第9話 エルデ
躊躇いもなく、アンジェラの開く扉はスムーズに開いた。一歩踏み出せば、交渉相手がそこにいる。エルデその人が、そこにいる。今まで、ここまで交渉相手を知らぬまま侵入した事は無かった。
「…失礼、いたします。」
私は一礼する。そのまま立ち止まるほどに躊躇いが深くなるように思い、できるだけ速やかに足を動かした。
「こんにちは。」
声は、ひどく穏やかだ。
「あ、こんにちは…」
昼、友人に食堂で遭遇したように。買い物先で不意に同僚を見つけたように。当たり前な空気感で、挨拶を返してしまった。必死で交渉の空気を、心の底から引っ張り出す。
「エルデ様、お初にお目にかかります。私、教団へのアーティファクト譲渡に関しましてお話を伺いたく馳せ参じた次第でございます。本日はどうぞよろしくお願い申し上げます。」
私もヴィシャも、深々と頭を下げる。ヴィシャはなんだか焦っているようにも見える。
その声の主は、静かだった。色もなく、鈍い輝きを放つような銀髪。穏やかに、微睡みの予感すら感じる細い目。身に纏う服飾には少し華やかさがあるが、それでも暗い赤褐色のマントと黒い燕尾服には、”主張”というものを感じなかった。
「ようこそ。私がエルデです。どうぞ、かけて。」
とてもゆっくりと淡々とした調子で続ける。その姿には、とても大一番の交渉前とは思えない日常感と、この屋敷の主たる威厳が混在していた。
「お茶を、いただこうか。アンジェラ、頼めるかい?」
「承知いたしました。」
アンジェラがお茶を用意しに部屋を出た。我々は呆気にとられながら、そこにちょこんと座る。
私は混乱していた。ここまで読み取っていた文脈から大きく外れたこの人物に、得体の知れない恐怖すら感じた。壮大。慎重。厳格。優雅。どれとも違う、日常感。もう一度、組み直さなければならない。だがそれは逆に、彼を分析する大きな材料を得たという事でもある。私は浅く、彼を真っ直ぐ向いて椅子に座り直した。
「申し訳ございません。正直に申し上げると少しばかり混乱しておりまして…このお屋敷の規模感、ペイル様という力強いお方、またエルデ様のとても親しみのある言葉遣いと、とても素晴らしいサプライズばかりでしたので…」
こういう時は、こうだ。事実を並べろ。当たり障りのない事実。事実確認を行い、私自身の思考を整理しながら会話を繋げるんだ。"混乱"というレイヤーで伝えるのであれば、失礼には当たらない。
「それは何より。この屋敷を楽しんでいただけたようで。」
「アンジェラ様やペイル様の他にはメイドの方はいらっしゃらなかったのですが、彼女達以外にもいらっしゃるのですか?」
「もちろん。彼女達は格段に優秀ですが、さすがにこの屋敷を2人だけでは管理できませんからね。」
「お二人といえば…武装した上での訪問をお許しいただきありがとうございます。無礼な装いでの訪問になってしまい、申し訳ございません。」
「いえ、この辺りは魔物も出る。それに交渉内容が交渉内容だ。慎重になるのは当然です。」
ダメだ。躱される。無難な話題には、無難な表面上の回答しかこの人は返さない。エルデという人物の本質を垣間見る事もできない。
いや、まだ焦る必要は無い。今回は猶予がある。それならば時間をかけるべきだ。本質を忘れるな。私の任務は”アーティファクトを手に入れる事”。私の目標は”誰も傷つけずに任務を果たす事”だ。
「やはり、この辺りは魔物の出没地域なのですね。アンジェラ様から聞きましたが、定期的に対処を行なっているそうで…」
「そうなんです。ナイトウルフからグリズリーまで、魔物化した動物が人を襲う事例が、多くはないにせよ、あとを絶たなくて。なかなか駆除部隊を雇うにも苦労するんですよ。」
来た。ここだ。
「このお屋敷では、駆除できるような自衛組織は擁していないのでしょうか?」
「うちで持っているのはメイドだけですよ。魔物の駆除に充てるような戦力は持っていない。」
「そうでしたか。ペイル様などは戦うことにも慣れていそうに見えましたので、そういった私設兵団などお持ちかと思いまして…」
「ペイルは、ここに来たばかりですからね。彼女の他にも、最低限警備できる程度に戦える者はいるけど、魔物の駆除を安心してお願いできるほどではないですよ。」
彼に関する情報ではないが、屋敷の戦力について言及させられたのは上々だ。少なくとも彼の言葉を信じるのであれば、我々に対抗できるような戦力は有していない。
「ペイル様、かっこいいですよね。やっぱり強いんですか?」
「はは、ありがとう。彼女は本当にかっこいい。実力も十分だ。魔物くらいなら一人で何とかしてしまうんじゃないかな。」
「武勇伝とか聞きたいです!」
「うーん、そういうのは聞いたことが無いな。あまり自分を積極的に語る人ではないから。」
ヴィシャがほんの僅か不満そうに口を閉じる。
その時、扉が控えめにノックされた。
「お茶をお持ちいたしました。」
「入ってくれ。」
エルデの声を受け、静かに扉が開かれる。アンジェラが丁寧に一礼し、ティートロリーを押して入ってきた。キャスターの音も無く、華美な装飾も無い、お茶を載せる事に特化した、機能美に満ちたトロリーだ。彼女はひらっとした動きでお茶を注ぎ、我々の前に並べる。彼女の動きは、まるでティーポットにも、ティーカップにも、重さが無いように軽やかだ。
「ありがとう。良いチョイスだね。」
テーブルのお茶を見るなり、エルデがアンジェラに声をかけた。
「ありがとうございます。ご明察の通り、本日はダージリンのファーストフラッシュを選ばせていただきました。香りは穏やかに開きますが、渋みも後口も重く残りません。心地良く余韻に幕を引いてくれますので。」
彼女は柔らかな表情を浮かべ、ゆっくり我々へ向き直り一礼し、
「本日のような席に向いているかと存じます。」
そう付け加え、また音も無くティートロリーを押し、引き揚げていった。
彼女の痕跡すら残さぬ完璧さに、くっきりと浮かび上がる敵意。それを見て、私は恐怖するべきだと思う。だが私に浮かんだのは、言いようのない高揚感。先程から私は、不意に彼女に目を奪われる自分を感じていた。今、その影が決定的に形になってしまったようだった。
「エルデ様。」
ヴィシャの一声が、私を現実へと引き戻す。そうだ、気を取られ過ぎだ。現実はこっちだ。今立ち去った彼女じゃない。ましてや彼女が落としていった私の影でもない。エルデとの交渉だ。
「何だい?」
「魔物が出るのに、このお屋敷は大丈夫なんですか?」
素朴な、良い質問だ。魔物とは野生動物が変化したものであり、本能は動物に根差してる。そのためこういった邸宅には、基本的に魔物が侵入する事はあまりない。無邪気な”本能的恐怖”を演出しながら戦力の分析を測る事のできる、ヴィシャならではの一手だ。彼女とて魔物と何度も戦った手練れだ、魔物の習性を知らぬわけではない。
この一手は演出なわけだが、ここまで自然にその武器を引き抜ける彼女に、私が誇らしさと尊敬、そして僅かなうすら寒さをも感じたのは無理もない。
「うん、そうだね。確かに魔物の出没は怖い。でも魔物は基本的に人里には現れない。さほど問題はないよ。」
落ち着いた様子で何気なくエルデは答えた。
「それに、さっきも言ったように警備程度には戦える人もいる。魔物の対処法さえ知っていれば、この屋敷内なら十分対応できるはずだ。」
「それでは安心できますね。私も、門番や警備の方がいらっしゃらなかったので、少し心配はしておりました。」
私の言葉を受け、彼は満足そうな顔で頷きながら、お茶を一口飲む。
「魔物の脅威ももちろんですが、つい先月も、都に近い山村が山賊に襲われ、9名の死傷者を出す凄惨な事件も起きています。ここまでのお屋敷となると、そういった賊に狙われるリスクもあるかと思いますので。」
そう言い切って、私も一口お茶をいただく。それに倣い、ヴィシャも一口お茶を含んだ。
「その事件は聞き及んでます。確かその場で5人の山賊は断罪されたとか。」
彼は腕を組み、顎に手を当て、細い目を昏く輝かせたように見えた。
「幸いこの地域で聞いているそういった事件は、数日前に1件、死者1名を出したきり、ですね。」
彼は真っ直ぐ私の目を見る。その目は、今までの表情と変わらない。何の敵意も善意も、熱量でさえ感じられない。彼の視線が無ければ見落としてしまいそうな、何から何まで自然な流れだった。
「…ええ。そうですね。」
数日前に、1件、1名。私の心臓を何かが強く殴りつける。
このまま何も返せないのは、失態だろうか。目を離せないのは、問題だろうか。
いや、彼に嘘は通じない。小手先の言いくるめも通用しない。今は誠意を見せる以外、取れる手段はないのだ。
「その件に関しては、我々イプシアム騎士団としても、被害を出してしまった事に対し、事実を重く受け止めています。」
私とヴィシャは、静かに頭を下げた。
「気にしないでください、とは部外者である以上言えませんが。ですが、本日のお話とはまた無関係な話です。」
「そう、ですか。お気遣い感謝いたします。」
これ以上深入りはできない。これ以上墓穴を掘るわけにはいかないのだ。むしろこの流れになったのなら、良いタイミングと言えるかもしれない。
「ご存じかとは思いますが、本日お伺いさせていただきましたのは、エルデ様がアーティファクトを所有しているとお聞きしたためです。私たちイプシアム教団は、そのアーティファクトをお譲りいただきたく存じております。」
飛んだ。飛び込んだ。私の身体の奥底へと、全身を圧迫するような圧力がかかる。エルデは安堵したように、小さくため息をついた。
「それに、私に何のメリットが?」
「当然、相応の対価はお支払いいたします。一先ず、教団がお支払いさせていただこうと考えている金額です。ご確認ください。」
私は、懐から一枚の白紙を取り出し、ペンで金額を書き込んで差し出した。こんなもので、動くものか。教団ですら、この巨額があれば交渉がスムーズに進む、とは思っていないのだ。
「…なるほど。納得の行く額だ。」
その声には、失笑の色が含まれていた。今まで、何度も何度も私たちは交渉に赴いた。金で動いたアーティファクトは片手で数えられる程度しかない。それほどまでに、アーティファクトとは強大なのだ。
「貴方は。」
そう言葉を切って、エルデは一口お茶を飲む。
「アーティファクトとは何か、知っていますか?」
それは、まるで料理のレシピを尋ねるかのような調子だった。これほどまでに露骨に”試されている”のに、そんな空気はこの場に微塵も漂っていない。そうか。私は飛んだ。だが、それでもこの場は進まない。私は理解した。この方は、こちらが間合いへ踏み込まない限り動くつもりはない。籠城戦の構えだ。
私は再度、飛び込む構えをとった。
「はい。アーティファクトとは、人知を超えた奇跡を代償無く起こす、神の力を下ろす器です。」
その瞬間、彼の視線は一気に冷たいものになった。今まで溜め込んでいた冷気を、一気に氷刃として突きつけられた気分だ。私は内心、歓喜した。
「そして。」
私の声の震えは、伝わってしまっただろうか。だが、構わない。
「貴方の身を、亡ぼすものです。」
一瞬の沈黙が、あっただろうか。それとも私の中の時が、止まっただけだろうか。ヴィシャの不安げな視線が突き刺さる。呆けたエルデの口元が、時間の流れを止めているように見えた。
「…ふふ。」
心底嬉しそうに、エルデの口から笑い声がこぼれる。今の私には、その笑い声が恐ろしい響きだったのか、私の恐怖心から来る錯覚なのか、判断がつかない。だが進んだ。それも好転だ。
「ハハ、ハハハ…!」
今までの無感情が嘘だったかのように、楽しそうな笑い声だ。だがそれも束の間、彼は平穏な笑顔を取り戻す。
「そうですか。申し訳ない。あまりに私の解釈と…」
言いかけて、ハッと彼は言葉を止めた。
「いえ、それはいいでしょう。」
そう言い直し、彼は金額の書かれた紙面を手に取った。
「生憎と、私はあなた方イプシアム教団の事を何も知りません。風の噂に聞く、凄惨で強引な手口のみ。」
彼は、丁寧に紙を折りたたんだ。
「お返事は、いつまでに?」
その言葉を聞いた瞬間、私は身体中の力が抜けた。乗り切った。まずは即日の交渉決裂からは逃れる事ができたのだ。
「5日以内であれば、お待ちいたします。それ以上となると難しいかと。」
任務の制限時間は残り、14日。5日程度で答えるのがベストだろう。
「5日か。なかなか気の短い。」
今度はまた無感情にふふ、と笑い、折った紙をテーブルの上に置いた。
「5日で教義を知ることは難しい。子供の頃は私もある宗教の信者でしたが、教義とは難しいものだ。しかも理解ができても、肌で実感するのは更に難しい。」
今度は珍しく、彼は身を乗り出した。
「その代わりに、あなた方を見せてください。」
「…え?」
我々を見せろ、と言っただろうか。
「期日まで通っていただきたいのです。教義を理解するには5日間は難しすぎる。だが、5日間あれば、あなた方を知ることはできる。」
拍子抜けするような心持ちだった。猶予をもらえるのであれば、それはそれでありがたい話なのだが…
「それは、構いませんが…よろしいのでしょうか?失礼を承知で申し上げますが、変わらず武装しての来館とさせていただきます。当然敵意はありませんが、こちらとしても護衛を付ける必要はあり…」
戸惑いながらどう答えるべきか、か細く言葉をつなぎながら話していると、
「お気になさらず。今こうして平和にお話ができているんだ。問題は無いでしょう?」
と、彼が口を開いた。その言葉に、少し重みを感じ始める。彼にとって、こういった交渉は日常茶飯事なのだろうか。常に手綱を握られている気になる。
「そう、ですね。とても楽しい時間を過ごせたかと存じます。」
「館内にいる間、アンジェラとペイルを付けます。彼女たちに館内のご案内をお願いしてください。」
「え、この大きなお屋敷、探検していいんですか?」
ヴィシャが目を輝かせる。これが演技ならいいが、彼女の好奇心は旺盛だ。演技でなければ、敵地のような、重要な宝物庫のような屋敷を、ヴィシャに引きずり回される事になる。
「ああ、もちろん。楽しんでくれると嬉しいよ。でもアンジェラ達の言う事は聞くんだよ。入ってはいけない部屋はたくさんあるから。」
「はい、分かりました。」
静かに、声を弾ませながらヴィシャは答えた。




