第2話 退職届の提出
静まり返る夜会会場に、パシィン、と乾いた音が響いた。
大理石の床に滑り込んだのは、美しい金文字で書かれた私の『退職届』だ。
「……リ、リリア? これは何だ?」
シリウス殿下が、信じられないものを見る目で足元の紙を見つめている。
私はドレスの裾を上品につまみ、完璧な一礼をして見せた。
「見ての通りにございます、シリウス殿下。私、リリア・エインズワースは、本日をもちまして筆頭補佐官の職を辞任いたします」
「なっ……!? バカなことを言うな! お前が辞めたら、明日からの政務はどうするのだ!」
殿下が顔を真っ赤にして怒鳴る。
周囲の貴族たちも「あの有能なリリアが?」「正気か?」とざわつき始めた。
どうやら、私が殿下の仕事をすべて肩代わりしていたことは、薄々周囲も察していたらしい。
「どうするのか、ですか? それは殿下がお一人で、あるいはそちらの愛しいシャーロット様とお二人でお考えになればよろしいかと存じます。私はもう、これ以上無能の尻拭いをする気はございませんので」
「む、無能だと……!? この僕に向かって何たる不敬か!」
「不敬。ええ、そうですね。ですが、クビになる前に自分から辞めるのですから、ただの一般論でございます。引き継ぎ書は私のデスクに置いてあります。……まあ、文字さえ読めれば、誰でも理解できる仕様にしておきましたけれど」
クス、と私は笑ってみせた。
実際には、私の事務処理スピードを基準に書いた、凡人には到底処理しきれない超超過密スケジュールのマニュアルだ。明日からこの国の役所がどうなるか、想像するだけで胸がすく。
「リリア、様……? 私のために、そんな……」
隣でアリア様が、涙を浮かべた目で私を見上げていた。
私はアリア様に向き直ると、その温かくて小さな両手をきゅっと握りしめた。
「アリア様。あんなバカの言うことなど、気にする必要はありません。国のために心血を注いできたあなたを傷つけるような国に、私たちはもう一秒だって残る価値はありませんわ。……私と一緒に、行きましょう」
「リリア様……。はい……はい!」
アリア様が力強く頷いてくれた。その笑顔を見ただけで、徹夜続きだった私の疲れは一気に吹き飛んだ。最高に尊い。私の聖女様、本当に可愛い。
「待て! アリアの追放は認めるが、リリア、お前の辞任は認めんぞ! 戻れ!」
シリウス殿下が往生際悪く叫ぶが、私は完全に無視した。
アリア様の手を引き、堂々と夜会の出口へと歩き出す。誰も私たちを止めることはできなかった。私の放つ殺気(プロの凄み)に圧倒されていたからだ。
扉の手前で、私はふと振り返った。
シリウス殿下は、怒りと屈辱で顔を歪ませながら、隣のシャーロットに慰めを求めるようにしがみついている。
「僕にはシャーロットがいるから問題ない!」とでも言いたげだ。
そのシャーロット様と、一瞬だけ、視線が交差した。
怯えた様子で王子の腕にしがみついていたはずの男爵令嬢。
だが、私と目が合ったその瞬間。
彼女の可憐な瞳から、さっきまでの弱々しさが完全に消え失せた。
冷徹で、怜悧で、すべてを計算し尽くした【プロフェッショナル】の目。
シャーロット様は、シリウス殿下に見えない角度で――私に向かって、不敵にフッと口角を上げ、パチンと綺麗にウインク(・・・・)してみせたのだ。
(……あら?)
その仕草を見た瞬間、私の優秀な頭脳が、ある一つの可能性を弾き出した。
シャーロット様の指先。王子に隠れて、特定の【隣国の暗号サイン】を刻んでいる。
――『計画通り。お疲れ様、リリア補佐官。聖女の救出任務、第一段階完了です』
……なるほど。そういうことだったのね。
私はすべてを理解し、今度こそ心からの笑みを浮かべて、大夜会の重い扉を押し開けた。
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