救済3:発情メイドに懐かれる悪女!
シャンデリアの光が、王都の一等地にそびえるガルシア公爵邸の巨大な晩餐会場を気鬱に照らし出していた。
ラプラス家令嬢、ルミナリアは、窓際の特等席で銀のフォークをもてあそんでいた。血の通わない陶器のように白い指先。フリルをふんだんにあしらった純白のドレスは、華やかな社交界において、他者を寄せ付けない絶対的な結界のように機能している。
(……退屈ですわね)
ルミナリアは内心で小さく息を吐いた。
周囲の貴族たちは、今や飛ぶ鳥を落とす勢いを見せる新興貴族・ガルシア伯爵の機嫌を取ろうと、下劣な笑みを浮かべて群がっている。彼らは皆、生まれながらの特権に胡坐をかき、他人の痛みなど微塵も想像しない「無関心な悪の群れ」だ。ルミナリアにとって、そんな茶番を見せつけられるのは拷問に等しかった。
その時だった。
「ひゃっ……!?」
静まり返った広間で、エプロンドレスをまとった一人の新人メイドが、足元を滑らせた。
彼女が運んでいた銀のトレーの上にあったガラスのグラスが宙を舞い、ルミナリアの足元へと盛大に冷たいブドウ酒をぶちまけた。見事に、ルミナリアの真っ白なドレスの裾が、毒々しい赤色の染みに染め上げられる。
「あわわ……!す、すみません!わたくし、わざとじゃなくて、その……!」
メイドは恐怖で顔を青ざめ、床に崩れ落ちた。その幼い顔から大粒の涙が零れ落ちる。
会場の空気が凍りついた。ガルシア伯爵の顔から笑みが消え、目が怒りに歪む。
だが。
ルミナリアの視線は、赤く汚れたドレスの裾ではなく、そのメイドを睨みつけるガルシア伯爵の「目」に向けられていた。
目とは、人生の通信簿である!
苦労を知らない者の目は、どこか焦点が定まらずにつぶらで、ただの我が儘な子供のようである。
そして。私欲のために私腹を肥やし、悪略に長けた人間の目は違う。底知れぬ暗い欲望と、獲物を品定めするようなねっとりとした濁りが、その瞳の奥にこびりついている。
ガルシアの目が、怯えるメイドの身体のラインをいやらしく舐め回した。
(なるほど……)
ルミナリアは瞬時にすべてを察知した!
この新人メイド……シャルロッテと名乗るこの娘は、単なるドジな下働きなどではない。ガルシアが屋敷の裏で新しい「玩具」として手に入れたばかりの生贄だ。今夜のこの失敗を口実に、あの下劣な男は自室で彼女に凄まじい「お仕置き」を加えるつもりなのだ。
会場の視線が集中する中、ガルシアが忌々しそうに怒鳴り声をあげようとした瞬間、ルミナリアは優雅に、しかし、氷のように冷たい声音でそれを遮った。
「おや。不手際なこと、ですわね」
ルミナリアはスッと立ち上がり、汚れたドレスの裾を気にすることもなく、そのメイドの前に歩み寄った。そして、怯えて震えるシャルロッテのあごを、白百合のような指先で持ち上げた。
その瞬間、ルミナリアの鼻腔をくすぐったのは、ただの石鹸の香りではない。どこか湿った甘さと、退廃的な熱を帯びた、抗えないほど濃密なフェロモンだった。
(……やはり。これほど無防備に甘い香りを漂わせていれば、豚どもが群がるのも無理はありませんわね)
ルミナリアは目を細め、背筋が凍るような冷徹な笑みを浮かべたまま、ガルシア伯爵へと振り返った。
「伯爵。この不手際なメイド、我がラプラス家で買い取らせていただきますわ」
「はあ?……お嬢様、しかし、こいつは我が家の使用人で……」
「金額なら弾みます。フフフ……我が家の地下牢で徹底的に『教育』し直すには、これくらいの生贄がちょうどいいのですのよ。……まさか、私の申し出を断る気ですの?」
権力と財力の圧倒的な差。そして、ルミナリアの纏う底知れぬ狂気と威圧感に気圧され、ガルシアは脂汗をかきながら引きつった笑みを浮かべた。
「お気に召したのでしたら、どうぞご自由に……!」
こうして、シャルロッテはルミナリアの「所有物」として、その夜のうちにローゼンバーグ家へと連れ去られた。
それから数日。
ルミナリアの執務室の片隅で、シャルロッテは怯えた子犬のように震えながらも、その瞳には言いようのない熱を宿していた。
「ルミナリア様……わたくしを救い出してくださって……お金を出してまで、わたくしを買ってくださって……!」
「勘違いしないでちょうだい、シャルロッテ。貴女を救ったのではありません。ただ、私のドレスを汚したお仕置きとして、一生働かせるための買い上げですわ」
冷たく言い放つルミナリアに対し、シャルロッテはすっと異常なまでの近さまで歩み寄り、その頬が触れ合わんばかりの距離で囁いた。
「いいんです……。わたくし、ルミナリア様のためなら、どんな過酷な罰だって受けます。だってもう……わたくしの心も身体も、すべてルミナリア様のものなんですから……ふふっ、愛していますわ、ルミナリア様……」
その甘ったるく、狂気を孕んだ視線と、全身から漂う熱いフェロモンに、流石のルミナリアもわずかに眉をひそめた。
(……この娘、頭のネジが完全に外れていますわね。ですが……悪くはありませんわ)
孤独に生きる彼女にとって、この、圧倒的な全肯定は、心地よい毒となっていた。
その頃、ルミナリアの網には、ガルシア伯爵の悪事が完璧に網羅されていた。
彼は表向きは慈善家を装いながら、実際には身寄りのない孤児や貧しい家の子どもたちを「労働力」と偽って闇の人身売買組織に売り飛ばし、巨万の富を築いていたのだ。
「許しがたい、外道ですわね」
ルミナリアは冷ややかに呟き、いつもの通り完璧な「二重の罠」を仕掛けた。
まず、表舞台では、ルミナリアの親友であり、底抜けの善性の化身であるエルフのアリシアが、ガルシア伯爵の元を訪れていた。
「伯爵様、子どもたちを解放してあげてください。私の魔力ですべての負債を肩代わりしますから……!」と、アリシアは純粋な愛と救済を差し伸べていた。しかし、富と権力に溺れたガルシアは、「エルフの偽善者めが!」とアリシアを嘲笑い、追い返した。
一方、裏の盤面では。
ルミナリアは、ガルシアの強欲さを刺激する「架空の違法賭博・独占利権の案内状」を、ノアを通じて彼の元へ送り込んでいた。ガルシアがその罠に飛びつき、全財産を注ぎ込んで裏口座の資金を移動させた瞬間、経済ネットワークの罠が発動し、彼の資産は一瞬で没収、すべての悪事が王都警察のデータベースに直結する仕組みである。
ルミナリアは呟いた。
「さあ。あなたの罪に、選択を……」
計画は完璧だった。
ガルシアは自らの欲によって罠に飛びつき、明日にはすべてを失い、社会的抹殺を受けるはずだった。
だが!
その「完璧な計算式」を、身内の人間が盛大にぶち壊した。
「ルミナリア様っ……!!」
夜更け。執務室のドアを激しく叩き、シャルロッテが血相を変えて飛び込んできた。
「どうしましたの、シャルロッテ。そんなに大声を……」
「わ、わたくし、どうしても我慢できなくて……!あのガルシアが、ルミナリア様を侮辱したこと、どうしても許せなくて……!」
シャルロッテは、見覚えのある「帳簿の切れ端」を取り出した。それはガルシアが隠し持っていた人身売買の決定的証拠であり、ルミナリアが明日、警察に匿名で送り届けるはずの重要書類だった。
「なっ……!それは私の……!なぜ貴女がそれを!?」
「わたくし、こっそりガルシアの屋敷に忍び込んで、金庫から盗んできたんですっ!これを警察に突きつければ、あいつは一巻の終わりですわよね!?私、私は……ルミナリア様のお役に立ちたくて……わたくし、すごいでしょう!?」
ルミナリアは、持っていたティーカップを落としそうになり、人生で初めて「絶望」を覚えた。
(ばっ……馬鹿な娘……!!)
ルミナリアの計画では、ガルシアが自発的に「違法投資」に飛びつくのを、数日かけてじっくりと待つ予定だった。しかし、シャルロッテが勝手に屋敷に忍び込んで証拠を盗み出し、しかもそれを中途半端な形で王都のあちこちにばら撒こうとしている。
もしこのままでは、ルミナリアが仕掛けた「罠」のすべてが露呈し、警察の捜査が混乱、最悪の場合、ガルシアに証拠隠滅の時間を与えてしまう。
「シャルロッテ……!馬鹿な……!貴女、いったい、なんてことをしてくれましたの……!私の盤面が、全部めちゃくちゃですわ……!」
ルミナリアが珍しく青ざめ、声を荒げたその瞬間――。
「この泥棒猫めっ!」
ガルシアの屋敷の私兵たちが、シャルロッテの後を追ってラプラス家の庭園へと雪崩れ込んできた。シャルロッテが尾をつけられていたのだ。
ガルシア自身も血走った目で乗り込んでき、ルミナリアの執務室の窓を蹴破って怒鳴り散らした。
「ルミナリア・フォン・ラプラス!お前が俺の屋敷から盗人を使って証拠を盗み出したな! これで警察に駆け込む気か……ふざけるな、お前もまとめて消してやるっ!」
ガルシアは狂気に満ちた目で魔力銃を抜き、ルミナリアへと向けた。
完璧だったはずの計画が、たった一人の「バグ」の暴走によって、最悪の破滅を迎えようとしていた。
だが!
シャルロッテが勝手に盗み出し、ばら撒こうとした「致命的な証拠」。それは確かにルミナリアの計画を狂わせたが、同時に、ガルシアの「最後の逃げ道」を完全に塞ぐことにもなっていた。
ガルシアが証拠を取り戻そうとルミナリアを銃撃しようとしたその瞬間、庭園のバリケードの外から、カレル・オータム警部率いる王都警察が突入してきた。
「そこまでだ、ガルシア伯爵!」
実は、シャルロッテが屋敷に忍び込んだ際、ガルシアの側近が、慌てて警察に通報を入れていたのだ。
そして、警察が駆けつけたその場所には、銃を抜いて公爵令嬢のルミナリアを脅迫し、さらに足元には子どもたちの人身売買を示す決定的な帳簿をばら撒いているガルシアの姿があった。
言い逃れの余地など、残されていなかった。
「な……ばかな……っ!?なぜ警察が……っ!」
ガルシアは絶叫したが、次の瞬間、特務部隊の麻酔弾が彼の身体を撃ち抜き、その巨体は床へと崩れ落ちた。
「ふう……ゲームオーバー、ですわ……!」
静まり返った執務室。
ルミナリアは深々と息を吐き、ソファに深く腰掛け直した。心臓がうるさいほどに脈打っている。
計画は狂わされた。
だが。
シャルロッテのその予測不能な「バグ」こそが、結果的にガルシアに言い訳の余地を与えず、一瞬で地獄へと叩き落とす最強のジョーカーとして機能したのだ。
(……まさか、あの愚行が、私の計算すら超越した勝利をもたらすなんて……)
ルミナリアは、冷や汗を拭いながら、自分の足元で縮こまっているシャルロッテを見下ろした。
シャルロッテは「ご、ごめんなさい……お叱りを受けますわよね……」と大粒の涙を流しながら、ルミナリアのドレスの裾にしがみついている。
ルミナリアはゆっくりと目を細め、静かに息を吸い込んだ。
(この娘は、危険ですわ。使い方を間違えれば、私自身をも破滅させる諸刃の剣。……そして何より、これほど甘い香りと隙を漂わせる存在が、社会の底辺や貴族の群れに放り出されたら、悪の餌食になるのがオチですわね)
悪の善をなす、正義の悪女である私。
この世界から理不尽な害虫を駆除し、光を守るための泥水をすべて飲み干すと誓った私。
ならば!
「シャルロッテ」
「ひゃっ……はいっ!」
ルミナリアはしゃがみ込み、その細い指でシャルロッテの濡れた頬をそっと拭った。
そして、美しく、狂おしいまでに冷酷な微笑みを浮かべて告げる。
「貴女は、本当に手のかかる、救いようのないおバカさんですわね。私の美しい計算式を、めちゃくちゃに引っ掻き回してくれましたのよ」
「うっ……ごめんなさい、もう二度と……!」
「いいえ。許して差し上げますわ」
ルミナリアは、シャルロッテの体をそっと引き寄せ、その耳元に唇を寄せた。
「あの、悪の世界で、そんな甘い匂いをさせて生きていけるとは思わないことですの。貴女を汚していいのは、この世で私だけ……いいえ、誰にも渡しませんわ。今日から貴女は、私の檻の中で、永遠に……私のためだけに生きていただきますのよ」
「永遠に!?私を愛してくれる!?……ルミナリア様……っ!」
シャルロッテは歓喜と狂気に瞳を潤ませ、ルミナリアの首にしがみつき、その胸元に顔をうずめた。彼女の体から立ち上る甘いフェロモンが、ルミナリアの嗅覚を心地よく満たしていく。
今まさに、自分から食べられているこの娘は、心底から自分を愛してしまっている。
ルミナリアは、その圧倒的な独占欲と依存の重さに身を浸しながら、悪い気はしなかった、と小さく微笑んだ。
窓の外では、表舞台の光の中でアリシアが「また一つ、誰かを救えたね」と無邪気に微笑んでいる頃。
劇場の最前列、暗い影の特等席では、悪を喰らう死神と、その最も狂おしい忠犬が、静かに甘い毒の蜜を分かち合っていたのだった……!




