救済2:不発弾爆破!命を救う悪女!
ラプラス公爵家の書斎には、暖炉の火が静かに爆ぜる音だけが響いていた。
ルミナリア・フォン・ラプラスは、羽ペンを握る手を止めて小さく息を吐いた。ほんの数枚の書類に目を通しただけで、鉛のように体が重い。少し冷え込んだ夜の空気が、彼女の脆弱な肺には刃のように突き刺さる。
「……ノア。暖炉の火を強くしてちょうだい」
「かしこまりました。あまり室温を上げすぎますと、外気との差でまた発作が起きます。白湯をお持ちしましょう」
部屋の隅に控えていた執事のノアが、音もなく歩み寄り、薪を一つだけ追加した。その的確すぎる気遣いに内心で毒づきながら、ルミナリアは手元の書類……王都西区の地図と、ある貴族の資産状況が記された羊皮紙……を指で弾いた。
「エドレッド・ヴァイラル子爵。……本当に、プライドばかりが高い、愚かな若者ですわね」
書類の束には、新興派閥の筆頭としてラプラス家を目の敵にしているエルフの青年貴族、エドレッドの顔写真が添えられていた。
彼が先月、亡き父親から受け継いだのは、由緒正しき爵位と広大な屋敷。そして、王都を吹き飛ばしかねない、絶望的な『負の遺産』だった。
「調査の通りでした。子爵邸の地下、封印された隠し蔵の中に、大戦期に製造が禁止された違法魔力爆弾が三基、手付かずのまま眠っています」
「軍の監視の目を盗み、祖父の代が密造していた兵器の売れ残り……。安定術式はとうの昔に限界を迎え、もはやいつ暴発してもおかしくないスクラップですわ」
法は絶対だ。違法な兵器の存在を警察や軍に『通報』すれば、不法所持の罰則と、特殊防護部隊による莫大な解体・撤去費用が請求される。その額、およそ五十億ゴルド。
エドレッドの全財産を売り払っても到底足りない。彼は破産し、爵位は剥奪され、一族の名誉は泥に塗れる。
「王都法には、一つだけ抜け穴があります。所有者が自らの手で警察署の窓口まで『持ち込み』、自主的に提出した場合に限り、国家への貢献とみなされ、すべての費用と罪が免除される」
「ええ。だからあの愚か者は、今夜、屋敷の馬車に爆弾を積み込み、警察署へ捨てに行こうとしている」
ルミナリアは白湯の入ったカップを両手で包み込み、冷えた指先を温めた。
「素人が、爆弾を馬車に積んで、王都の石畳を走らせる。……車輪が石の段差を乗り越えた瞬間の振動で、エドレッドの体はおろか、半径三キロの市街地が灰塵に帰しますわ」
ルミナリアが彼を放置すれば、数万の市民が死ぬ。
そして何より、エドレッドはまだ、誰のことも搾取していない、善人なのだ。親の罪をいきなり背負わされ、パニックに陥り、家名を守ろうと必死に足掻いているだけの、哀れな子羊に過ぎない。
「……今日の昼下がり、アリシア様が彼のもとを訪ねたそうです」
ノアの静かな報告に、ルミナリアの指先がピクリと動いた。
「アリシアが?なぜですの」
「エドレッド子爵は、アリシア様の遠縁にあたるそうです。親戚として、最近屋敷に引きこもりがちな彼を心配し、声をかけに行ったと」
ルミナリアの脳裏に、あのエルフの親友の底抜けに優しい笑顔が浮かんだ。彼女はきっと、恐怖で顔を引きつらせる彼に「私にできることがあったら手伝うよ」と無償の愛を差し伸べたのだろう。
「エドレッドの返答は?」
「『エルフ風情が、由緒正しき子爵家に首を突っ込むな』と。門前払いです。彼は一族の恥部を誰にも知られたくなかったのでしょう」
「……馬鹿な。その手を握っていれば、少しは心が救われたでしょうに」
ルミナリアは深く溜息をつき、カップを置いた。
アリシアの善意を、自らの見栄と傲慢さで跳ね除けた男。もし彼がこのまま自爆して死ねば、アリシアは「親戚を救えなかった」と、美しい瞳から涙を流すだろう。
それだけは、ルミナリアの誇りが絶対に許さなかった。
「盤面を、回しなさい」
「通報、いたしますか?」
「いいえ。あの男には、這いつくばってでも生きて、自分の足で警察に『助けてくれ』と泣きついてもらいます。彼が死の馬車に乗る前に、退路をすべて塞ぎなさい」
エドレッドは、ルミナリアを敵視している。だが、親の罪は子の罪ではない。彼が死ぬ理由もなければ、アリシアを悲しませる理由もない。
これは、見えない死神による、最も冷酷で、最も強引な「救済」だった。
深夜二時。
エドレッド子爵邸の地下室は、古びた鉄が焦げるような異臭に満ちていた。
冷たい石造りの床の上で、エドレッドは脂汗にまみれながら、黒光りする巨大な爆弾を、台車に縛り付けていた。
「なぜ私が、こんな目に……!」
彼は血が滲むほど唇を噛み締めながら、震える手でロープを結ぶ。
警察に通報すれば五十億ゴルドの請求。子爵家は消滅する。だが、これを自力で警察署の裏口に捨ててくれば、すべては闇に葬られる。
「よし、これを馬車に積んで……」
エドレッドが台車を押そうと力を込めた、その瞬間だった。
薄暗い地下室の壁に取り付けられた古い通話管から、氷のように冷たい女の声が響いた。
『その台車を一歩でも動かせば、貴方は死にますわよ、エドレッド子爵』
「誰だ!!」
エドレッドは飛び退き、懐から護身用の魔導拳銃を抜いて周囲を睨みつけた。しかし、声は魔力通信を通じて、部屋全体から響いている。
『貴方の先祖が遺したその玩具、術式が完全に腐り落ちていますの。屋敷の外の石畳を馬車で転がせば、三分後には王都の夜空に美しい火柱が立ち上がることでしょう。もちろん、貴方の身体は塵一つ残りませんわ』
「貴様何者だ!なぜこの爆弾のことを!」
『名乗るほどの者ではありませんわ。ただの、観劇の愛好家です』
ルミナリアの声は、どこまでも優雅で、残酷だった。
『さあ、子爵。窓の外をご覧なさい』
エドレッドが地下室の小窓から外を覗き込むと、信じられない光景が広がっていた。
屋敷から王都の中心部へと続く大通り。そこがすべて、巨大な工事車両とバリケードで完全封鎖されていたのだ。
さらに、裏口へと続く細い路地には、王都警察の提灯が煌々と揺れている。王都警察のカレル警部の部隊が、なぜかこのタイミングで「大規模な密輸品の抜き打ち検問」を行っていた。
「な、なんだこれは……!どうなっている!」
『少し前に、警察へタレコミを入れておきましたの。貴方の屋敷の裏手で、大規模な密輸取引が行われる可能性がある、と。……道はすべて塞ぎましたわ。貴方の馬車が通れる隙間は、蟻一匹分もありませんの』
エドレッドは膝から崩れ落ちた。
完全に退路を断たれた。馬車を出すことは物理的に不可能。かといって強行突破しようとすれば、検問の警官たちに爆弾を見られ、その場で撃ち殺されるか、段差の振動で爆死するかの二択。
『貴方には、二つの道が残されています。一つ、このまま爆弾と共に自爆し、誇り高き子爵家の名と共に灰になる道。二つ、今すぐ警察に通報し、爆弾処理班を呼ぶ道。』
「ふっざけるな!!」
エドレッドは血走った目で叫んだ。
「通報すれば、五十億の借金を背負う!爵位は剥奪され、私はすべてを失うんだぞ!」
『ええ、すべてを失いますわ。見栄も、財産も、何一つ残らない。惨めな生活が待っているでしょう』
ルミナリアの声が、絶対零度の刃となってエドレッドの胸を突き刺す。
『でも。命だけは。……命だけは、残りますわ。簡単なことです。見栄で人は生きられません。しかし、命があるから、人は生きられるのです。……昼間、貴方を心配して訪ねてきたエルフの少女を、悲しませずに済みますのよ』
「な、ぜ……お前が、アリシアのことを……」
『さあ。貴方の罪に、選択を』
「あぁぁっ……!」
エドレッドは頭を抱え、床に転げ回った。
先ほど、アリシアが差し伸べてくれた温かい手を拒絶した自分。親戚としての優しさを、傲慢なプライドで跳ね除けた自分。その結果が、見えない死神に退路を断たれ、暗い地下室で命乞いをするこの惨めな姿だ。
生きたい!
どれだけ財産を失っても、名誉を奪われても!
泥水をすすってでも、生きたい!
エドレッドは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、震える手で壁の緊急通報用の魔力管を掴み、ダイヤルを回した。
「け、警察か……!助けてくれ!屋敷の地下に爆弾がある!早く、早く処理班を呼んでくれぇぇっ!!」
泣き叫ぶエドレッドの声を聞き届けた瞬間。
遠く離れたラプラス家の執務室で、ルミナリアは静かに魔力通信機を切った。
「ゲームオーバー、ですわ」
翌朝。
朝刊の第一面には、エドレッド子爵の違法兵器所持による現行犯逮捕と、子爵家の取り潰し、そして五十億クレストの賠償命令のニュースが踊っていた。
「お嬢様。処理班の迅速な対応により、爆弾は無事に解体されました。エドレッドはすべてを失いましたが、命は無事です」
報告するノアに対し、ルミナリアは無言で一枚の小切手にサインをし、彼に差し出した。
そこに記された額は、五十億クレスト。ラプラス家の資産から見れば痛くも痒くもないが、一人の人間の人生を買い戻すには十分すぎる金額。
「これを、匿名で、国家の賠償金支払い窓口へ送金しなさい。対象者は、エドレッド・ヴェリタス」
ノアは小切手を受け取り、ほんの少しだけ眉を動かした。
「よろしいのですか?彼は、お嬢様を、ラプラス家をひどく憎んでいた男です。その借金を、全額肩代わりするなど」
「勘違いしないでちょうだい、ノア。私は彼を許したわけではありませんわ」
ルミナリアは窓の外、青空が広がり始めた王都の街並みを見下ろした。
「彼の一族が犯した罪は万死に値する。けれど、親の罪は、子の罪ではない。彼自身が手を汚していない以上、彼が死ぬ理由も、人生を潰される理由もありませんの。……それに」
ルミナリアは、優しく、そして、どこか寂しげな笑みを浮かべた。
「あのエルフが、遠縁の親戚が路頭に迷うのを知れば、自分のご飯を抜いてでも彼を養おうとするでしょう?彼女の美しい手は、孤児たちを撫でるためだけにあればいい。あなたが背負った泥水は、私がすべて飲み干して差し上げますわ」
数日後。
ラプラス家の広大な庭園にて。
春の陽光が降り注ぐ中、ルミナリアはパラソルの下で優雅にマカロンをつまんでいた。
「ルミ、聞いて!すごいことがあったの!」
息を弾ませて庭園を駆けてきたのは、親友のアリシアだった。
エルフの耳を揺らしながら、彼女は向かいの席に座るなり、目をキラキラと輝かせた。
「私の遠縁の親戚で、エドレッドっていう人がいたんだけどね。彼、お家騒動で爵位も、財産も、全部なくなっちゃったらしいの。私、心配で様子を見に行ったんだけど……」
アリシアは嬉しそうに身を乗り出し、ルミナリアの手を握った。
「彼、なんだか……すごく、スッキリした顔をしてたの!聞いたら、彼が背負うはずだった莫大な借金を、名前も知らない誰かが、全額肩代わりしてくれたんだって!彼、今は小さなパン屋で住み込みで働いてるんだけど、すごく優しく笑ってたの!」
「……それは、随分と数奇な運命ですこと」
ルミナリアは、握られた手の温かさに内心で動揺しながらも、表情を一切崩さずに微笑んだ。
「私、彼が冷たい人だと思ってた。でもね、彼、私に頭を下げてくれたの。『あの時は冷たくしてすまなかった。俺は、生きていてよかった』って。……ルミ、世の中にはね、本当に女神様みたいな人がいるんだよ。誰かが、彼を地獄から救ってくれたの!」
アリシアの言葉には、一片の疑いもない純粋な喜びと、人間の善意への絶対的な信頼が溢れていた。
彼女は知らない。その「女神様」が、いま、目の前で虚弱な身体を持て余し、貴族の令嬢として優雅にお茶を飲んでいる親友であることなど。
彼女は知らない。その神様が、エドレッドを完膚なきまでに追い詰め、恐怖のどん底に叩き落として「選択」を強制した、非情な死神であることなど。
(……きっとその神様は、貴女のそのお人好しな笑顔を守るためだけに、五十億もの大金をドブに捨てたのでしょうね)
ルミナリアは、アリシアの手をそっと握り返し、誰にも聞こえない声で心の中で呟いた。
(愛だけでは、誰も救えませんわ。貴女の善意は、時に無力で、残酷な現実の前では何の役にも立たない偽善にすぎない。……けれども)
風が吹き抜け、庭園の白百合が揺れる。
アリシアの眩しすぎる笑顔を真正面から受け止めながら、ルミナリアは、自らの胸の奥が、ひどく……締め付けられるのを感じていた。
(……貴女の偽善が、光が、私の世界をどれほど温めていることか。ええ……本当に、貴女のことが、反吐が出るほど……愛おしいですわ)
誰も彼女に感謝しない。誰も彼女の正義を知らない。
それでも、この天才的な頭脳と、病弱な身体の命数が尽きるまで。
ルミナリア・フォン・ラプラスは、今日も劇場の最前列で、光を守るための完璧な罠を紡ぎ続けるのだ。




