救済8:俺はもう会社を辞める!死人を再雇用する悪女!
「や、本当、すまないね。でもまあ、規則だから」
社長は心底申し訳なさそうな、温かい顔で言った。
胃が、痛かった。
魔導技研開発主任のキタムラは、目の前の申請書を見つめていた。
事務所を見渡せば、総務も、係長も、部長も、全員が……純粋な、信頼と善意の眼差しを向けている。
悪意は、この部屋のどこにも存在しなかった。
だからこそ、キタムラは発狂しそうだった!
「……社長。もう一度だけ、申し上げます」
キタムラは乾ききった唇を開いた。
「今週の金曜日は、マシンの図面を工場へ持ち込み、現場の技師長とすり合わせを行う日です。そして、翌日の土曜日ですが、その日に、展示会にて、私が……私が登壇して、そのマシンのプレゼンを行うわけでして」
「分かっているよ!君がいなくなったら、うちなんか、即座に倒産するよ!」
社長は頷いた。それは、純粋な賞賛だった。
「ならば、なぜですよ?」
キタムラは震える指で、申請書を指した。
「なぜ、新入社員の、ルカさんの見舞いに、私がその二日間、張り付かねばならないのですか!?ぜんっぜん、おかしいですよね?」
ルカ。
先月中途入社してきた三十代半ばの男性。
キタムラより十歳も年上な上に、魔導工学の知識は素人同然で、営業ノルマも達成できず、社長も営業部長も、そしてルカ本人すらも「自分は無能である」と認めている男だ。そのルカが、ころんで怪我をした……という理由で欠勤した。
「それはねえ、キタムラ君」
総務主任が就業規則集の分厚いファイルをめくった。
「『社員が就業不能となった場合、直属の者がケアを行わなければならない』……そう。この規則だよ!」
「規則を改定してください!嫌がらせですか?どうにかしてくださいよ!社長が!」
社長が悲しそうに首を振った。
「君が優秀だからといって、規則から除外することは、君への優遇であり、ルカ君への差別になってしまうんだよ」
理路整然としていた。
「……金曜日の図面の提出は!?」
「金曜の朝一番でルカ君の家に行き、ケアを済ませてから会社に戻り、図面を持って工場へ行けばいい!」
「……土曜日の展示会の準備は!?」
「土曜日に行えばいい!そして、日曜日に休めばいい!」
「……なんだこの会社!」
金曜日、運命の日。
キタムラは朝七時に出社した。
図面を入れたアタッシュケースを手に持ち、そのままルカの家に向かおうとした。
だが、ゲートの前で呼び止められた。
「キタムラ主任、いけませんよ」
セキュリティ責任者は親切心から警告した。
「持ち出しは重大な規定違反になります」
「持ち出し!?……いやいや、ルカさんの家に行って、そのまま工場へ直行しますよ?」
「お気持ちは分かりますが、例外は作れません。」
キタムラは、喉まで出かかった絶叫を呑み込み、アタッシュケースを自分のデスクに置いた。
ルカの自宅アパートに着いたのは午前九時。
インターホンを鳴らすと、スウェット姿のルカが申し訳なさそうに出てきた。足には小さな湿布が一枚貼られていただけだった。
「キタムラ君……本当にごめんねぇ。僕なんかのために……これ、医師の診断書。『全治三日・軽度の打撲』だって。明日には出社できるって言われたんだけど、会社の決まりだからって、君に来てもらっちゃって……」
「……月曜日にお待ちしています」
キタムラは機械のように告げ、診断書をひったくるように受け取った。
会社に戻ったのは午後一時。
診断書を代理提出し、アタッシュケースを掴んで、今度は工場へ向かった。
午後三時からの工場ミーティングは、文字通りの激闘だった。
会社に戻って報告書を作成し、すべてを終えた時には深夜零時を回っていた。
翌土曜日。国民の祝日。
国際展示会のホールは熱気に包まれていた。
キタムラは壇上に立ち、新技術について、流れるようなプレゼンテーションを披露した。会場からは割れんばかりの拍手が巻き起こり、大手企業からの共同開発の打診が殺到した。
完璧だった。
人間として可能な、究極のパフォーマンスを発揮し、図面も、展示会も、ルカの見舞いすらも、すべてを完遂したのだ。
日曜日は、泥のように眠った。
そして、月曜日の朝。
キタムラがいつものようにスーツを着て出社すると、オフィスの空気が異様に重かった。
「キタムラ君……ちょっと、役員室に来てくれるかい」
社長の声は、いつになく重たかった。
テーブルの上には、一枚の冷たい書類が置かれていた。
『懲戒解雇通知書』
キタムラの思考が、完全な空白に包まれた。
「すまない、キタムラ君。我々もね、断腸の思いだ。信じてくれ、君を手放したくなどない。君は我が社の宝だ」
社長は本気で涙ぐんでいた。法務室長もハンカチで目を拭っている。
「な?いや……どういう?……え?……いや、どゆことですか?私は……わたしゃ、あたしゃあ……あたしが、あっしが……あーしが、何か、ミス、しましたか?え?……工場の図面は受理されましたーっ、展示会も大成功でしたーっ、ルカさんの見舞いも規定通りしましたーっ。…………え?……ナニが悪いんでがしょうか?……え?」
「違うんだ。勤怠データだよ、キタムラ君」
総務部長が、震える手でタイムカードを提示した。
「先週木曜日。君は、退勤のタイムカードを押し忘れていた。システム上、君は木曜日の定時からずっと、つまり今も『残業中』となっている……」
「……」
「そして金曜日だ。君は朝一番でルカ君の家に向かったため、焦って出勤打刻をしていない。そして夜、工場から戻って会社を出る際、タイムカードを通した。これにより、存在しない人が退勤だけをした……と記録された!」
「それは打刻の修正をすれば……」
「それだけじゃあない。問題はね、土曜日だ」
法務室長が重々しく口を開いた。
「君はね、朝は出勤打刻をした。しかし、展示会で極度に疲弊し、会場から直帰したね?そのため、退勤打刻が行われていない。そして今……月曜日の今朝を迎えた」
総務部長が絶望的な顔で図を示した。
「木曜から現在に至るまでの不正な残業。金曜深夜の退勤後、わずか数時間で土曜に出勤。これね……労基の監査に我が社のデータが引っかかったんだよ。『違法残業』および『異常データ』としてね」
「異常なデータ??」
キタムラは目を見開いた。
「データ上ね、君はね……『木曜日から月曜日まで一度も退勤せず、しかも、身体を分裂させて……会社をねぐらにして……夜な夜な街を徘徊している正体不明のオバケ』になっていたんだよッッッッ!!!!」
「オバケッッッッ!?……はああああ!?!?……いやいやいや!!!!打刻ミスですがな!監視カメラを見れば、私が、金曜の朝にルカさんの家に行き、そうして……日曜は自宅で休んでいたことなど、そんなの、一目瞭然でしょう!?なんで私がオバケなんですよ?直せよ!……直せよッ!!タイムカードなんか直せよ!なんなんだよアンタたちは!!」
「いやね、君、君ね、監視カメラの映像は確かに証拠にはなるが、だからと言ってね、君。『打刻データの事後修正』は、労働時間のね、隠蔽工作と、みなされるわけだよ、君ぃ」
社長が絞り出すような声で言った。
「我が社はね、そ、今期、コンプライアンス優良企業の認定審査中だったんだよ。だからね、データ異常を放置すれば、やはり、会社全体に営業停止処分が下りる。すなわちだ。我が社のコンプライアンス規程にはこうある。勤怠記録の虚偽または不整合を……中略と、えー、情状酌量の余地なく即時懲戒解雇とする』……と」
役員室に、乾いた沈黙が落ちた。
「社長……わしゃあね、あたしゃね、アンタたちの言った通りに動いただけですから!言った通りに見舞いに行き!言った通りに図面を置き!そうして、言った通りに展示会で技術を宣伝した……!」
「ああよく分かっている!君は何も悪くない!君は被害者だ!我々も君を愛している!ここにいる誰も悪意はない!」
「だったらなんで!」
社長はキタムラの手を握りしめ、ボロボロと涙を流した。
「だが、規則なんだ。法律だよ、キタムラ君!どうか……どうか会社のために、辞めてくれ……!」
「…………はい。もういいや。さよなら。」
キタムラが解雇された翌月、中央魔導技研はもちろん倒産した。
当たり前だった。
マシンの調整ができる人間は、この世に、キタムラ一人しかいなかった。
展示会で殺到した案件も、仕様書を書ける人間が不在のためすべて破談。
営業部も、工務部も、ルカも、社長も、全員が路頭に迷った。
倒産の日、元社長からキタムラのアパートに手紙が届いた。
『君を失ったことで会社は潰れたが、我々は最後まで規則を守り抜いた。君の犠牲は無駄ではなかった。誇りに思ってほしい』
「はああああ!?!?何が規則じゃ!!!!ボケがよッッッッッッ!!!!死ねッッッッ!!!!」
そうして!
キタムラはその手紙を読んだ瞬間、激しく嘔吐した!
殴られたわけではない!
虐められたわけでもない!
だが、キタムラの精神は完全に破壊されていた!
街を歩けば、信号機の青と赤の点滅を見るだけで過呼吸を起こした!
「青にならなければ渡ってはならない。しかし、青の秒数は決まっている。つまり、渡っている時に赤になったら、自分は、規則通りやってきた車に轢かれなければならないのではないか」
何かを選択しようとするたびに、胃が、焼け付くような激痛に襲われる!
(俺は……あの時、何を間違えたんだ……?)
キタムラは、魂の抜け殻となっていた。
数ヶ月後。
王都の巨大コンベンションセンターで開催されていた『魔導工学博覧会』。
キタムラは吸い寄せられるように、無気力な足取りで会場を彷徨っていた。
会場の中央、最も人だかりができている特設ブースに、一台の巨大な魔導エンジンが展示されていた。
キタムラがかつて設計した、あの『最高傑作』だった。
プレートには、倒産した元事務所の名と、キタムラの名が小さく刻まれていた。
「……救いようのない喜劇ですわね」
凛とした、鈴を転がすような、だが氷のように冷徹な声が響いた。
振り返ると、そこには息を呑むほどに美しい少女が立っていた。
豪奢なドレスを纏い、縦ロールの金髪を揺らし、扇子で口元を隠した公爵令嬢、ルミナリア・フォン・ラプラス。
その隣には、エルフの聖女、アリシア・ヴェリタスが困惑した表情で佇んでいた。
ルミナリアの瞳が、正確無比にキタムラを射抜いた。
「そこに突っ立っている、『死人』の貴方。……このエンジンの設計して、そうして……解雇に追い込まれた……キタムラ主任ですわね?」
「えっ……な、なぜ、私の名を……」
キタムラは怯えて後ずさりした。
「ラプラス公爵家の情報網を舐めないでいただきたいものね……」
ルミナリアはキタムラに歩み寄った。
その圧倒的な威圧感に、キタムラは胃を抱えてうずくまりそうになった。
「あ、あの……私は……私は、規則を守ったんです……! 皆、善意で……誰も悪くなくて……でも、私は選択を間違えて……!」
「黙りなさいな」
ルミナリアは冷酷に言い放った。
「貴方、下らない二者択一の迷路で、今も、グルグルと脳髄を腐らせているのでしょう?」
「う……あぁ……っ!」
キタムラの頭を激痛が襲う。まさにその通りだった。過去のあらゆる分岐点に戻り、別の選択肢を選び直す悪夢を、毎夜見続けていたのだ。
「いいこと?貴方の間違いは、選択肢の選び方ではないわ」
ルミナリアは扇子の先で、キタムラの額をトンと突いた。
「『他人が作った、どちらを選んでも負けるように仕組まれたゲームに参加したこと』。それが貴方の唯一最大の罪ですわ!」
「え……?」
「自分を殺すための盤面の上で、どれほど真面目にコマを動かしたところで、待っているのは破滅だけでしょう!馬鹿馬鹿しい!己の頭で責任を負うことを放棄した『豚』の集団自殺に、なぜ、貴方のような『人間』が付き合ってやる必要がありますの?あなたのような天才の人間如きが、知能をどこかにおき忘れてきたお豚様の真似をするのは100年早いのですわ!……それは『罪』ですわ!」
『罪』!
キタムラは、雷に打たれたように硬直した!
ルミナリアは不敵に唇を吊り上げ、キタムラの目の前に二本の指を突き出した!
「さあ、キタムラ!わたくしが、貴方にゲームを挑みますわ!」
「ゲーム……?」
「一つ。このまま『真面目に死んだ犠牲者』として、一生路地裏で過去を見ながら野垂れ死ぬか!」
「二つ。わたくしの手を取り、貴方を殺したこの国の腐った規則を、貴方の新技術で根底から叩き潰すか!」
ルミナリアの瞳の奥には、圧倒的なまでの『悪の正義』が燃え盛っていた。
「さあ!貴方の罪に、選択を!」
キタムラの胸の奥底で、何かが爆発した。
冷たく凍りついていた胃の奥が、カッと熱くなった。
震える両足を力強く踏みしめ、顔を上げた。
そして、ルミナリアが差し出した白手袋の手に、自らの泥に汚れた右手を力強く重ねた。
「……私は!新しい図面を、描きたいです!!」
その瞬間、ルミナリアの顔に、この世で最も美しく凶悪な三日月が浮かんだ。
「あーっはっはっはっはっ!!それでこそ!ゲームオーバー、ですわ!!」
その声は、キタムラを縛り続けていた見えない呪縛を、木っ端微塵に粉砕した。
「過去の不条理なゲームはこれにて終了!古いゲームはやめて、わたくしと新しいゲームを始めなさいな!!」
それから数ヶ月後。
王宮において、盛大な叙勲式が執り行われていた。
玉座に座る国王の前に跪いているのは、豪奢な正装に身を包んだキタムラであった。
「キタムラ技師長。其方が開発した新型魔導炉は、我が国のエネルギー効率を引き上げ、民の暮らしを劇的に向上させた。その比類なき才能と功績を讃え、王立技術院の最高栄誉たる『一等魔導技師章』を授与する」
「ははっ……!謹んで、拝受いたします!」
会場を埋め尽くす貴族や大商人たちから、拍手と歓声が送られる。
最前列には、退屈そうに扇子を揺らすルミナリアと、嬉しそうに涙ぐみながら拍手をするアリシアの姿があった。
式典の後、バルコニーの風に吹かれながら、キタムラは胸に輝く勲章を見つめていた。
そこへ、ルミナリアがやってきた。
「キタムラ技師長。少しは顔つきがマシになりましたこと?」
「ルミナリア様……本当に、ありがとうございました。貴女がいなければ、私は今頃……」
「礼など不要ですわ。フフフ……わたくしは、貴方の才能を利用しただけ。……せいぜい馬車馬のように働きなさいな」
ルミナリアは意地悪く微笑んだ。
キタムラは苦笑しながら、だが以前のような怯えは微塵もなく、力強く頷いた。
「はい!もう、タイムカードの押し忘れで死ぬことはありませんから!」
「貴方が図面に従うのではなく、貴方の描く図面こそが、これからの世界の新しいルールになるのですからね!」
ルミナリアは扇子を開き、窓の外を指し示した。
そこには、どこまでも広がる無限の空と、彼が自由に描き出すことのできる、輝かしい未来の設計図だけが広がっていた。




