子からゆっくり立ち上がり、
悪い足を引きずりながら、アビゲイルに近づき襟の乱れを直した。
「今日が最後の出勤ね。長い間お疲れ様でした。良いお肉買っておきますから」
「おっ、今日はステーキか。ビールで乾杯
だな。買い物は1人で大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫よ。アリアが送ってくれた杖がありますから」
アリアとはカミラの妻で、いつもエヴァを気づかい色々な物をプレゼントしてくれていた。
「そうか、じゃあボス頼むぞ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「ヴォス!ヴォス!、ヴォス!ヴォス!」
ボスもアビゲイルの最後の出勤を理解しているのか、いつもより多く吠えて送り出した。




