救済9:第一部完!地獄へ向かう悪女!
イメージソング:月蝕グランギニョル
https://youtu.be/TI_oCadNArw?si=coNKu5cTnNeSf76d
王都の最下層。スラム街のさらに奥深くには、法と秩序が見放した「吹き溜まり」が存在する。
そこに、エルという名の一人の少年がいた。
十五歳になるその少年は、透き通るような理知的な瞳と、純粋な心を持っていた。だが、彼が生まれ落ちた環境は、その輝きを徹底的に蹂躙し、押し潰すために用意されたかのような「地獄」であった!
エルの両親は、控えめに言っても……恐るべき愚者であった!
彼らは他人の物を盗み、他人の成果を奪い取る。だが、彼らの蛮行で最も不可解で悍ましいのは、その「目的の不在」である。奪った物を利用して己の生活を豊かにしようとするならば、まだ、理解の余地がある。しかし、彼らはそうではない。
彼らはお腹が空いていなくとも、パン屋から焼きたてのパンをしっかりと盗み、食べることはなく、ただ、路上の泥水に浸して踏み躙り、その光景を見てゲラゲラと笑って捨てるのだ。盗癖と、他者への加害欲、そして、同じ無意味な行為をただひたすらに延々と繰り返す精神の病。
それらが複雑に絡み合った……複合型異常者であった!
なぜ、このような蛮行が許されているのか。
それは、彼らが王都の定める「魔導生活保護受給者」という特別な住人だったからである。王都の法において、極度の貧困と能力の欠如により生活保護を受ける者は、選挙権や職業選択の自由といった基本的な【権利】を剥奪される。
だが!
その代償として、関わったところで何の得にもならない彼らを取り締まるコストを削減するため、一定以下の軽犯罪に対する「免責特権」が与えられていたのだ!
社会からの、手厚い優しい無関心!
この両親は、己に一切の【才能】も【知能】もなかったが故に、人間としての【権利】までも失った。そして、その喪失感から這い上がる努力をすることもなく、なんか卑屈に、なんか自堕落に……社会の温かい『無関心』に見守られながら……ますます……底なしの悪へと堕ちていったのだ!
そんな泥濘のような家族の中で、長男であるエルだけが、突然変異のように……性格の良い、インテリの卵であった……。
これこそが、彼に与えられた最大の悲劇であり、地獄であった!
そもそもだ。「知性」とは、はたして、何であろうか。
残酷な例えをするならば、知性とは「体臭」のようなものである。知性は、ダニング・クルーガー効果という、恐るべき心理現象の鎖に縛られている。
自分が何日も風呂に入らず、垢に塗れて悪臭を放っている場合、自分だけが臭いということには、気がつかない。
と、同時に。「無臭」や「良い香り」の、つまり、知性を持つ人間がどのようなものか。それも、理解することすらできない!
そう。例えるなら、自分が日常的に万引きを繰り返す犯罪者であれば、社会全体もまた万引き犯と同じレベルであり、法を守る人間を「ただバレていないだけの偽善者」だと感じる!
そうして、「万引きしないなんて、格好つけるなよ。普通は誰でも万引きくらいするぞ」……と、他者を際限なく疑うのだ!
自分が完全なる無能であれば、高度な専門知識を持つ医者も、国を動かす政治家も、自分と同レベルの「無能な詐欺師」に見えてしまうのだ!
人は、自分のレベルを超えた知性を理解することができない!
そして、「自分が理解できないものを、理解しようと歩み寄り、愛を向けること」こそが『知性』の正体なのだ。
つまり。
馬鹿は馬鹿であるからこそ、他者の知性を認めず、永遠に馬鹿のままであるという……あまりにも残忍で、救いのない酷い真理がこの世界には、存在するのだ!
エルは毎日、自らの親と弟から凄惨な虐待を受けていた。
肉体的な暴力だけではない。精神を削り取るような、知性の断絶による暴力である。
エルが古本を読み、必死に勉強をしてノートに文字を書き綴っていると、親たちはそれを見つけ次第、ビリビリに破り捨てた。彼らには「勉強の意味」も「知識の価値」もわからない。
わからないからこそ、自分たちの理解の及ばない、『なんか頭良さげな行為』に耽る息子が不気味で、不快で、仕方がなかったのだ!
エルが涙をこらえながら、「勉強をすれば、この生活から抜け出せるかもしれない。父さんも母さんも、もっと楽になれるんだよ」と、懸命に勉強の価値を語りかけた時のことだ。
父親は、母親と弟に向かってこう言い放った。
「お前は馬鹿から生まれたんだから、お前も、もちろん馬鹿だ。俺は、お前が何を言ってるか全くわかんねえ。その理由は、お前が、馬鹿だからだ。俺がわからないことを言う奴は、全員馬鹿だ。狂人め。死ねい!」
自分が足し算をわからないのは、足し算をわからない自分が馬鹿だからではなく、足し算をしている者が馬鹿だからである……という理屈!
自分が言葉をわからないのは、言葉をわからない自分が馬鹿だからではなく、言葉を話す者が馬鹿だからである……という理屈!
これにより、医者も、弁護士も、政治家も、農家も、画家は、「なんかわかんないから」という理由で、馬鹿認定された!
これにより、「運賃」、「赤道」、「概ね」、「三半規管」、「因数分解」といった、聞いたことのない言葉を話す者は、「なんかわかんないから」という理由で、馬鹿認定された!
「白血球」、「塩化ナトリウム」、「公的機関」、「サーバー」、「フェレット」といった、想像もつかない言葉は、彼らが創作した妄想の単語「天皇家三代将軍」、「六波羅探題三丁目」、「ニャンチョウ」、「ヨージガダ」、「いちまる産地の包む君」といった妄言と同じ扱いになった!
彼らの目には、陰謀論と現実の区別がつかないのだ!
そして、彼らは……エルをも、白痴扱いしたのだ!
それが、家族たちの導き出した最終的な結論だった!
弟も両親も、親族の誰もが、現実を見ようとせず、彼が抱える絶望に最後まで向き合わなかった。
心のケアなど存在しない。
エルには、それがどうしても耐えられなかった!
エルが語る理路整然とした言葉の意味がわからないのは、エルの頭が良すぎるからではない!
エルの言葉を理解できないのは……親族たちの……性格と頭が悪すぎるからである!
しかし彼らは、すべての責任をエルに押し付けた!
エルの言葉は、時に、街のチンピラでさえ涙を流して感動するほどの思いやりに満ちていたというのに!
血の繋がった家族だけが、彼を異星人のように扱い、一切の愛を向けなかった。
「……もう、疲れた。僕の言葉は、誰にも届かない」
少年の心は、完全に折れた。
彼は、破られたノートの切れ端を握りしめ、雨の降る中、スラムの廃ビルの屋上へと向かった。
灰色の雲が王都の空を覆い、冷たい雨が打ち付ける廃ビルの屋上。
縁のはじに立ち、足元に広がる遥か下方の濁った街並みを見下ろしながら、エルはゆっくりと目を閉じた。もうすぐ、この息の詰まるような地獄から解放される。
その時だった。
「……そこの貴方。早まらないでちょうだい」
冷たく、しかし澄んだ鈴の音のような声が、雨音を切り裂いて屋上に響いた。
エルが振り返ると、そこには目を疑うような光景があった。スラムの汚れきったコンクリートの上に、純白のドレスを身にまとい、豪華な車椅子に乗った金髪の美しい少女がいたのだ。
ルミナリア・フォン・ラプラス。
王都の頂点に君臨する大貴族の当主であり、圧倒的な富と権力、そして世界を掌握するほどの知性を持つ少女。彼女はたまたま、スラムにおける慈善事業の視察のためにこの地区を訪れており、屋上の縁に立つ少年の姿を見つけ、護衛も連れずに自ら屋上へと上がってきたのだ。
ルミナリアは、すべてを持つが故に、持たざる者を救いたいと本気で願っていた。目の前で命を絶とうとしているこの少年も、何としても救いたいと思った。
だが!
この時のルミナリアは、まだ、決定的な思い違いをしていたのだ!
彼女は貴族階級出身であり、圧倒的な知性を持っている。それ故に、「悪」というものに対して、ある種のロマンティシズム、すなわち、何らかの崇高な目的や理由があるのだという幻想を抱いていた。
世間の者たちはよく口にする。
「正義の反対には、また別の正義がある」と!
確かに、ルミナリアがこれまで相対してきた事件はそうだった。
先月、王都を騒がせた「怪盗黒猫」が、冷酷な高利貸しであるウェグナー卿の屋敷から国宝級の秘宝を盗み出した事件。あの怪盗の目的は、私欲のためではなく、ウェグナー卿に家を奪われた恵まれない子供たちに食料と住処を与えるためだった。
また、天才外科医師であるリーチェ・マグナスが、重武装して国会議事堂に立て籠もった事件。彼女の犯行は、現行の冷酷な医療法制度のせいで命を落とした患者たちの遺族の無念を晴らし、国に法改正を迫るための、血を吐くような悲痛な叫びであった。
そう!
悪の側にも、何らかのドラマや、何らかの信念があると、人は思う。ルミナリアもまた、「知性の高い常識人」であるが故に、すべての行動には「意味」があるはずだと信じて疑わなかった。
だが!
それは、甘い!
余りにも……甘すぎるのだ!
怪盗黒猫やリーチェ医師のようなものは、新聞やニュースのトップを飾り、市民の涙を誘うことができるほどの物語のある「高尚な悪」に過ぎない。
真の悪とは、無駄で、無価値で、意味不明なのだ!
理由もなくパンを泥水に浸して笑うような、救いようのない低俗な狂気!
ルミナリアはいかに悪を憎む心があろうと、やはり、温室で育った世間知らずのお嬢様であった。「理由のない悪意」と「底無しの愚かさ」がこの世に存在することを、彼女の美しい論理回路は、まだ……理解できていなかった。
「なぜ、死のうとするの。貴方のような若い命が散る理由など、この世には存在しませんわ」
ルミナリアはエルの瞳を真っ直ぐに見据えて、教科書通りの、世間知らずな質問を投げかけた。
エルは力なく笑った。
「……理由なんて、いくらでもありますよ。僕は、親から気狂い扱いされている。僕の言葉は、誰にも理解されない。僕が生きていることは、そう、彼らにとっても、僕にとっても、もう、ただの苦痛。生きることは、もう、『罪』でしかないんです」
少年から語られる、親の無理解と虐待の日々。
それを聞いたルミナリアは、彼女の中の「常識」に則って一つの結論を導き出してしまった。
(親が子供の言葉を理解できないなど、ただのすれ違いですわ。表現が不器用なだけで、けして、親が子供を愛さないはずがない。この子は今、一時的な、短絡的な絶望に囚われているだけだわ)
ルミナリアは、この時、気が付いていなかった!
世間の常識とは、その時代における世論であり、自分の常識とは、自分の頭の中の「偏見」であるということを!
ルミナリアは、まるで、今まで悪いことなど一度もしたことがないような、「真剣に他者を見下して生きている」者特有の眼差しでエルに向かって言った。
「貴方の苦しみは分かりましたわ。ですが、逃げてはダメです。……貴方に、二つの道を与えますわ」
ルミナリアは、本当に彼を救いたかった。だからこそ、厳しい言葉で彼の生きる意志を呼び覚まそうとした。
「このままここから飛び降りて、自らの命を絶ち、すべてから逃げ出すか。それとも……親の愛を信じて、もう一度対話を試み、貴方の証明のために勉強を頑張り抜くか。選ぶのは貴方ですわ。あなたの『罪』に、選択を」
雨音が、異様に大きく響いた。
エルの瞳から、最後に残っていた僅かな光が、音を立てて消え失せた。
「……え?」
エルは、目の前の美しい少女を見つめた。
彼女は……この、世間知らずの、貴族の馬鹿女は……本気で言っているのだ!
「親の愛をただ、無条件で盲信しろ」……と!
この十五年間、泥水を飲まされ、ノートを破られ、言葉を尽くしても「気狂い」と吐き捨てられてきた自分に向かって、安全な場所にいる人間が、「親が子供を愛さないわけがない」という、温かい、優しい偏見を、正義の顔をして押し付けてきている!
ルミナリアの提示した二択。
それは、エルを救うどころか、彼の心にトドメを刺す、あまりにも残酷な、処刑宣告であった。
「親の愛……を……信じろ……?……?」
エルは、うわ言のように繰り返した。
親に愛がないことなど、この十五年間生きてきて、嫌というほど、骨の髄まで理解している。言葉が通じない相手に歩み寄れということは、彼にとって「終わりのない精神的拷問を受け続けろ」という命令と同義であった!
誰からも理解されない!
最後に自分を救ってくれるかもしれないと一瞬でも期待したこの見知らぬ少女すらも、結局は……「無知な一般論」で自分を白痴扱いする親たちと同じだったのだ!
「ああ……あああ……そうか……そうかい……そうだよな!」
エルの顔が、絶望と怒りで歪んだ。
彼は限界を超えた。知性の糸がプツンと切れ、彼の中に抑圧されていたすべての憎悪が爆発した。
「みんな嫌いだ!!みんなブッ殺してやる!!頭の悪い親も!わかったような口を利くお前も!!全員、全員殺してやるぅぅッ!!僕は、愛されたかっただけなのに!」
エルは屋上の縁から身を乗り出し、狂ったように絶叫した。
それは、確かに、殺人の宣言だった。理性を失った彼が発した、命の終わりの呪詛だった。
ルミナリアはハッとして目を見開いた。
「……待って!貴方、何を……」
その時である。
屋上の入り口の鉄扉がバンッと開き、エルの両親が姿を現した。彼らは息子を助けに来た……わけではなかった。
彼らは、配給の酒を飲みながら、フラフラと雨よけのために屋上に上がってきただけだった。
だが、エルの「殺してやる!」という絶叫を聞いた父親は、酒に濁った目をギラリと光らせた。
「あ?なんだこのガキ、親に向かって殺すだと?」
父親は、一切の躊躇いもなく、大きな歩幅でエルの背後に近づき、その背中を、思い切り突き飛ばした。
「……え?」
エルの身体が、中空に投げ出された。
まるで、邪魔なゴミを蹴り飛ばすかのような、あまりにも軽い動作。そこに「子供を失うかもしれない」という恐怖や躊躇は、存在しなかった。
「あ……」
エルは、自分が突き落とされたことを理解する間もなく、重力に引かれて真っ逆さまに落下していった。
彼の身体は、廃ビルの下部に張り巡らされていた、不法侵入者避けの巨大な『魔導柵』へと激突した。
高圧の魔力と鋭利な刃を持つ魔導柵が、十五歳の少年の柔らかな肉体を容赦なく串刺しにし、そのまま紙屑を引き裂くように、体を縦に真っ二つに両断した。
内臓と鮮血が、雨に濡れたアスファルトの上に、赤い花のように撒き散らされる。
死!
救いを求めたはずの知性ある少年は、一切の報いを受けることなく、ゴミのように……惨めに、死んだ!
「あ……ああ……」
ルミナリアはガタガタと震え、自らの手を見つめた。
父親は、下を覗き込んでニヤリと笑い、ルミナリアに向かって肩をすくめた。
「見た?お嬢ちゃん。あいつ、俺たちを殺すって宣言したんだぜ?俺、家族を守るために、正当防衛で突き飛ばしただけだ。な?俺、悪くねえよな?」
全く悪びれる様子のない、底無しの悪意が、そこにはあった!
それから数日後。
王都の警察発表は、ルミナリアの心をバラバラに粉砕した。
警察の調べに対し、両親は「息子が突如として狂乱し、『みんな殺してやる』と大量殺人を宣言して襲いかかってきた。私たちは身を守るために、やむを得ず彼を突き飛ばしてしまった」と主張した。
屋上にいたルミナリアの証言も合わさり、法は彼らの行為を「完全なる正当防衛」と認めた。
それどころか、王都警察は「スラムでの無差別大量殺人を未然に防いだ勇気ある行動」として、あの両親に賞状と、特別報奨金として幾らかの金銭まで授与したのである。
そして、その金銭は、両親がその日のうちに違法な賭博に全額突っ込み、跡形もなく消え去った……。
エルの死は、誰の心にも届かず、何の価値も生み出さず、ただ、愚か者たちの『お遊び』として消費されたのだ!
ラプラス邸。ルミナリアの私室。
分厚い遮光カーテンが引かれた暗い部屋の中で、ルミナリアはベッドの端にへたり込み、激しい嘔吐感に苛まれていた。
「……う……ううっ……!」
彼女の頭脳は、これまでの自らの「甘さ」を、冷酷なまでに分析し、糾弾し続けていた。
(悪の側に、信念がある?崇高な理由がある? ……そんなものは、映画の上の、小説の中の、フィクションに過ぎなかった!)
真の悪とは、無価値で、無意味で、醜悪で、底がない!
彼らは罪悪感すら持たない!
なぜなら、彼らには知性がないからだ!
知性がないから、自分たちが絶対的な悪であることにすら気づけないのだ!
だが、ルミナリアが何よりも許せなかったのは、他ならぬ「自分自身」であった。
(私は……私が、あの子を殺した……!)
自分が彼に突きつけた二択。「親の愛を信じろ」という、温室育ちの貴族の傲慢。
自分が世間知らずであったばかりに、彼が抱える本当の地獄を理解せず、話を聞かず、一方的に、綺麗な言葉で、正義を押し付けた。その無知な、自慰的な正義感が、あの子の心を完膚なきまでに叩き割り、絶望の叫びを引き出し、ついに、結果として、死を与えてしまったのだ!
「汚い……。私は、なんて汚い生き物なの……ッ!」
悪を憎み、持たざる者を救おうと気取っていた自分が、まさか、まさか……実は最も愚かで、最も傲慢な、醜悪な貴族の匂いを放っていたのだと気づいてしまった!
自分は、生きていてはいけない!
こんな汚い魂を持つ命は!自分は!いまこそ恥じて、死ぬべきなのだ!
自らの無知で一人の尊い命を奪い、悪を賞賛させる結果を招いたこんな命!
こんな命は、今すぐここで絶ち切って、死んで詫びるべきだ!
絶望の淵で、ルミナリアは傍らにあった銀のナイフを手に取り、自らの白い首元へと押し当てた!
「……あの子の絶望に比べれば、私の汚い血など……」
ルミナリアの首筋から、鮮血が滴り落ちた!
痛い!
だが、これでいい!
このまま、無知な私は、全てを恥じて、そうして、死んでしまえばいいのだ!
だが、その時。
ルミナリアの脳裏に、真っ二つに引き裂かれたエルの無惨な死体と、それを嘲笑う両親の卑劣な笑顔がフラッシュバックした。
ナイフを持つ手が、止まった。
(……死ぬ?この私が?)
ルミナリアの青い瞳から、涙が消えた。
代わりにそこに宿ったのは、虚無ではなく、世界を焼き尽くすほどの『漆黒の炎』だった。
(私が死んで、誰が喜ぶ?そう。あの両親が喜ぶのだ。今日ものうのうと生き、次の弱者を食い物にする、あいつらが。そうして、私が死ねば、この世界には、無価値な悪がいよいよ野放しになるだけだ!)
死ぬのは簡単だ!
だが、それは逃げにすぎない!
自分の罪を償う方法は、自傷などではない!
命など、いつでも落とせるのだ!
だからこそ……。
(……許さない)
ルミナリアは、ナイフを床に放り投げた。
胸の奥底から湧き上がるのは、愛する者を奪われた悲しみよりも深い、根源的な『正義の憎しみ』。
(あの少年の痛みを。この世界の矛盾を。そして何より、無為な悪にもドラマがなどあるなどと思い込んでいた、かつての愚かな自分自身を……私は、決して許さない!)
ルミナリアは立ち上がった。
彼女の心の中で、甘美な貴族の令嬢は死んだ。
今この瞬間、彼女は、完全なる善の悪女へと覚醒を遂げたのだ!
数時間後。
重い雲が垂れ込めるラプラス邸の玄関に、明るい足音が響いた。
アリシア・ヴェリタスが、傘をたたんでエントランスへと入ってきたのだ。
「ルミ!遊びに来たわよ!」
アリシアは、メイドに案内されて応接室へと入ると、窓際に立つルミナリアの背中を見つけて微笑んだ。
外は雲間からわずかに光が差し込み、雨が上がりかけていた。
「よかった。今日は晴れているね」
アリシアが無邪気に告げる。
ルミナリアは、ゆっくりと振り返った。
その顔には、穏やかな微笑みはなかった。
青い瞳は深淵のように暗く、しかし、内側には世界を焦がすほどの激烈な闘志と覇気が燃え盛っていた。
孤独な悪女の顔。
ルミナリアは、空を見つめ、静かに、しかし……絶対的な決意を込めて言った。
「いえ。……嵐が来るわ」




