救済8:愛の慈善活動を妨害する悪女!
王都経済特区「ハグルマシティ」。
かつては最先端魔法技術と伝統魔導産業が交差する活気あふれる都市だったその場所は、現在、崩壊の危機に瀕していた。原因は、敵国の侵略でも、魔獣の襲撃でもない。ただ、一人の男の善意と愚鈍さが引き起こした、純粋な人災であった。
その男の名は、ラグナ・ロン・レイロ。
ソフィア大学を首席で卒業したという輝かしい経歴を持つ、今どき珍しいほどの博愛精神に満ちた若き貴族である。彼はハグルマシティの特区長に就任するや否や、革新的な経済政策を打ち出した。
「すべての民に、豊かで、効率的な生活を!」
ラグナは、新興企業連合が提唱した「新型魔法」の全面導入を決定した。
そもそも魔法とは、電気であり、また、インターネットのような「規格」である。
そして地脈とは、発電所であり、通信施設である。
従来の200%という驚異的な魔導伝導率を誇り、誰もが夢のような恩恵を受けられるはずだった。
ラグナは法を改正し、ハグルマシティ内では「新型規格の魔導器具および魔法」しか使用できないように定めた。ここまでは、急進的ではあるが理解できる範疇だ。
しかし、ラグナは「博愛主義者」であった。
彼は新興企業を優遇する一方で、旧来の技術者、大企業、そして、引退した古き良き職人たちの「名誉と利権」をも守り抜こうとしたのだ。
「すべてが共存する理想郷を、作ろう!」
彼は旧型魔法にしか対応していない旧来の「人造地脈」の独占権を、旧大企業にそのまま保証した。新しい規格のインフラ整備を行うことは、旧企業の既得権益を脅かすという理由で禁止されたのである。
その結果、何が起きたか。
都市のインフラは「旧型」の魔力を供給し続けているのに、都市のすべての機器と魔法は「新型」しか受け付けない。
互換性は皆無。
プラグの形が違うどころの話ではない。
結果として、ハグルマシティはひとりでに、その機能を停止した。
通信は途絶え、物流は停止。
都市の生命線は完全に断たれた。
さらに最悪なことに、ハグルマシティは「経済特区保護法」という強固な法律で守られていた。この法律により、特区への出入りには「魔導サーバーを通じた3ヶ月の厳格な審査」が必要となる。しかし、そのサーバーを起動するための電力が存在しない。物理的なゲートは分厚い魔法障壁で閉ざされたままだ。
おまけに、ハグルマシティ内では特区指定の「人造魔力」しか利用できず、エルフや魔導士であっても、公的な呪術縛りによって魔力を使用することができなかった。
誰も入れず、誰も出られず、魔法も使えず、インフラも死んだ陸の孤島。
冬の足音が近づく中、暖を取ることも、食料を生産することもできなくなった街では、飢えと寒さ、そして疑心暗鬼による暴動の火種が燻り始めていた。
圧倒的な善意の政治と経済の地獄の絶望が、街を覆い尽くしていた。
「……どうして、こんなことに」
ハグルマシティの中心にそびえ立つ、貴族および外国人要人専用の最高級ホテル。その最上階のスイートルームの窓際で、アリシアは震える声で呟いた。
眼下に広がる街は、本来なら美しい魔導灯の光で輝いているはずだった。しかし今は、漆黒の闇に包まれている。時折、食料を奪い合う人々の怒号や、ガラスの割れる音が遠くから微かに響いてくる。
アリシアの背後には、暖かな暖炉の火が揺らぎ、テーブルには豪奢な食事が並べられていた。
このホテルだけは特別だった。緊急用の独立した旧型魔導発電機が備わっており、備蓄された食料は数ヶ月分にも及ぶ。彼女の身の安全は完全に保障されていたし、飢える心配も一切ない。
だが!
それがアリシアの心を酷く苛んでいた!
悪意など一切ない。ただ、観光に訪れただけだ。それなのに、自分だけが暖かな部屋で美味しい食事をとり、窓の外では人々が飢えと寒さに苦しんでいる。圧倒的な格差。何もできない無力感。その事実が、心優しいアリシアの精神を削り取っていた。
『アリシア、泣かないで。必ず私が助け出すから』
特別に繋いだ暗号通信機の向こうから、ルミナリアの冷静だが焦りを隠しきれない声が響く。
ルミナリアは決して、世界中のすべてを救うような大仰な英雄ではない。彼女はただ、自分の手の届く範囲、自分の愛する人々を真摯に守り抜きたいと願う淑女だ。だからこそ、見知らぬ街の経済破綻など本来なら他人事であった。だが、そこに愛するアリシアがいるとなれば話は別だ。
「ルミナリア……私、怖いよ。暴動ではなくて、窓の外の悲鳴を聞きながらも、自分の食欲を満たすために、温かいスープを飲んでしまう自分が、恐ろしいの……」
『あなたは悪くないわ、アリシア。悪いのは、頭のネジが致命的に吹き飛んでいるあの愚か者よ』
ルミナリアはラプラス邸の執務室で、ギリッと奥歯を噛み締めた。
事態を解決するためには、特区長であるラグナに政策を撤回させ、手動でゲートを開放させるしかない。ルミナリアはすでに、ノアに命じて強引に特区長室の通信回線をハッキングし、ラグナ・ロン・レイロとの直接対話の場を設けていた。
『ルミナリア卿!こんな素晴らしい夜に通信をいただけるなんて光栄です!』
画面に映し出されたラグナは、一切の悪びれる様子もなく、それどころか自らの偉業に酔いしれるような爽やかな笑顔を浮かべていた。
ルミナリアは頭痛を堪えながら口を開いた。
「単刀直入に言います。今すぐ『新魔法規格独占法』を一時凍結し、旧規格のインフラと接続させなさい」
『ご冗談を。街は今、新旧の調和という歴史的な偉業の最中にあるのですよ!』
「調和していません。インフラと端末の互換性がないせいで、魔導電力が一切供給されていないでしょう」
『ええそうです!ですがね、新興企業には素晴らしい新技術があり、旧企業には素晴らしい電力がある!彼らが互いに手を取り合えば解決するはずです!私は彼らの自主性を重んじているのですよ』
「自主性を法律で縛ったのはあなたでしょう!物理的に接続不可能なのです!」
『ですから、それはやる気の問題です!互いを思いやる心があれば、魔力など自然と通じるはずです!』
ルミナリアは絶句した。
ラグナはソフィア大学を首席で卒業した男だ。知識量は膨大であり、法学や経済学の理論を語らせれば右に出る者はいない。
だが、彼は致命的に「現実」を理解していなかったのだ!
教科書通りの美しい理念だけを信奉し、現場の泥臭い物理法則や人間の限界を「思いだけで超えられる」と本気で信じているのだ!
ルミナリアは思った!
『この、温室育ちめ!』と!
だが、その言葉はそっくりそのまま過去の自分への否定となった!
「ラグナ卿……。現在、ハグルマシティの魔導サーバーはダウンし、出入国の審査すらできない状態です。餓死者が出るのは時間の問題です」
『餓死?おかしなことを言いますね。我が特区には最新のフード・プリンターを大量に導入したのですよ?ボタン一つで美味しい食事が生成されるのに、なぜ?なぜ、飢えるのです?』
「だから!そのプリンターを動かすための電力が旧型インフラから供給できないからだと言っているでしょう!!」
ルミナリアは珍しく声を荒げた。だが、ラグナは不思議そうな顔をするだけだった。
『なんだろう。ルミナリア卿は疲れていらっしゃるようだ。私はね、誰の権利も、自由も侵害したくない。新興企業も、旧企業も、皆が笑顔になれる道を私は用意したのです。あとは彼らが歩き出すのを待つだけ。私は絶対に、この素晴らしい政策を撤回しませんよ?撤回すれば、どちらかが傷ついてしまう!私はね、皆を愛しているのです!』
通信が一方的に切られた。
ルミナリアは深い、深い絶望とともに、重い頭を抱えた……。
悪意ある敵なら、知略や武力で打ち倒せる。
しかし!
純粋な善意と致命的な愚かさで武装した権力者は、どうにもならない!
彼の行動原理は「すべての人を幸せにしたい」という狂気的な善意だ!
妥協を許さず、現実を見ない。
ハグルマシティの法律は彼に絶対の権限を与えている。彼が法を撤回しない限り、どうすることもできない。
「どうすればいい……。どうすれば。アリシアを、助け出さなければならないのに……」
解決の糸口が見出せない!
圧倒的な政治の壁!
経済の壁!
そして、「愚鈍」という名の最強の盾!
彼女はいま、かつてないほどの無力感に苛まれていた!
「お嬢様、紅茶が入りましたよー!」
重苦しい空気を読まない、いや、あえて読んでいないような軽やかな声とともに、銀髪の可憐なメイド、シャルロッテが入ってきた。
シャルロッテはルミナリアの前にティーカップを置き、可愛らしく首を傾げた。
「お嬢様、なんだか難しい顔をしてますね?一緒にお昼寝してあげましょうか?」
「……シャルロッテ。今は冗談に付き合っている余裕はないの。アリシアが危険なのよ」
「知ってますよ!あの、おかしい貴族様のお話、扉の外で聞いてましたから!」
シャルロッテは鼻息を荒くして言った。
「まったく、バカなんですかねあの人! 『新しいドレスを着ろ、ただし洗ってから使え、そして洗剤は強いものを入れろ』みたいな!そんなの服がダメになるに決まってるじゃないですか!」
「な、なんの話??……んん?……そうね?……でも、彼は、そう、それが最高のファッションだと信じて疑わないの。そして彼が特区長である限り、あの街の法律は彼が絶対。私が外部から手出しすることは、王国法で禁じられているわ」
「ふーん……。法律ってめんどくさいですねぇ」
シャルロッテは自分の淹れた紅茶を勝手に一口飲むと、あっけらかんと言い放った。
「だったら、簡単じゃないですか」
「簡単?」
「ええ。私、お掃除のときに『絶対に入っちゃダメな物置』の鍵が開かなくなっちゃったことがあったんです。ルールで『鍵を壊しちゃダメ』ともルミナリア様から言われてて」
「??……ほう?……それで?……あなたはどうしたの?」
「簡単ですよ!『ここは今日から物置じゃなくて、ただの廊下です!』って宣言してから、ルミナリア様に内緒で、壁ごとぶち抜いたんです!だって、物置の鍵は壊しちゃダメでも、廊下の壁を破壊しちゃダメなんてルールはありませんでしたから!」
「…………はあ?……あ、あなたが壁を壊した犯人だったのね……」
ルミナリアは目を丸くした。
ただのメイドの暴挙である。見当違いも甚だしい。
だが、その言葉が、ルミナリアの明晰な頭脳の中で恐るべき化学反応を引き起こした。
(——そうか。経済特区の法律を守らなければならない『理由』は、あそこが『経済特区』だからだ!ならば、その前提を崩せばいい。鍵を開けるのではなく、扉そのものの概念を消し去る……!)
ルミナリアの瞳に、鋭い知性の光が戻った。彼女はシャルロッテを力強く抱き寄せた。
「シャルロッテ……!あなたはやっぱり、私の最高のジョーカーよ!」
「へへっ、よくわかんないけどお嬢様が元気になってよかったです!」
「ノア!直ちにラグナ・ロン・レイロに暗号回線を!彼に『善意に満ちた二択』をプレゼントしてあげるわ!」
再び画面に映し出されたラグナは、どこか得意げだった。
『ルミナリア卿?私の理念を、理解していただけましたかな?』
「ええ、ラグナ卿。あなたの崇高な博愛精神に、私は深く感銘を受けました」
ルミナリアは完璧な淑女の微笑みを浮かべ、甘い声で毒を盛る。
「あなたは誰も見捨てたくないのですね。新興企業も、旧企業も。そして今、飢えに苦しむ市民も」
『そう!その通りです!そして……』
「そこで!素晴らしい提案があります。あなたが誰の権利も奪わず、瞬時に市民を救える『究極の政策』です。二つの選択肢を用意しました」
ルミナリアは指を立てた。
「選択肢A。新規格の法律を撤回し、特区長を辞任する。……ですが、これはあなたの理念に反しますよね?」
『もちろんです!私は絶対に諦めませんよ!』
「では、選択肢Bです」
ルミナリアは声を潜め、まるで……天使の啓示のように囁いた。
「ハグルマシティを、王都から完全に別れた『慈善国家』として独立宣言させるのです。王国の古い法律に縛られているから、救援物資も入れられないのです。あなたが独立を宣言し、国家元首となれば、王国の法律を無視してすべての門を即座に開放できます。関税も撤廃し、世界中から無償の愛と食料を受け入れる、真の博愛国家の誕生です!」
ラグナの目が見開かれた。
彼の脳内で、「独立」「慈善国家」「博愛」「すべての門を開放」という美しい言葉だけが結びついていく。彼には、それが政治的に何を意味するのかを理解する知能が欠落していた。
『素晴らしい……!ルミナリア卿、あなたは天才だ! なぜ気づかなかったのだろう!古き王国の法こそが、私の博愛を邪魔していたのだ!私はやります! 今すぐ、世界に向けてハグルマシティの独立を宣言します!!』
「応援していますわ、ラグナ卿」
通信が切れた数分後。
ハグルマシティの非常用旧型放送設備から、ラグナの高らかな「独立宣言」が響き渡った。
その瞬間。事態はルミナリアの筋書き通りに動いた。
一地方の特区長が、王国の許可なく独立を宣言する。これは疑いようのない、国家反逆罪である。
罪が成立した瞬間、王国の憲法により、ハグルマシティの「経済特区保護法」およびラグナの「特区長としてのあらゆる権限と法律」は即座に無効化された。
特区長権限が白紙に戻ったことで、「新魔法規格独占法」も消滅。
さらに、反逆者を鎮圧するため、王都から待機していた近衛騎士団が物理的にゲートの魔法障壁を破壊し、なだれ込んだ。
ラグナ・ロン・レイロは、特区長室で笑顔で騎士たちを出迎えた。
「ようこそ、我が愛の……」
「国家反逆の容疑で逮捕する!!」
「え?」
抵抗する間もなく、彼は手錠をかけられ連行された。
暴動が起きる寸前だった市民たちは、突如としてゲートを破壊して現れた騎士団と、彼らが持ち込んだ大量の救援物資を見て歓喜に沸いた。
法律がリセットされたことで旧型インフラが息を吹き返し、街には再び暖かな魔導灯の光が灯った。死傷者ゼロ。血を一切流すことなく、ルミナリアは見事に街とアリシアを救い出したのだ。
数日後。
ラプラス邸の応接室。
無事に救出され、王都に帰還したアリシアは、目に涙を浮かべて二人に抱きついた。
アリシアの柔らかい金髪を撫でながら、ルミナリアは優しく微笑んだ。
「もう大丈夫よ、アリシア。あなたに指一本触れさせるものですか」
「お嬢様、すっごくかっこよかったんですよ!悪い奴を言葉だけでやっつけちゃって!」
シャルロッテもアリシアの背中に抱きつきながら笑う。
今回の事件を経て、三人の絆はさらに深く、強固なものになっていた。
アリシアが落ち着きを取り戻し、紅茶を飲みに席を外した隙。
ルミナリアは、シャルロッテの腕をスッと引き寄せた。
「……シャルロッテ」
「ん? どうしたんですかお嬢様?……んっ!?」
ルミナリアは、シャルロッテの唇に自らの唇を重ねた。
甘く、少しだけ強引なキス。
しかし、ルミナリアの表情は氷のように冷たく、一切の感情を読み取らせない「無表情」を作っていた。
唇が離れる。シャルロッテは目をぱちくりとさせた。
「お嬢様……?」
「……別に。その。今回のあなたのその、『見当違いな助言』が、えーと、結果的に私の役に立った。これはその対価、つまり、その、ただの事務的な報酬よ。感情など、ないわ?」
ルミナリアはツンとそっぽを向いた。
本当は、シャルロッテの何気ない言葉に救われたこと、そして彼女の存在が愛おしくてたまらないことを自覚し、顔から火が出るほど恥ずかしかったのだ。だからこそ、精一杯の強がりで「無感情」を装ったのである。
だが、シャルロッテはやはりジョーカーだった。
彼女はすべてをお見通しだというように、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「事務的な報酬なのに、お嬢様の心臓、すっごくドキドキ鳴ってますよ?それに、お耳の先が真っ赤です!」
「なっ……!ば、馬鹿なことを言わないでちょうだい!」
慌てて耳を隠そうとするルミナリアに、シャルロッテは満面の笑みでギュッと抱きついた。
「大好きです、ルミナリアお嬢様!アリシア様のことも、お嬢様のことも、ぜーんぶ大好き!」
その無邪気で温かい抱擁に、ルミナリアの冷たい仮面は崩れ去った。
「……本当に、あなたには敵わないわね」
ルミナリアは諦めたようにため息をつき、そして、今度は誤魔化すことなく、愛おしそうにシャルロッテの背中に腕を回し、その抱擁を深く受け入れた。




