救済4:友の命を買う悪女!
「ルミナリア様、本日の紅茶はダージリンをご用意いたしました。お加減はいかがですか?」
純白のレースがあしらわれた長椅子に身を預けるルミナリアの足元には、数日前にこの屋敷に「買い取られた」ばかりの元新人メイド、シャルロッテが傅いていた。彼女はルミナリアの冷たく白い指先に自らの頬をすり寄せ、熱に浮かされたような瞳で主人を見上げている。
「悪くありませんわ。しかし、いえ……。……シャルロッテ、少し離れなさい。貴女の体温は、今の私には息苦しいのです」
「あっ……申し訳ありませんっ!わたくしとしたことが、ルミナリア様の美しさに当てられて、つい……!」
シャルロッテは慌てて飛び退きながらも、その表情には叱られたことへの恍惚とした悦びが浮かんでいる。ルミナリアは微かにため息をつき、極上の香りを放つティーカップを手に取った。
その時、温室のすりガラスの扉が音もなく開き、執事のノアが静かに足を踏み入れた。
彼の足取りは普段と寸分違わず優雅であったが、その瞳の奥には緊張が走っていた。
「お嬢様。至急、ご報告しなければならない事態が起きました」
「……何かしら。私のティータイムを邪魔するほどの面白みのある悲劇だと良いのだけれど」
ルミナリアは紅茶を一口含み、無関心な視線をノアへ向けた。
「アリシア様が、何者かによって誘拐されました」
王都で最も高名な慈善家であり、ルミナリアの唯一無二の親友であるエルフの少女、アリシア。彼女が攫われたとなれば、本来なら公爵家を揺るがす大事件である。
しかし、ルミナリアの表情は眉毛一本たりとも動かなかった。
「……それで?」
「犯人は、王都東区のスラムを拠点とする反社会勢力の元締め、ゲーツと名乗る男です。現在、アリシア様を地下に監禁し、身代金として五千万クレストを要求する脅迫状を、アリシア様が運営する孤児院に送りつけてきました。孤児院の職員がパニックに陥り、当家に助けを求めてきた次第です」
「五千万クレスト!?……随分と安く見積もられたものですわね、あのエルフの命も」
ルミナリアは、ティーカップをソーサーに置き、微かに口角を上げた。その姿は、親友が死の危機に瀕していると聞いた人間のそれとは対極にある、絶対的な無関心と冷酷さに満ちていた。
「ノア。犯人のゲーツという男、どこかで聞き覚えがありますわね」
「ご慧眼です、お嬢様。彼は一年前、アリシア様が『貧困から抜け出すための自立支援』として、無償で郊外の農地を譲り渡した相手の一人です」
その報告を聞いた瞬間、ルミナリアの脳内で、すべての事象が一本の線で繋がった。彼女は冷たい笑いを漏らした。
「なるほど。全て、理解しましたわ。アリシアは彼に、小麦や野菜を育てて真っ当な生活を送るようにと、農地を与えた。……けれど、そのゲーツという男は、農地で真っ当な作物を育てず、莫大な利益を生む薬物の栽培に手を出したのでしょう?そして……」
「仰る通りです。三ヶ月前、王都警察の魔導規制局が農園を摘発。農地は国に没収され、ゲーツは身包みを剥がされて多額の罰金を背負い、そして……スラムへ逃げ込みました」
「彼は、すべてを失ったのは『こんな農地を押し付けてきたアリシアのせいだ』と逆恨みした。……本当に、人間の愚かさというものは、私の計算式を寸分違わずなぞってくれますわね」
ルミナリアは、日傘の柄を指でなぞりながら、ふふっ、と優雅に微笑んだ。
(フフフ……アリシア。私の愛しい、愚かな光よ。だから言ったでしょう?)
ルミナリアの内心には、ある種の「歓喜」が渦巻いていた。
それは、自らの持つ『善意は時に人間を破滅させる』という冷徹な理論が、完璧に証明されたことへの知的興奮だった!
アリシアの底抜けの善意と無償の愛は、弱者を救うどころか、弱者を甘やかし、彼らの内なる悪意を増幅させる劇薬になったのだ!
「例えるならば。……渇きに苦しむ村のために、水道設備を建設してあげたようなものですわ。愚かな村人たちは、その水道から出る水を飲んで畑を耕すのではなく、水道管の鉄を剥がして売り払い、その日の酒代に変えてしまう。そうして……水が出なくなれば、『お前が作った水道のせいで喉が渇いた』と怒り狂うのです」
「……まさに。その通りでございます」
ノアが深く頭を下げる中、シャルロッテは背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
親友が絶体絶命の危機にありながら、その事件の構図をまるでチェス盤を眺めるように分析し、自らの思想の正しさに陶酔するルミナリア。彼女には、常人が持つ「焦り」や「恐怖」といった感情が完全に欠落しているように見えた。
(ルミナリア様は……思想と感情を、完全に切り離しておられるんだわ……!)
シャルロッテは震える瞳で主人を見つめた。
普通の人間なら、理論と感情が入り混じり、パニックに陥る。
しかし、ルミナリアは違う!
彼女は、自らの『理屈の正しさ』を喜ぶ冷徹な脳髄と、親友を慈しむ熱い感情を、別々の箱に分けて完璧に処理できる本物の強者なのだ!
「さて。理論はこれで終わりですわ。ノア。これより害虫駆除の作業に入ります」
ルミナリアの瞳から、スッと笑みが消えた。
「私の誇りであるアリシアを、あのような薄汚い獣の檻に一秒でも長く閉じ込めておくことは、この私のプライドが許しませんの。五分で終わらせますわ」
「制圧部隊を突入させますか?」
「馬鹿なことを。武力などという野蛮なものは、知能のない猿が使うものですわ。血の一滴でも流させたら、私の完全勝利にはなりません」
ルミナリアは、誰よりも輝かしい「善」と「愛」のために動いている。
しかし、彼女が振るう武器は、希望でも勇気でもない。人間の欲望、保身、恐怖といった泥の底の感情を計算し尽くした、紛れもない『悪の理論』であった。
「通信用の魔力端末を用意しなさい。逆探知不可能な経路で、ゲーツのアジトの周波数へ繋ぐのです」
数分後。
王都の地下深く、カビと鉄錆の匂いが充満する廃工場の地下室。
そこでは、後ろ手に縛られたアリシアが、恐怖に震えながらも気丈にゲーツを見上げていた。
「ゲーツさん……お願い、話を聞いて。どうしてこんなことをするの? 私、あなたを助けたかっただけなのに……!」
「黙れ!エルフの小娘!お前が中途半端な偽善で俺に土地なんかよこしたから、俺は警察に目をつけられて全部失ったんだよ!責任を取って、俺の人生を買い戻せ!」
血走った目でナイフを振り回すゲーツ。その時、部屋の片隅に置かれていた旧式の魔力通信機が、突如としてノイズを発し始めた。
『やあ。こんばんは。ゲーツ君』
通信機から響いたのは、魔力で低く加工された、不気味な声だった。
「な、なんだお前は!?なぜこの通信回線を!」
『私は、王都の闇を仕切るシンジケートの幹部だ。お前がエルフの娘を攫い、五千万クレストという小銭を要求していると耳にしてね。あまりのスケールの小ささに、つい笑ってしまったよ』
「なんだと……っ! ふざけるな、俺は本気だぞ!」
『わかっている。だからこそだ。ビジネスの提案をしてやろうと思って通信したのだ。五千万クレストなどというはした金を、警察に怯えながら受け取るリスクを負う必要はない。お前のような野心ある男には、もっと大きな舞台が相応しい』
通信機越しの声は、ゲーツのプライドと強欲さを的確に撫で上げた。
『お前に、二つの選択肢を与えよう』
『一つ。今すぐ私の部下がその廃工場に五千万クレストの現金を持っていく。お前はそれを受け取り、娘を置いて逃げるがいい。ただし、警察はすでに動いている。逃げ切れる確率は五分五分といったところだろう』
『二つ。お前がかつて農園で育てていた薬物。あれの栽培ノウハウを、我がシンジケートは高く評価している。そのエルフの娘を担保として、東区の埠頭にある我が組織の倉庫まで連れてこい。そこで娘を引き渡せば、お前を組織の幹部として迎え入れ、前金として「三億クレスト」と、国外へ高飛びできるプライベート船を用意してやろう』
「さ、三億……!?幹部……!?」
ゲーツの目が、欲望でギラリと濁った。
「私が用意した、安全な『選択』だ。どちらでも好きな方を選ぶがいい。お前の才覚を信じるなら、埠頭へ来い。……あなたの罪に、選択を……!」
通信がプツリと切れる。
廃工場に取り残されたゲーツは、ナイフを放り投げ、狂ったように笑い出した。
「はははっ!見ろよ!エルフ!俺の才能はようやく本物の裏社会に認められたんだ!俺はビッグになるんだ!行くぞ、お前は三億クレストの切符だ!」
ゲーツはアリシアの腕を乱暴に引っ張り上げ、埠頭へと向かうための地下水路のボートへと乗り込んだ。
一方その頃。
ラプラス家の温室では、ルミナリアが二杯目の紅茶を静かに口に運んでいた。
「……埠頭へ向かったようです、お嬢様」
「ゲームオーバー、ですわね」
ルミナリアは、美しく整えられた眉をわずかに動かし、ふっ、と冷たく笑った。
「小悪党であればあるほど、自らの才覚を過信し、必ず『簡単に儲かる方』を選ぶ。人間の強欲さとは、本当に計算しやすいものですわ」
「ええ。ゲーツが向かった東区の埠頭は……昨晩、王都警察の特務部隊が『違法薬物の大規模な摘発演習』のために貸し切っており、完全武装の警官隊が数百人規模で待機している隔離区画です」
ノアが淡々と事実を告げる。
「そこに、誘拐犯が現れる。彼は、自らの足で警察のど真ん中へ歩いていくのだから、抵抗する暇すら与えられないでしょう」
ルミナリアは、優雅にカップを置き、静かに目を閉じた。
彼女は、一滴の汗も流さず、一歩もこの温室から動くことなく、強欲な誘拐犯を自滅へと誘導し、最も愛する親友を無傷で救い出したのだ。
腕力など、なくても!
魔法の才能など、なくても!
絶対的な「知性」と、人間の本性を突き詰めた「悪の理論」さえあれば、この世界で、正義を成すことができる。
「お見事です、お嬢様。アリシア様は現在、無事に警察に保護され、ゲーツは抵抗する間もなく取り押さえられたとの報告が入りました。アリシア様は、警察の罠に偶然犯人が飛び込んだのだと思っているようです」
「結構ですわ。私が関わった痕跡は、すべて消去しておきなさい。……あの無垢なエルフの瞳に、私の影を映す必要はありません」
ルミナリアは、いつもと変わらぬ気怠げな表情で窓の外を見つめた。
その一部始終を、床に這いつくばるようにして見ていたシャルロッテは、全身が震えるほどの歓喜と畏怖に打ち震えていた。
(ああ……なんて、なんて恐ろしくて、美しい方……!)
シャルロッテの目に映るルミナリアは、紛れもない怪物だった。
人間の命も、警察という国家権力も、友人の死の危機すらも、すべてを自らのチェス盤の駒として扱い、冷酷な計算式で勝利を導き出す「悪魔」のような強さ。
しかし同時に、その絶大な悪意のすべてを、ただ一人の親友を守るという「善」のためだけに振るう、誇り高き「女神」の姿でもあった。
(こんなにも恐ろしい力をお持ちなのに……ルミナリア様は、わたくしにはその刃を向けない。わたくしをこの足元に置いて、飼い慣らしてくださっている……!)
シャルロッテは、熱い吐息を漏らしながら、ルミナリアのドレスの裾にそっと口付けをした。
もしルミナリアがその気になれば、シャルロッテなど指先一つで、アリほどの痕跡も残さずに社会から抹殺できるはずだ。それなのに、彼女はこのどうしようもない自分を「買い取り」、そばに置くことを許してくれている。
その事実が、シャルロッテの狂気じみた愛情に、さらに強烈な拍車をかけていた。
「ルミナリア様……。わたくし、ルミナリア様の元にいられて、生まれてきて本当に良かったです。ルミナリア様がその気になれば、わたくしなんていつでも壊せるのに……こんなに優しくしてくださるなんて……ああっ、愛しています、ルミナリア様……!」
頬を紅潮させてすり寄ってくるシャルロッテ。
ルミナリアは、その狂信的な熱視線を鬱陶しそうに受け流しながらも、ほんの少しだけ口角を上げた。
「馬鹿な娘。貴女を壊さないのは、貴女が玩具として、まだ利用価値があるからですわ」
「はいっ!ルミナリア様の玩具になれるなら、わたくし、なんでもいたしますっ!」
「…………」
悦びに打ち震えるメイドを見下ろしながら、ルミナリアは小さく息を吐いた。
この、どうしようもなく甘い香りを放つ厄介な小動物が、自分の足元でだけ安全に飼い慣らされているという事実は、ルミナリアの冷たい心を、不思議と心地よく満たしていた。




