③女生徒と言葉
「③女生徒と言葉」
「愛。その一文字でも、その人によって形が異なる。文字とは曖昧で大雑把なのかも。」
またまたはじめるよ。
私の独白コーナー。
今回は言葉について思ったことなんだけどさ、道徳の授業や国語の授業で良くあるやつ。
登場人物AさんとBさんが互いに入れ違いや誤解で一度喧嘩して、最後はハッピーエンド。
本来なら入れ違いや誤解が起きないようにこうしたら良かったよね、みたいなこと考えさせられる。
中にはそんなことすら考えずただ授業が受け身になっている人も一定数いるかもしれないが。
まぁそんなことはどうでもいい。
ここで私が思ったことはまず「言葉」について。
そう言えば以前概念の話をしたとき言葉についても少し触れていた気がするね。
言葉を使って感情表現をした結果、誤解が生まれた。
これは矛盾してるのではないか。
人が言葉を生み出した理由。
それは大まかに言えば、集団での「協力と信頼」を強め、生存を有利にするためだと、私は思っているのだけれど。
というか調べたらそうでてくるわ。
それなのにもかかわらず集団に亀裂を入れかねないほど意思疎通が複雑化しているのだ。
そもそも言葉とは人間が特定のものを指す文字として表しているわけだが、
目に見えるものはまぁ置いておいて、問題は感情や状況と言ったいわゆる概念を指す言葉についてだ。
言葉というのはあとからこれがそれ、と押し付けただけの仮名に過ぎない。
つまり文字や言葉は決まった形なのに、それを指す概念自体が思っているよりも曖昧なものなのだ。
「涙を流した。」とだけ書かれていても、なぜ涙を流したのかが定まらない。
「悲しくて、涙を流した。」とより詳しくしてもなぜ悲しいのか、悲しくなった理由や状況は何か。
この世に全く同じ状況なんてのは存在しないのに、これは全部同じ十数文字に固定されている。
あくまで概念の仮名である文字に大雑把にしか表せない。
人が勝手に生み出した一つの道具。
一体いつからそれが絶対的であり当たり前、だなんて考えていたのだろう。
とある私の大好きな漫画にはヴァイオリニストの少女が「音を交わすことでお互いを知り、お互いを理解する」なんてセリフがある。
うろ覚えだが許してほしい。
で話改めて、音楽が言葉を超える。
私だってそう思う。
格好つけて聴いたクラシックなどで情景や香り、色などの感情がそのまま心に入ってくるような演奏を聴いたことがある。
ではそれと同じぐらいにまで感情の解像度を高めるためには一体どれほどの言葉が使われるのか。
きっと不可能か、可能であっても果てしない。
言葉と言う物自体が色々と曖昧で端折りすぎなのだ。
だからといって言葉が悪いわけでもない。
使いやすいし目に見えるし大雑把にでもすぐに伝えられる。
利点はとても多い。
ただ一方で、言葉だけをひたすらにぶつけても余計曖昧で複雑なものになっていくのかもしれない。
とにかく、私が今日言いたいのは「言葉ばかりを過信してはならない。」ということかな。
言葉だけでは心を開き合うことは不可能だ。
内心と口では違うことを言う、例えばお世辞とか。
君も良くあるでしょ。
言葉や文字はメリットや美徳もあるけれど、きっと完璧じゃないのよ。
だったら言葉を使うとき分かりやすく相手に感情を届ける工夫が必要ね。
口だけじゃなくて行動や言動で示すとか。
ちゃんと宿題は期限にだしなさいよね。
なんちゃって。
ってのも全部
結局、言葉と文字。
一周回っていつも帰ってきてる気がしてるわね。
私って意外と惨めなのかな。




