救済5:濡れ衣を掘り起こす悪女!
埠頭の夜は、漆黒の静寂に包まれていた。
積み上げられたコンテナの陰で、ルミナリアの従者・ノアは影の一部と化していた。彼の手には、小さな小箱があった。中には、届いたばかりの極上の舶来茶葉が大切に収められている。
(……しかし。このタイミングとは、なかなか、ついていませんね)
ノアの瞳が、暗がりの中で冷たく光った。
彼が見下ろす倉庫の奥では、王都の闇を仕切る新興貿易商『ヴァルザック商会』の私兵たちが、重厚な鉄の箱を船へ運び込んでいた。表向きは輸入絹糸の取引。しかしその実態は、王都の関税結界を破る違法な魔導触媒と、ある名家から盗み出された極秘の財産文書の闇取引であった。
ノアが立ち上がろうとしたその瞬間。
「そこに鼠がいるぞ!」
怒号とともに、数十名の用心棒がコンテナの陰を取り囲む。
ノアは溜息をひとつ吐き、抵抗する素振りを一切見せずに両手を挙げた。
翌日、昼下がり。
ラプラス公爵邸の庭園に佇む白亜のガゼボは、やわらかな陽光と咲き誇る白百合の香りに満ちていた。
「まあ、ルミナリア様のお髪は、本日もなんて可憐で洗練されているのでしょう……!」
熱っぽい溜息とともに、淹れたてのハーブティーを運んできたのは、数日前にルミナリアが買い取ったばかりのメイド、シャルロッテだった。
「シャルロッテ。だから……あなたは少し、近すぎますわ。」
「あっ、申し訳ありませんルミナリア様!でも、ルミナリア様のこの甘いお声を聞いていると、わたくし、胸が苦しくなって身体が勝手に……!」
「ふふ、相変わらず賑やかなお屋敷ね、ルミ」
鈴を転がすような愛らしい声が響き、ガゼボの入口から一人の少女が姿を現した。
透き通るような白い肌に、美しい長い耳。ドレスを身にまとったエルフの少女、アリシアである。
「ようこそ、アリシア。待ちわびていましたわ」
ルミナリアは、陶器のように白い頬に心からの笑みを浮かべた。
「初めまして、あなたがルミの新しいメイドさん? 私はアリシア・ヴェリタス。よろしくね」
アリシアが屈託のない笑顔で手を差し伸べると、シャルロッテは目を瞬かせ、丁寧にお辞儀をした。
「初めまして、アリシア様。わたくし、ルミナリア様のお世話を言いつかっておりますシャルロッテと申します。……あの、アリシア様も……ルミナリア様のことが……お好きなの……ですか?」
「ええ!大好きよ。ルミは私の世界で一番大切な、かけがえのない親友だもの」
「まあ……!わかりますわわかりますわ!ルミナリア様はそれはもうこの世の誰よりも気高く優しく女神様のように素晴らしいお方ですものね!わたくしもルミナリア様のためならもう命だって惜しくはありませんわ!」
早口で、ルミナリアの魅力を語り出すシャルロッテ。
ふたりは一瞬で意気投合し、互いの「ルミナリアへの愛」を熱っぽく語り合い始めた。
二人はただ純粋に、ルミナリアという存在がいかに自分を救い、いかに魅力的であるかを熱弁した。
(……まったく、二人して私の目の前で何を競い合っているのですか)
ルミナリアはソーサーを手に持ち、内心で呆れつつも、その胸の奥に甘い痛みを覚えていた。
アリシアの笑顔は、相変わらず眩しすぎる。彼女は太陽だ。自分のような闇の底で悪を喰らう毒蛇とは、本来なら交わるはずのない光そのもの。
「そういえば、アリシア」
ルミナリアはふと、気になっていた話題を口にした。
「貴女はアフェランドラ学園を優秀な成績で卒業し、今はあの『ヴェリタス家』の令嬢として親しまれていますけれど……元々は名門『ガバナンス家』の生まれでしたわね。差し支えなければ、どのような経緯があったのか教えてくださらない?」
アリシアは一瞬だけ寂しげに目を細めたが、すぐに柔らかい笑みを戻した。
「隠すようなことじゃないわ。……わたくしは元々、伝統あるエルフの名家ガバナンス家の長女として生まれたの。でもね……」
アリシアの告白は、静かに紡がれた。
ガバナンス家は誇り高き家柄だったが、ある執事の陰謀により、無実の罪を捏造された。幼かったアリシアは「罪人の娘」として家を追放され、路頭に迷うことになったのだという。
「その私を拾って、養子として引き取ってくれたのが……ヴェリタス家だったの」
「ヴェリタス家……確か、かつては極貧の没落貴族だったはずですわね」
「ええ。でもね、私の義理のお姉様、エラーラ・ヴェリタスお姉様が、すべてを変えたの」
アリシアの瞳が、尊敬と誇りで輝いた!
エラーラ・ヴェリタス。
褐色肌を持つ世界最高の天才魔導科学者。彼女はたった一人で既存の魔術理論を崩壊させる新発明を次々に連発し、莫大な特許権と技術独占によって、没落寸前だったヴェリタス家をわずか数年で「国の政治・経済・外交すら動かす超一大勢力」へと押し上げたのだ。
「エラーラお姉様は、エルフの孤児で、罪人の濡れ衣を着せられていた私を、何の迷いもなく抱きしめてくれた。『家柄も種族も関係ない。私の妹になったからには、世界で一番幸せにしてあげる』って。……私、あの時誓ったの。エラーラお姉様が私に無償の愛をくれたように、私も世界中の悲しんでいる人、困っている人に、無限の善意を注ごうって」
「…………」
ルミナリアは、持っていたティーカップをそっと置いた。
(そういうこと……でしたのね)
胸の奥が、熱く締め付けられる。
アリシアのあの「時に狂気すら感じる過保護な善性」。害虫のような悪党にすら手を差し伸べ、自分を危険に晒してまで人を救おうとするあの行動。
それは、単なるお人好しなどではなかった。
絶望の淵で「圧倒的な愛」によって救われた経験を持つ者が、その奇跡を世界に還元しようとする、悲しいほどに美しく純粋な「愛」だったのだ。
(ああ……愛おしい。愛おしすぎて、反吐が出ますわ、アリシア)
ルミナリアは、自分の内に渦巻く嫉妬と敬愛が、さらに深く、重く変化していくのを感じた。
自分は悪でしか愛を救えない。だがアリシアは、その存在そのものが愛なのだ。この光を失わせるわけにはいかない。絶対に。
その時。
ルミナリアのドレスのポケットの中で、小さな魔導時計が規則的な微振動を刻んだ。ノアからの緊急暗号通信。
(ノアが拘束された……場所は、ヴァルザック商会の倉庫。……なるほど、そういうことですのね)
ヴァルザック商会。かつてガバナンス家を陥れ、無実の罪を擦り付けた元執事が裏で糸を引く新興企業。
彼らは今夜、ガバナンス家から盗み出した『機密文書の原本』と違法魔導触媒を国外へ売り払おうとしている。そして、たまたま埠頭の商人から茶葉を回収しに行ったノアは、その現場に遭遇して捕まったのだ。
だが。
ルミナリアの顔には、焦りも怒りも微塵も浮かばなかった。
ただ、どこまでも優雅で、無関心な微笑みが深まっただけだった。
「ねえ、アリシア」
ルミナリアは、まるで「今日のケーキの味」について尋ねるような軽やかさで言った。
「少し、賭けをしませんこと?」
「賭け?」
アリシアが不思議そうに首をかしげる。シャルロッテも興味津々で身を乗り出してきた。
「ええ。今から王都の埠頭で……ある『強欲な貿易商』が、自らの罪を認めて警察に自首するか、それとも欲望に目が眩んで自爆的な選択をするか。……どちらに転ぶか、私と賭けをしましょう」
「もう、ルミったら。でも……私は、その貿易商の人が、自分の間違いに気づいて自首する方に賭けるわ!人は誰だって、やり直せるもの!」
「ふふ、相変わらずおめでたい回答ですわね。では、私は『彼が強欲のままに自滅する』方に賭けましょう」
東区の埠頭・地下倉庫にて。
縛り上げられたノアの前で、ヴァルザック商会の社長のヴァルザックが、冷や汗を流しながら通信端末を睨みつけていた。
突如、倉庫のスピーカーから、絶対零度の冷徹な音声が流れ始めたからだ。
『聞こえるかね、ヴァルザック君』
「な、誰だ!なぜこの暗号回線を!」
『君が今拘束している青年は、ラプラス公爵家の従者だ。彼を殺せば、君は公爵家と国家警察の両方を完全に敵に回すことになる。……そこでだ、知的な君に、二つの「選択肢」をあげよう』
ヴァルザックは息を呑んだ。
『一つ。今すぐその従者を解放し、倉庫にある貨物をすべて置いて警察に自首したまえ。君がかつてガバナンス家に着せた冤罪を自白すれば、司法取引により命だけは助かる』
『二つ。君の足元にある「自走式・自動出港船」にすべての違法貨物と機密文書を積み込み、今すぐ出港させることだ。出港ボタンを押せば、君は利益を得て高飛びできるかもしれない。……さあ、選ぶがいい。罪を認めるか、欲望に身を任せるか。さあ、あなたの罪に、選択を』
通信が切れた。
ヴァルザックは顔を真っ赤にし、血走った目で叫んだ。
「誰が自首などするかよ!馬鹿か!司法取引だと?刑務所で一生を終えろというのか!俺は海の向こうで優雅に暮らすんだよ!!」
ヴァルザックは迷わず、出港レバーを力任せに押し下げた!
「行けぇぇっ!俺の夢を乗せて飛び立て!!」
直後。
轟音とともに船が港を出た瞬間、王都の空を覆う巨大な「防衛結界」が真っ赤に発光した。
ヴァルザックが押した出港ボタンは、ルミナリアが事前に王都税関のシステムに仕込んでおいた『密輸監視プログラム』の起動スイッチだったのだ。
結界から放たれた無数の光の鎖が船を完璧に拘束し、港の全エリアが白日のもとに晒された。同時に、待ち構えていたカレル警部率いる警察部隊が倉庫へ雪崩れ込んでくる!
「な……なぜだ!?……!?」
腰を抜かしたヴァルザックの目の前で、船のコンテナが弾け飛び、中から『ガバナンス家の機密文書の原本』と、膨大な違法取引の帳簿が、空から舞い散る花びらのように警官たちの頭上に降り注いだ。
混乱の最中、縛られていた縄を易々とほどいたノアは、埃を払ってスッと立ち上がった。
「やれやれ……お嬢様の計算通りですね。人間の欲望ほど、扱いやすいスイッチはありません」
ノアは胸ポケットの木箱が無事であることを確認すると、パニックに陥る悪党たちを横目に、闇の中へと静かに姿を消した。
ラプラス邸の庭園にて。
「あら?どうやら、私の勝ちのようですわね、アリシア」
ルミナリアは、優雅にソーサーを置いた。
ちょうどその時、庭園の小道から、何事もなかったかのような足取りでノアが歩み寄ってきた。彼の髪にも服にも、一切の乱れはない。
「お待たせいたしました、アリシア様。ご依頼の舶来茶葉でございます」
ノアが恭しく差し出した木箱を受け取り、アリシアは目を丸くした。
「ありがとう、ノアさん!」
「……少々港で『劇的な捕獲劇』を目撃いたしまして、時間がかかってしまいましたが」
ノアが意味深にルミナリアへ視線を送ると、ルミナリアは満足げに微かに頷いた。
首を傾げるアリシアに、ルミナリアは微笑みを返した。
「ええ。王都警察の発表によりますと……東区埠頭で、かつてガバナンス家に冤罪を着せた悪徳商人が、自らの操作ミスで密輸船を結界に引っ掛け、全財産と証拠を警察の前で開帳して逮捕されたそうですわ」
「えっ……!?それって……じゃあ、ガバナンス家の濡れ衣が晴れるってこと!?」
「ええ。公文書の原本が押収されたそうですから、明日には貴女の元実家ガバナンス家の名誉は完全に回復され、没収された財産もすべて返還されるでしょうね」
「そんな……!女神様……ありがとうございます……!」
アリシアはぽろぽろと大粒の涙をこぼし、胸の前で手を組んだ。
彼女は知らない。
その「女神様」が、今目の前で弱々しく車椅子に揺られ、すました顔でお茶を飲んでいる病弱な親友であることを。
彼女は知らない。ルミナリアが、ただの遊びのついでに、ノアの命を完璧に守り抜き、同時にアリシアの元の家の名誉までをも完璧に救い出したことを。
(愛だけでは、誰も救えませんわ、アリシア)
ルミナリアは、感涙するアリシアの横顔を愛おしそうに見つめながら、心の中で静かに呟いた。
(貴女の善意は美しい。けれども、その美しさを踏みにじる悪を滅ぼすのは、暴力でも愛でもない。……誰よりも泥水を知り尽くした、私の「悪の理論」だけですのよ)
「あぁぁっ!ルミナリア様……!」
足元で一部始終を察していたシャルロッテが、もはや隠そうともしない狂気の熱目を潤ませ、ルミナリアの膝に顔をうずめてきた。
「ルミナリア様は……本当に、天使のようで、そして悪魔のように強くて美しいお方……!わたくし、ルミナリア様のお側にいられて、本当に、本当に幸せですわ……っ!」
シャルロッテの甘い香りが、ルミナリアの鼻腔を満たす。
この狂暴で、無防備で、破滅的な愛を向けてくるメイドを、ルミナリアは突き放すことなく、そっとその頭を撫でた。
「ノア。お茶を淹れ直しなさい。アリシアが持ってきてくれたこの素晴らしい茶葉で」
「かしこまりました、お嬢様!」
ノアは誇らしげに胸を張り、深々と一礼した。




