救済6:小型犬爆殺!魔女を従える悪女!
王都の昼下がり。中央公園の噴水広場にて。
いつもならば、散歩を楽しむ貴族や子供たちの笑い声で溢れているはずだった。しかし今日、その広場を支配していたのは、悲痛な叫びだった。
「ポチ……!目を開けてよ、ポチぃっ……!」
つぎはぎだらけの服を着た貧困街の少年・テオは、膝の上に抱えた小型犬の身体を震える手で何度も撫でさすっていた。ポチの口からは泥のような泡が吐き出され、小さな胸の上下運動はすでに途切れ途切れになっている。
「誰か、誰か助けて……!」
集まった人だかりは、ただ哀れみと関心の混ざった視線を向けるだけで、誰一人として手を差し伸べようとはしない。
その人だかりを割るようにして、一人の少女が膝をついた。ドレスを身にまとったエルフの少女……アリシア・ヴェリタスである。
アリシアは必死でポチの身体を包み込んだ。しかし、彼女の顔は絶望に歪んでいた。
彼女はエルフであり、溢れんばかりの善意を持っている。しかし、彼女自身は生まれつき『魔力』を一切持たない存在だった。どれほど愛を注ごうとも、今まさに消えゆこうとする命を繋ぎ止める現実的な技術を、彼女は持っていなかったのだ。
「お願い……誰か!回復魔法が使えるお医者様はいらっしゃいませんか!私がいくらでもお代は払いますから……!」
アリシアが涙をこぼしながら周囲に叫んだ、その時だった。
「おややや?お困りのようですな!さあ!奇跡の特効薬が、ここにありますぞ!」
大げさな身振り手振りで躍り出てきたのは、中年の行商人だった。彼の背後には「100%効く万能霊薬」と怪しげな文字で書かれた看板を掲げた小舟のような屋台が置かれている。
「坊や!泣く必要はないぞ!この私が開発した『生命の秘薬』を飲ませれば、どんな重病の犬だって100%間違いなく元気になる!たったの銀貨三枚だ。愛する家族の命が買えると思えば……安いものだろう?」
「ほ、ほんとに……?100%、助かるの……?」
テオは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ポケットの底から握りしめていた全財産、泥のついた銀貨三枚を取り出した。
行商人の目が、下劣な強欲さでギラリと濁る。
「『多分』絶対助かるさ!さあ、この薬を飲ませれば……」
行商人が小瓶を突き出そうとした、まさにその瞬間。
「お待ちなさいな」
広場の空気を一瞬で凍りつかせる、氷のように冷たい優雅な声が響き渡った。
野次馬たちが自然と道をあける。そこから現れたのは、純白のドレスを纏った金髪の令嬢・ルミナリア・フォン・ラプラスだった。
彼女の背後には、気配を殺した従者のノアと、メイドのシャルロッテが付き従っている。
「ルミ……!」
アリシアが縋るような視線を向けた。だが、ルミナリアの青い瞳には、瀕死の犬への同情も、泣き叫ぶ少年への哀れみも浮かんでいなかった。ただ冷徹なまでに平然と、現場の状況を観察している。
ルミナリアは魔力も体力も一切持たない。だが、人間の心理と行動の愚かさを見抜く知能にかけては、世界で右に出る者は存在しなかった。
「少年?貴方は今、その銀貨三枚で、得体の知れない緑色の液体を買おうとしていますわね」
「だ、だって……このおじさんが、100%助かるって……!この人が言ったから……」
「この人が言ったから?……そもそも、この世に『絶対』などという都合の良いものは存在しませんのよ。自分の頭でよく考えてもみなさい。なぜ、その犬はいま、急に苦しみ出したのです?外傷もない、熱もない。ならば。何か『根本的な原因』が、いま、ここにあるはずですわ。拾い食いをした毒物か、あるいは……」
ルミナリアの言葉は、論理的であり、完璧な正論だった。
しかし、パニックに陥った子供にとって、「冷静に根本原因を観察して考えろ」という要求は、あまりにも過酷で残酷だった。
「分かんないよ!!考えるヒマなんてない! ポチが死んじゃうんだ!!」
テオは叫んだ。自分の頭で考える恐怖から逃げ出し、目に見える『簡単な救い』に飛びつこうとしていた。
ルミナリアはゆっくりと目を細め、底知れぬ笑みを浮かべた。
「……そうですか。思考を放棄し、最も簡単な道へ……『逃げる』のですね。では、貴方に二つの『選択』を与えますわ」
ルミナリアは白百合のような指を二本立てた。
「選択肢A。その男の言う通り、安くて100%助かるというその『似非科学の薬』を買い、今すぐ犬に飲ませなさい。ただし、簡単な甘い言葉に縋った結果がどうなるか、貴方は自分の目で見届けることになりますわ」
「選択肢B。その胡散臭い薬を捨て、犬の身体を隅々まで観察し、なぜ苦しんでいるのかという『根本的な原因』を……」
テオはルミナリアの話を聞かずに、行商人に銀貨を叩きつけ、小瓶を奪い取った。
「お姉ちゃんの言うことなんて聞かない!」
彼は、選択肢Aを選んだ。
思考を放棄し、「安くて、簡単で、絶対」という言葉に縋る道を。
テオは小瓶の蓋を投げ捨て、緑色の液体をポチの口へ流し込んだ。
「そうだ坊や!それで犬は元気になるぞ!……では、さらばだ!」と行商人が下品に笑う。
直後。
ポチの身体が弓なりに跳ね上がった。一瞬だけ目を見開き、立ち上がろうとした。
テオが歓喜の声をあげた。
だが、次の瞬間!
ポチの口と鼻から大量の黒い血が噴き出した!
犬の瞳から完全に光が失われ、全身の筋力が弛緩し、そのままテオの腕の中でぐにゃりと崩れ、赤や緑の光線を体の穴という穴から発射して……断末魔の叫びをあげて……。
「ワン!……ワンワ……ゥゆワビッ!?」
ポチは、内側から破裂した。
即死だった。
「……え?」
テオの手が、血で赤く染まる。ポチはもう、ピクリとも動かない。
「ほう!なるほど!その犬は最初から死にかけていたんだ! 私は悪くないぞ!」
行商人は屋台を引き、逃げ出そうとした。
「……ポチ……? ポチぃぃぃっ!!」
絶望のどん底に叩き落とされ、テオは亡骸を抱きしめて狂ったように泣き叫んだ。自分の選択が、愛する家族の命を奪ったのだ。自分が、甘い言葉に騙されて考えるのをやめたから。
ルミナリアは内心で、深く、深く途方に暮れていた。
ルミナリアの計算では、あの薬が単なる気休めの水であり、飲ませても症状が改善せず、テオが「騙された」と気づいて熟考を始めるはずだった。
まさか、まさか。まさか、あの薬が症状を劇的に悪化させて即死させるほどの劇薬だったとは、計算の外だったのだ。
犬は……爆死してしまった。
取り返しのつかない選択を選ばせてしまった!
ルミナリアは、冷静を装っていたが、もう……限界だった。
「私に……私に魔法があれば……!この子を救えたのに……っ!アリシア!私、どうしよう……どうしたらいいの……!?」
ルミナリアは絶望に打ちひしがれ、うずくまった。
アリシアもまた言葉を失い、冷や汗を飲み込んで沈黙する広場。
完璧な手詰まり。誰もが、この悲劇の結末を受け入れるしかないと諦めた、その時だった。
スッ……と。
ルミナリアの後ろから、ひとりの少女が、静かに歩み出てきた。
新人メイドのシャルロッテである。
「……ルミナリア様」
シャルロッテは、悲しそうに伏せられたルミナリアの横顔を見つめていた。その栗色のくせ毛の隙間から覗く瞳には、この世の何物にも代えがたい狂おしいほどの熱と愛が宿っている。
(あぁ……ルミナリア様が、お困りになっていらっしゃる。ルミナリア様を困らせるものなんて、この世にあってはならない……!)
シャルロッテは吸い寄せられるように、死んだ犬の前にしゃがみ込んだ。
「シャルロッテ……?あなた何を……」
ルミナリアが制止しようとした、次の瞬間だった。
広場全体の空間が、歪んだ。
シャルロッテの華奢な体から、目に見えるほどの「魔力の濁流」が溢れ出したのだ。
異常な魔力が、広場を満たしていく。
「あ……が……っ!?」
逃げ出そうとしていた行商人が、その圧倒的な魔力の圧力に押し潰され、地面にひれ伏した。
「魔力……!?」
アリシアが息を呑み、髪を乱しながら叫んだ。
シャルロッテは、血まみれのポチの頭部に、白く細い指先をそっと重ねた。
彼女の瞳は濁り、ただひたすらに、ルミナリアだけを見つめている。
「ルミナリア様……。わたくしの命も、心も、身体も、すべてはルミナリア様のもの。……ルミナリア様が望む世界のためなら、わたくし、理だって壊してみせますわ」
シャルロッテが口ずさんだのは、魔法の呪文すら存在しない、純粋な『奇跡の行使』だった。
一瞬にして、周囲の空気が逆流した。
『蘇生魔法』。
それは、世界最高峰の魔導研究機関であり、歴史上のあらゆる天才魔導士を輩出してきたあの『ソフィア大学』の教授陣や卒業生たちですら、不可能に近い。
シャルロッテの手の下で、信じがたい事象が巻き起こっていた。
ポチの体内から噴き出した黒い血が、まるで映像を逆再生するように口元へと吸い込まれていく。破裂した内臓の細胞が凄まじい速度で結合し、完全に停止していた心臓が、力強くドクンと打ち脈打ち始めた。
「……え?」
テオが目を見開いた。
ポチの濁っていた瞳に、黒々とした輝きが戻る。
「ウ……ワンッ!!」
ポチが弾け飛ぶように起き上がり、テオの顔を元気に舐め回し始めた。
即死したはずの犬が。全身の細胞を破裂させて死んだはずの命が、傷一つない完全な状態で、元通りに『蘇生』したのだ。
広場全体が、死んだような静寂に包まれた。
「嘘……?」
アリシアは両手で口元を覆い、腰を抜かしたまま絶句していた。
「蘇生……?死んだ命を蘇らせたの……!?魔術師だって、その術式を行うのは難しいのに……!彼女一体、何者なの……!?」
アリシアの全身が、恐怖と感動でガタガタと震えていた。目の前にいるのは、ただのドジな新人メイドなどではない。底知れぬ『怪物』だったのだ。
そして。
冷徹な計算で世界を支配してきたルミナリアすらも、その青い瞳を極限まで見開き、絶句していた。
(……馬鹿な)
ルミナリアの脳内で、怪物的な知能が激しく暴走した。
(この娘は、蘇生魔法を……やってのけたというのですか……!?)
ルミナリアの手先が、微かに震えた。
「ふふっ……ルミナリア様ぁ……」
シャルロッテは、犬を治し終えると、何事もなかったかのようにルミナリアの車椅子の足元へ膝突き、熱っぽい吐息を漏らしながらドレスの裾に頬をすり寄せた。
「ルミナリア様がお困りになっているお顔……すごく可愛らしかったですけれど、やっぱりわたくし、ルミナリア様には笑っていてほしいんですの。……わたくし、ちゃんとお役に立てましたでしょうか……?」
「っ……あ、ええ。よく……やってくれましたわ、シャルロッテ」
ルミナリアは、声が震えるのを必死で抑えながら、シャルロッテの頭に手を置いた。シャルロッテは歓喜の声をあげ、恍惚の表情を浮かべた。
ルミナリアは深呼吸をし、乱れた思考を瞬時に立て直した。
(落ち着きなさい、ルミナリア。……奇跡が起きたのなら、それを利用して、そうして……完璧な終劇を迎えるだけですわ)
ルミナリアは、生還したポチを抱きしめて号泣しているテオへ、静かに視線を向けた。
「……ノア」
「ハッ」
指示を受ける前に、ノアは元気に跳ね回るポチの首輪を裏返していた。そこには、肉眼では見落とすほど小さな「毒の針」が仕込まれていた。
「……首筋に、持続性の毒針です。これが犬の皮膚を刺激し、徐々に衰弱させていた原因ですね」
ノアの声に、広場の群衆がハッと息を呑んだ。
ルミナリアは、地べたにひれ伏して震えている行商人を見下ろした。
「簡単なカラクリですわ。貴方は夜な夜な貧困街を回り、ペットの首輪に毒針を仕込んでいた。そして翌日、苦しむ飼い主の前に現れ、劇薬を『100%治る特効薬』と偽って売りつけていたのですね。毒の原因を取り除かないまま劇薬を飲ませれば、心不全で即死する。……つまり、悪質な詐欺ですわ。……ノア、警察へ」
「かしこまりました」
ノアが行商人の襟首を掴み、引きずっていく。悪党の完全な自滅だった。
テオは、ポチを抱きしめたまま、ルミナリアの前に歩み寄った。
「お姉ちゃん……僕、お姉ちゃんの言うこと聞かないで、バカなことしちゃった……」
テオの顔から、甘えは消えていた。自分の「安易な選択」が一度は愛する家族を死なせたという強烈な実体験。その痛みが、少年の心に『深く考える』という盾を刻み込んでいた。
「分かったでしょう、少年。世の中に『完璧』などという甘い救済はありません。パニックになった時こそ、疑い、自分の頭で原因を熟考しなさい。2度目の奇跡など、起きませんのよ?」
テオは涙を拭い、深く、深く頭を下げた。
ルミナリアは日傘をすっと開き、そっぽを向いた。
「感謝は不要ですわ。私はただ、理論を証明したかっただけの、悪女ですから」
「ふふっ、ルミったら」
アリシアが、まだ衝撃から冷めやらない様子で苦笑いしながら歩み寄ってきた。
「でも……本当に凄かったわ。ルミの言った通り、あの人は悪党だったし……それにしても……」
アリシアは、ルミナリアの膝に顔をうずめてスリスリしているシャルロッテを、恐る恐る見つめた。
「シャルロッテさん……あなた、本当に何者なの……?蘇生魔法なんて……」
シャルロッテは首をかしげ、無邪気な笑顔を浮かべた。
「え? わたくし、ルミナリア様が悲しむのが嫌だったから、ちょっと頑張っただけですの。ねえ、ルミナリア様ぁ、褒めてくださったから、今夜はルミナリア様のお部屋で一緒に寝てもよろしいですか……?」
「却下ですわ」
ルミナリアは即答した。
しかし、車椅子に揺られながら、ルミナリアの内心には凄まじい決意が満ちていた。
(ソフィア大学の天才たちでもなかなかできない『蘇生』を、ただの愛だけでやってのける規格外のバグ……。この娘を放っておけば、世界そのものが破滅するか、あるいは……)
甘い香りを漂わせ、狂おしいほどの依存を見せてくるシャルロッテ。
(だからこそ……悪女である私が、この娘を完全に飼い慣らし、私の檻の中で守らなければならないのですわ)
ルミナリアは、シャルロッテの頭を、もう一度だけ優雅に撫でた。




