救済4:過去たちよさらば!優しき日々に別れを告げる悪女!
雨の音が、暗闇のなかで延々と響いていた。
ラプラス邸の自室のベッドで、ルミナリア・フォン・ラプラスは一人、天井を見つめていた。
・・・・・・・・・・
──半年前。
「お嬢様、大変ですわ!!」
半年前の、良く晴れた午後のことだった。
ラプラス公爵邸のサンルームで、優雅に紅茶を楽しんでいたルミナリアの元へ騒々しい足音が近づいてきた。
扉を開けて飛び込んできたのは、ラプラス家に採用されてまだ日の浅い新人従者、シャルロッテだった。
「大変です!ミルティが行方不明です!」
ミルティとは、ラプラス邸で飼われている白猫のことだ。ルミナリアが幼少期の頃から、ずっと彼女の膝の上で温もりを与えてくれていた、大切な愛猫であった。
ルミナリアはティーカップをピタリと止め、ゆっくりと視線を巡らせた。
対面に座っていたエルフの少女のアリシアが、困ったように眉を下げて苦笑する。
「シャルロッテ、落ち着いて。ミルティなら、いつものようにベンチで寝ているんじゃないの?」
「ちがいます、アリシア様!私は今朝から邸内を三周探し回りましたが、ミルティの声も、姿も、匂いもありません!これは間違いなく、『猫誘拐事件』ですよ!」
「……なんですって?」
それまで静観していたルミナリアの顔色が、すっと青ざめた。
「ルミ、落ち着いて。たぶん……ただのお散歩よ!」
アリシアが慌ててルミナリアの肩を抱きかかえる。
その時、サンルームの扉が静かに開かれ、従者ノアが、洗練された動作でワゴンを押しながら入ってきた。
「シャルロッテ、騒がしいですよ。お嬢様の心臓に障ります」
「ノア!ミルティがさらわれたんですよ!」
「ミルティ様が、ですか。確かに。中庭の専用クッションが空になっておりましたね。……お嬢様、いかがなさいますか?」
ルミナリアは、アリシアに支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。
「……決まっていますわ。我がラプラス家に愚かな挑戦状を突きつけた不届き者に、冷酷なる知恵の鉄槌を下します」
こうして「ラプラス邸・猫誘拐事件」の捜査が開始されたのだった。
「さて、まずは捜査の基本……目撃情報と現場の状況証拠の収集ですわ」
ラプラス邸の広大な図書室。巨大な作戦卓の上に館の平面図を広げ、ルミナリアは立ち尽くしていた。
「私に任せてください!」
シャルロッテが胸を張った。
「私の直感が言ってる!犯人は……甘い匂いと、石灰の匂いがする奴!そして、昨日から今日にかけてマグロ缶の在庫が『二個』減っている!これは絶対に、ミルティを誘惑して連れ去るための餌として使われたんだわ!」
「甘い匂いと石灰、そしてマグロ缶……?」
アリシアは顎に手を当て、思考の海へと潜り込んだ。
「シャルロッテさんの直感、あながち間違いじゃないかもしれないわ。……ノア、昨日から今日にかけて、邸宅に入った新しい石灰の納入業者の記録はある?」
「ございます、アリシア様。庭園の土壌改良のため、昨日の午前中に石灰が搬入されました。ですが、業者は作業終了後、速やかに退出しております」
「じゃあ、外部の人間じゃない……。でも、石灰の匂いが残る場所に最近出入りし、なおかつマグロ缶を持ち出せる人物……」
アリシアは館の構造図を指差した。
「見て、ルミ。3階で石灰の袋が一時保管されていたわ。そして、今日の早朝、ミルティの毛が3階の廊下のカーペットに落ちていた。外部からの侵入者の形跡がゼロなら……犯人は『3階の清掃を担当している内部の人間』よ!」
「さすがですわ、アリシア」
ルミナリアは満足そうに頷いた。
「ノア。犯人の絞り込みと、追い詰め方の策は?」
問いかけられたノアは、完璧な従者としての笑みを崩さないまま、胸ポケットから一冊のメモ帳を取り出した。
「お嬢様。手配は完了しております。該当する人物の行動パターンを割り出しました。犯人は現在、ミルティ様を伴って、人目のつかない『旧館の地下保管庫』に潜伏している可能性が高いです」
「なっ……もうそこまで分かってるの!?」
アリシアが驚愕する。ノアは涼しい顔で続けた。
「ええ。ですが、無理に踏み込めば、追い詰められた犯人がミルティ様を盾にするリスクがございます。そこで私は、機転を利かせまして……館の空調ダクトの空気の流れを操作いたしました」
ノアが掲げたのは、小瓶に入った特製のオイルだった。
「これは、ミルティ様が最も好む『焼き魚』の香りです。これを空調を通じて旧館の地下保管庫へ集中的に送り込みました。……猫という生き物は、誘惑には勝てません。今頃、犯人の腕の中から抜け出し、扉のすぐ近くまで移動しているはずです」
「素晴らしい機転ですわ、ノア!行きましょう。我が愛しきミルティを取り戻し、愚かな犯人に罪の重さを教え込んでやりますわ!」
「……ルミ、お願いだから乱暴なことはしないでね!?」
心配そうについてくるアリシアを従え、四人は薄暗い旧館の地下へと向かった。
重々しい鉄製の扉の前。
地下保管庫の周囲は静まり返っていたが、扉の隙間から、かすかに「おうん?」という幸せそうな猫の喉鳴りの音が漏れていた。
「中にいますわね……」
ルミナリアは日傘を床についた。
ノアが鍵を開け、ゆっくりと扉を押し開ける。
部屋の中は薄暗く、積まれた木箱の影に、何者かの人影が縮こまっているのが見えた。
その影は、震える手で白猫、ミルティを抱きしめていた。
「そこまでですわ、誘拐犯」
ルミナリアは、凛とした声を響かせた。
「ひっ……!?お、お嬢様……!?」
影が悲痛な悲鳴を上げた。
「あなたには今、人生で最も重要な『二つの選択』を与えますわ。……どちらを選ぶか、慎重に吟味なさることね」
ルミナリアは細い指を二本、すっと立てた。
「一つ目の選択。今すぐその手にあるミルティを引き渡し、大人しく投降すること。その場合、あなたには向こう一年間、毎朝私のために完璧な温度で紅茶を淹れ続けるという労働刑が言い渡されますわ」
「じ、地獄の労働……!?」
「そして、二つ目の選択」
ルミナリアの笑みが、いっそう深くなった。悪魔的な二択の後半だ。
「このまま拒絶し、抵抗を試みること。その場合……私はこの頭脳のすべてを使い、あなたの今後の人生における『ありとあらゆる不幸な確率』を最大限に跳ね上げます。あなたが歩く道には必ず滑りやすい小石が転がり、買うパンはすべて焦げており、タンスの角に小指をぶつける確率も上がる。……さあ。あなたの罪に、選択を」
地獄の労働刑か、人生のあらゆる確率が最悪になる呪いか。
「ちょっとルミ!二択目の選択、地味に嫌すぎるでしょ!?」
アリシアが耐えかねて叫んだ。
すると、暗闇の中から、耐えかねたように「うわああああん!」と大きな泣き声が響き渡った。
「ごめんなさいいぃぃぃっ!許してくださいお嬢様ぁぁぁっ!」
木箱の影から飛び出してきたのは、一人の少女だった。
着ているのは、ラプラス家の新人メイドの制服。
最近採用されたばかりの……メイドのミーナだった。
「ひいっ、殺さないでください!小指は痛いですぅぅぅっ!」
ミーナは床に正座し、頭を何度も擦り付けた。
「……あら?」
ルミナリアは首をかしげた。
「あなたが……誘拐犯ですの?なぜこんな地下にミルティを隠していたのですか?」
「違います!誘拐なんてしていません!誤解ですぅぅぅっ!」
ミーナは泣き叫びながら、腕の中の白猫を掲げた。
「私……昔から大の猫好きで……!でも、ラプラス家でお給料をいただくようになって、お嬢様の大事な愛猫ちゃんに触るなんて恐れ多くて、ずっと遠くから見てるだけだったんです!」
「……それがなぜ、このようなことに?」
アリシアが優しく尋ねる。ミーナはぐすっと鼻を鳴らしながら告白した。
「昨日……実家から送られてきたお守りをポケットに入れて庭を掃除していたら……ミルティちゃんが『ホウン』って言って寄ってきて……!お守りの中を見たらマタタビが入っていて……。私のスカートに体を擦り付けて離れなくなっちゃったんです!」
「……え?」
「私、お嬢様の猫ちゃんを連れ回してたらクビになっちゃうと思って、自分の部屋に逃げたんです!でも、部屋のドアを開けたらミルティちゃんが勝手に部屋に入ってきて、私のベッドで丸くなって寝ちゃって……! 追い出そうとしても『おおん』って甘えてきて……離れてくれなくて……!」
ミーナは絶望的な表情で両手を挙げた。
「誘拐したんじゃありません!ミルティちゃんが勝手に私についてきただけなんです!!」
地下室に、深い静寂が訪れた。
ルミナリア、アリシア、シャルロッテ、ノアの四人は、呆然とミーナと、彼女の膝の上で「オウンオ(寝ているんだから、静かにしてくれ給え)」と気持ちよさそうに喉を鳴らすミルティを見つめた。
事件など、最初から起きていなかったのだ。
ただの「猫好き新人メイド」と、「気まぐれな白猫」による、平和すぎるすれ違い劇。
ミルティが呟く。
「……ニャオンオウア(お前たちもはやく寝ろよ)」
ミルティは、ミーナの手をペロペロと舐め、すっかりミーナに心を開ききっている様子だった。
「……ぷっ」
沈黙を破ったのは、アリシアだった。
アリシアは口元を押さえ、肩を震わせ始めた。
「なにそれ!誘拐事件じゃなくて、ただのミルティのストーカー事件じゃないの!」
「勘は、大外れだったのね……」
シャルロッテがガックリと首を垂れる。
ノアもまた、ふっと口元を緩めた。
「……私の罠も、ただの猫の散歩の手助けになってしまったようですね」
そして、ルミナリアは。
自らがいかに無駄な頭脳を使い、どれほど大大袈裟な「悪魔的二択」を突きつけてしまったかを悟り、ぽっと頬を赤く染めた。
「あ、あまりにも紛らわしい行動をするからですわよ、ミーナ!」
「申し訳ございませぬぅぅぅっ!」
「……ですが、ミルティが無事で……本当によかったですわ」
その笑みは、心から温かく、愛に満ちた令嬢の素顔だった。
四人と一匹の笑い声が、薄暗い地下室いっぱいに広響き渡っていった。
四人は、どこまでも続く青空を見上げていた。
そこには確かに、誰もが信じて疑わなかった、永遠の友情と幸せが……存在していたのだ。
──雨の音が、再び激しさを増した。
ルミナリアは目を開けた。
天井の模様は、半年前と同じラプラス邸の自室のものだ。
だが。
あの温かな日差しは、もう、どこにもなかった。
メイドのミーナは、あれから程なくして、自主退職した。
ラプラス邸は、死神確保を目指す警官たちの冷たい捜査本部となった。その最前線に立つのは冷ややかな、慈愛のエルフ、アリシア。
アリシアに協力しつつ、正義を冷笑し、情報を死神に横流しする裏切り者は、従者のノアとシャルロッテ。
死神とは、私──ルミナリア・フォン・ラプラス。
「……ふふ」
ルミナリアの口から、乾いた声が漏れた。
(……ミルティを譲っておいて……本当によかったですわ……)
もし、ミルティが今もこの館にいたなら。
血の匂いを纏い、冷酷な怪物へと成り果てた今のルミナリアの膝の上には、二度と乗ってくれなかっただろう。
ミーナのもとへ去った猫だけが、あの平和で温かかった「ラプラス邸の幸福」を抱えたまま、綺麗な世界で生きている。
自分たちだけが、正義の「地獄」に取り残されてしまった。
ルミナリアは、冷たくなった両手で顔を覆った。
指の隙間から溢れ出た一滴の涙が、暗闇の中に消えていく。
二度と戻らない、あの日々。
冷血の「仮面」を被り、ふたたび孤独を歩み始めた死神は、静かに、誰にも聞こえない咽び泣きを雨音の中に溶かしていった………………。




