第3話 聖女様との亡命
大夜会の重い扉を閉め、おバカなシリウス殿下の怒鳴り声を背後に置き去りにした私たちは、そのまま王宮の裏手に用意されていた豪華な馬車へと乗り込んだ。
驚いたことに、その馬車にはガルディア帝国の紋章が刻まれており、周囲は完全に武装した帝国の精鋭騎士たちによって固められていた。
「リ、リリア様……これはいったい、どういうことなのでしょうか……?」
馬車のふかふかのシートに腰掛けたアリア様が、まだ混乱で頭が追いつかないといった様子で、私の袖をきゅっと掴んだ。その不安げな表情も守ってあげたくなるほど愛らしい。
「アリア様、ご安心ください。すべては、あの泥舟国家からあなたを安全に救い出すための計画だったのです。詳しくは――ねえ、シャーロット様?」
私が馬車の対面に座る「もう一人の同乗者」に声をかける。
そこにいたのは、さっきまでシリウス殿下の腕に抱かれていたはずの男爵令嬢、シャーロット様だった。
彼女は馬車が走り出したのを確認すると、ふぅ、と深くため息をつき、ドレスの胸元から通信用の魔導具を取り出した。
「お疲れ様です、リリア補佐官。いやあ、シリウス王太子のバカさ加減には本当に胃がキリキリしましたよ。私のハニートラップにあそこまで簡単に引っかかるなんて、いくら何でも防諜意識が低すぎます」
シャーロット様は、さっきまでの儚げな美少女の声を捨て、知的でハキハキとした口調で笑った。
「シャーロット、様……? あなた、殿下の恋人では……?」
「いいえ、アリア様。私の本名はセリア。ガルディア帝国情報部所属の特級密偵です。ルシアス皇帝陛下の命を受け、アリア様とリリア補佐官を合法的に亡命させるため、あの国に潜入しておりました」
セリア様――元シャーロット様は、アリア様に向かって優しく微笑んだ。
事の真相はこうだ。
隣国のルシアス皇帝は、以前からアリア様の聖女としての類稀なる才能と、彼女が受けている不当な扱いに心を痛めていた。同時に、私の事務処理能力にも目をつけ、数ヶ月前から私に「アリア様を連れて我が国へ亡命してほしい」と秘密裏にスカウトを送ってきていたのだ。
私はその提案を快諾した。ただし、条件を一つだけつけた。
『アリア様が国を捨てることに罪悪感を抱かないよう、王太子側から完璧な形で婚約破棄と追放を言い渡させてほしい』と。
そのために送り込まれたのが、ハニートラップの天才であるセリア様だったというわけだ。
「つまり、リリア様は最初からすべて知っていて……?」
「はい。アリア様を傷つけるような真似をしてしまい、本当に申し訳ありません。ですが、これであなたを縛るものは何もなくなりました。これからは、あなたを本当に大切にしてくれる場所で、幸せになっていいのです」
私がアリア様の手を握ると、アリア様の目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、張り詰めていた緊張が解けた、救済の涙だった。
馬車は夜を徹して走り続け、翌朝にはガルディア帝国の美しい国境線を越えた。
用意されていたのは、まるで王宮のような調度品に囲まれた広大な離宮。
案内された部屋のテーブルには、湯気を立てる最高級のハーブティーと、色鮮やかな焼き立てのクロワッサンやフルーツが並んでいる。
「ようこそ、我が帝国へ。旅の疲れを癒やすといい、アリア」
部屋の扉を開けて入ってきたのは、漆黒の夜を溶かし込んだような髪に、氷の双眸を持つ美貌の青年――ガルディア帝国の若き皇帝、ルシアス陛下だった。
大夜会での冷徹な覇気はどこへやら、陛下はアリア様を見た瞬間に、まるで壊れ物を扱うかのように優しい表情を浮かべた。
「ル、ルシアス陛下……! あ、あの、私のような追放された身を、このような高待遇で迎えてくださるなんて……」
「何を言う。私にとって、お前は世界で最も尊い女性だ。これまであの無能な国でお前がどれほど苦しんできたか、私はすべて知っている。これからは私が、生涯をかけてお前を甘やかし、守り抜くと誓おう」
陛下はアリア様の前に膝をつき、その白い手を取ってそっと唇を寄せた。
アリア様は顔から火が出そうなほど真っ赤になり、「ひゃうっ」と可愛らしい悲鳴を上げている。
(うわぁ……。皇帝陛下の好感度、メーターが振り切れてるわね。ご馳走様です)
私はその様子を特等席のソファで優雅に眺めながら、以前の国でのブラックな徹夜生活が嘘のような、ホワイトな職場環境(しかも推しの恋愛プロデュース付き)に深く感動していた。
これからは、アリア様の心のケアをしつつ、奥手な二人の外堀を埋めていく仕事に専念できそうだ。私の敏腕プロデューサーとしての血が騒ぐ。
至福の朝食を終え、私が自分に与えられた最高級のオフィスデスクで寛いでいた、その時だった。
亡命の際に元同僚の隠密に仕込んでおいた、緊急用の通信魔導書簡が、デスクの上でピカピカと赤く点滅を始めた。
「あら、さっそく届いたわね」
私が書簡を開くと、そこには前の王国で早くも始まった【地獄の崩壊劇】の報告が、焦り狂った文字で書き連ねられていた。
聖女アリア様が消えたことで、国の全土を守っていた結界が初日から激しく揺らぎ始め、各地で小規模な天変地異が発生していること。
そして何より、筆頭補佐官である私が残した「引き継ぎ書(※私の限界スピード基準)」のせいで、王太子の執務室が初日から書類の山で物理的に埋まり、行政が完全にストップして大パニックに陥っていること。
報告書には、シリウス殿下が白目を剥いて「リリアはどこだ! 早く連きてこい!」と叫んでいるという、最高に愉快な情報が記されていた。
「ざまぁみろ、とはこのことですわね」
私はふっと冷ややかな笑みを浮かべ、書簡を閉じようとした。
――しかし、その報告書の最後に書かれていた「一行」に、私の目が留まる。
『――激怒した王太子、正気を失い、秘密裏にギルドへ高額の懸賞金を提示。聖女と補佐官を抹殺、あるいは拉致するための【特級暗殺者】を隣国へ派遣した模様。至急警戒されたし』
せっかく手に入れたホワイトな新生活。アリア様の幸せな笑顔。
それを邪魔しようとするバカな泥舟国家の手が、早くも背後に迫っていた。
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