救済3:超越した母性!真の死神に遭う悪女!
その日の午後、ルミナリアは、書斎で魔導省の決算報告書に目を通していた。
静寂に包まれた部屋。かすかに香るダージリンティーの湯気。いつも通りの、完全にコントロールされた日常。
しかし、異変は前触れもなく訪れた!
『あぁぁぁぁぁぁぁっ!!』
突如として、ルミナリアの脳内に「それ」が映し出された。
凄惨な悲鳴。
視界が赤のノイズに支配される。
冷たい鉄、重い鎖の音、皮膚を焼く焦げる音、そして、鉄錆と血の混じった悪臭。
「はっ……!?……っ!」
ルミナリアは弾かれたように椅子から立ち上がり、胸を強く押さえて床に崩れ落ちた!
呼吸が乱れる!
冷や汗が全身から噴き出し、縦ロールの金髪が乱れた!
(……何!?未来のビジョン?それとも……私の末路?)
心臓が早鐘のように打つ。
確かなことが一つだけあった。それは、「気のせいなどではない」……ということ。
敵が、近くにいる!
この平穏な日常のすぐ裏側で、底知れぬ悪意を持った何者かが、確実にルミナリアの首元に刃を突き立てようと狙っている。その冷酷な殺気を、彼女の直感が、警鐘として鳴らしたのだ。
「……シャルロッテ」
ルミナリアが低く呼ぶと、部屋の影から狂犬メイドが音もなく姿を現した。
「いかがなさいましたか、ルミナリア様。顔色が……」
「……私に『認識阻害』の魔法をかけなさい。今すぐです」
「つまり、どこかへ行かれるおつもりで……」
「下町よ。なんでもないわ。少し、頭を冷やしてくるだけよ」
ルミナリアの瞳には、見えない敵への焦燥と、己の足元が揺らぐような強烈な不安が渦巻いていた。
シャルロッテは主のただならぬ気配を察し、何も問わずに黒い魔力でルミナリアの存在を世界から切り離した。
夕暮れ時。
王都の下町は、スモッグと喧騒に包まれていた。肉を焼く煙、労働者たちの怒声、泥水を跳ね上げる馬車の音。
無菌室で育った公爵令嬢が、一人で立ち入るべき場所ではない。
だが、不可視の魔法に守られたルミナリアは、誰にもぶつからず、誰にも認識されることなく、路地裏の片隅にある古びた商店の前に立っていた。
彼女の手には、ガラス瓶に入ったドラゴン印の黒い液体──『ダイノ・コーラ』が握られていた。
商店の店先から……もちろん代金は置いて、黙って持ち出したものだ。
ルミナリアにとって、ジャンクな飲み物を口にすることなど、最大の不良行為であり、徹底的な背徳であった。
「……」
ルミナリアは震える手で王冠を開け、瓶の口に唇をつけた。
気泡が弾け、喉の奥に鋭い痛みが走る。
「……っ、痛い……けれど、甘いですわね」
毒々しいほどの甘さと、喉を刺す炭酸の刺激。
それは今のルミナリアの心境そのものだった。
壁に背を預け、誰にも見られていないという絶対的な安全圏の中で、ルミナリアは自らの内面へと深く沈み込んでいった。
(私は、悪を倒したいと言っている。警察が裁けない悪を、この天才的な頭脳で破滅させ、弱者を救う『死神』として……)
だが、本当にそうなのか?
先ほどの拷問のビジョン。得体の知れない殺気。
(私が本当に倒したいのは、世界の悪なんかじゃない。……私自身の内に巣食う『悪』なのではないか? それとも……)
冷たいコーラを飲み込みながら、ルミナリアは己の原動力を疑い始めた。
私は、ただの正義感で動いているわけではない。私を、ここまで「悪を倒さなければならない」という強迫観念に陥れ、狂わせた『何者か』がいるのではないか。
あのビジョンにいたのは、誰だ?
私を縛り付け、私からすべてを奪おうとした者は……?
その時だった。
「あらあら。そんなところで一人でジュースを飲んでいたら、お腹を冷やしますわよ?」
「っ!?」
不意に投げかけられた、ひどく甘く、母性に満ちた声。
ルミナリアは咄嗟に身構え、声のした方向を睨みつけた。
誰も自分を認識できないはずの不可視の魔法。しかし、路地の入り口に立つその女は、間違いなくルミナリアの目を見つめ、微笑んでいた。
西日を背に受けて立つその女は、異様なほどの存在感を放っていた。
美しい褐色肌。夕暮れの光に透けるような、長い銀髪。豊満な胸と、包み込むような柔らかな微笑み。
年齢は二十歳そこそこといったところだろうか。
だが、その内側からあふれ出す魔力は、圧倒的だった。
「大丈夫よぉ、怖がらないでねぇ。お姉さんは怪しい者じゃありませんわ。うふふ、よしよし……」
女は、まるで迷子の子猫をあやすような、おっとりとした口調で近づいてきた。
ルミナリアは後ずさろうとしたが、足が動かなかった。
恐怖ではない。圧倒されたのだ。
この褐色の女の背後には、言葉では表現しきれないほどの『壮絶な過去』が見えた。
かつて底なしの絶望を経験し、自らも深い悪の泥濘に沈み、そこから這い上がり、やがて、すべてを許容する究極の『善』と『愛』に目覚めた者だけが持つ、神々しいまでのオーラ。
(この人は……味方だ!)
ルミナリアの天才的な直感が、一瞬でそう断定した。
敵意は微塵もない。むしろ、その女から発せられる魔力は、ルミナリアの冷え切った心を温かい毛布でくるんでくれるような、絶対的な安心感を持っていた。
「で……誰ですの?」
ルミナリアが警戒を解ききれずに尋ねると、女は優しく目を細めた。
「誰でもいいじゃあ、ないの。……そんなに警戒して。……もっと肩の力を抜いて、ね?……さて、可愛いお嬢さん」
女は、ルミナリアの持っていたコーラの瓶をそっと指先で撫でた。
「『正義の味方』みたいな顔をして、悪い子たちをやっつけるのは、気持ちがいいことよねぇ。わかるわぁ」
そのおっとりとした声は、しかし、次の一言で鋭い刃となってルミナリアの魂を抉った。
「でもね。自分が『何か』になりたいからって、他人の悪を生贄にして裁いていたら……そりゃあ恨まれるし、いつか自分も不幸になっちゃうわよぉ」
「!」
ルミナリアは息を呑んだ。
図星だった。弱者を救うという名目の裏で、ルミナリアは「悪を支配し、見下す」ことで自身の全能感を満たしていた。他者の悪意を利用し、ゲーム盤の駒として破滅させる。それは確かに、他者を生贄にする行為だった。
「わ、私を愚弄しますの!? 私はただ……!」
「無理、しなくていいのよ」
女は、反発するルミナリアの頭を、まるで幼子を撫でるように優しく撫でた。
「あなたが本当に倒したい敵は、世界の悪なんかじゃないわ。……あなたを、そこまで『悪を憎み、裁かなければならない』と思い込ませるほどに、あなたの心を狂わせた、たった一つの『何か』……でしょう?」
女の慈愛に満ちた瞳が、ルミナリアの最も触れられたくない最深部を覗き込んでいた。
(狂わせた、たった一つの、何か……?)
ルミナリアの脳裏に、先ほどの拷問のビジョンがよぎる。
「……っ、違いますわ!私は、私の意志で……!」
ルミナリアは耳を塞ぎ、全力でその思考を拒絶した。
もしそれを認めてしまえば、自分の正義の根幹が崩れ去ってしまうからだ。
「悪のやり方を続けていたら、いずれあなた自身が、悪に飲み込まれてしまうわ。お姉さん、なんだか、あなたのことが心配だわ……」
女は、悲しそうに眉を下ろした。
だが、ルミナリアは強く首を振り、顔を上げた。
恐怖と動揺に震えていた足に力を込め、不敵な笑みを浮かべてみせる。
「ご忠告感謝いたしますわ。ですが……私は、やり方を曲げるつもりはありません。もし悪に飲み込まれそうになるのなら、その悪すらも、完全に支配してみせます。私はこれからも、『善の悪女』であり続けますわ」
それは、後戻りできない道への決意表明だった。
ルミナリアの瞳に宿る決して折れない傲慢な光を見て、女は小さく溜息をつき、やがて優しく微笑んだ。
「そう……。でも、そういう不器用なところ、嫌いじゃないわ。よしよし」
女はルミナリアの頬をそっと撫でると、身を翻して夕闇の路地裏へと歩き出した。
その背中を見送りながら、ルミナリアは安堵の息を吐き出そうとした。
しかし、女は路地の角を曲がる直前で、ふと立ち止まり、振り返った。
「そういえば。うちの『アリシアちゃん』とは、仲良くしてくれているかしらぁ?」
「……え?」
ルミナリアの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
アリシア。
アリシア・ヴェリタス。
目の前にいる女は、圧倒的な魔力を持つ。
ルミナリアは、女から放たれる魔力を視た。
それは、大賢者エラーラ・ヴェリタスと瓜二つの輝きだった。
点と点が、ルミナリアの天才的な脳内で強烈なスパークを上げて繋がった!
「あなたは……まさか、アリシアの……義理の姉の……!?」
ルミナリアが叫んだ時には、すでに路地裏に女──ヘレナ・ヴェリタスの姿はなかった。
ただ、夕風に乗って、甘く優しい残り香だけが漂っている。
ルミナリアは、温くなったコーラの瓶を強く握りしめた。




