救済5:野良犬になった少年!顔を貪る復讐の悪女!
私、ノア・アトウッドの居場所は、最近、めっきりと少なくなってしまった。
ラプラス公爵邸執務室。
ルミナリア様の傍らで紅茶を静かに注ぎながら、私は溜息をついた。
「ルミナリア様ぁっ!お口の周りを私が!私の舌で今すぐ綺麗にして差し上げますわぁぁっ!」
「やめなさいシャルロッテ。公務の書類にあなたの唾液が飛びますわ。パーソナルスペースという概念を辞書で引いてきなさい」
執務机の下で身悶えする新入りのメイド、シャルロッテと、それを冷たくあしらいながらもどこか満更でもなさそうなルミナリア様。
その微笑ましいやり取りを、私は部屋の隅で、ただの「完璧な影」として見守っていた。
私がラプラス邸で従者として仕え始めてから、数年の月日が流れた。
自分で言うのも傲慢かもしれないが、私は教養、礼儀作法、そして純粋な知識量においては、天才と名高いルミナリア様をも凌駕していると自負している。
本来であれば、私のような人間が一介の従者として控えていること自体が異常なのだ。
なぜなら、私の姓は『アトウッド』。
ルミナリア様の実家であるラプラス家の、さらに上位に位置する『本家』の正統なる後継者なのだから。
では、なぜ本家の御曹司である私が、分家の令嬢の影として生きているのか。
それは、アトウッドという一族が……とうの昔に……『物理的に消滅』しているからである。
そして、あの日死んだはずの私の魂に、ルミナリア様が「2度目の人生」を与えてくださったからだ。
シャルロッテの狂気的なまでの愛情表現を見ていると、時折、自分が入り込む隙などないように感じてしまう。だが、それに嫉妬するような幼稚な感情は、私にはない。
私の忠誠は、シャルロッテのように熱く燃え盛る業火ではない。
決して消えることのない、静かな炎。それが私、ノア・アトウッドの忠誠なのだ。
数年前。アトウッド本家。
当時、アトウッド家は絶対的な権力と富を誇っていた。広大な屋敷には数十人の使用人が働き、毎晩のように華やかな夜会が開かれていた。
だが、その栄華は、たった一人の「侵入者」によって、一夜にして地獄へと変わった。
『顔のない殺人鬼』。
それが、突如として我が家に現れた怪物の正体だった。
黒いローブに身を包んだその男には、文字通り「顔がなかった」。他者の顔を『喰らう』ことで自身の魔力を底上げし、犠牲者の命を弄ぶ魔術師。
夕食後の団欒を楽しんでいたリビングに、そいつは音もなく現れた。
悲鳴を上げる間もなかった。男が指を鳴らした瞬間、父の顔から「目と鼻と口」が消失したのだ。
「っ!?……っっ!!」
父は、声にならない絶叫を上げた。口がないのだから、当然だ。
そして、何より恐ろしいのは『呼吸ができない』ことだった。鼻の穴も、気道へと繋がる口もない。皮膚が完全に癒着し、頭蓋骨を覆ってしまっているのだ。
父は、パニックになりながら、テーブルの上にあったステーキナイフを掴んだ。そして、自分の口があったはずの場所に、勢いよくナイフを突き立てた。
だが、硬い音が響いた。そこにはもう空洞などなく、皮膚のすぐ下には固い顎の骨があるだけだった。
父は、自分の顔をズタズタに切り裂きながら、床をのたうち回り、やがて顔面を真っ赤に染めて窒息死した。
「嫌ぁぁぁっ!あなたぁっ!」
母が悲鳴を上げたが、次の瞬間には母の顔も消滅していた。
母は父の凄惨な死に様を見ていたためか、口を開けることを諦め、呼吸のために自らの喉元の頸動脈をナイフで掻き切った。気道を開こうとしたのだ。だが、素人の乱暴な切開でうまくいくはずもなく、母は気管に血を詰まらせ、大量の血を噴き出しながら痙攣して死んだ。
兄も、姉も、使用人たちも、次々と顔を喰われ、己の顔を刃物でえぐりながら窒息していく。
地獄!
そのリビングのど真ん中のソファで。
私は。
ただ一人。
無傷で座っていた。
私には、幼い頃から『特徴』がなかった。
成績は常に完璧で、品行方正。だが、あまりにも完璧すぎて、人間としての「個性」や「気配」が極端に薄かったのだ。自我が希薄で、まるで人形のような少年。
その極度の『存在感のなさ』が、皮肉にも私の命を救った。
殺人鬼は、リビングを血の海に変え、満足げに立ち去っていった。
ソファで震えることもできず、ただ呼吸をしているだけの「私」という存在に、全く気づかないまま。
警察が踏み込んだ時、私は家族の肉片と血の池の真ん中で、瞬き一つせずに座っていたらしい。
全滅した。
アトウッド家は、全滅した。
そして、私の精神も、あの夜、完全に死んだのだ。
行き場を失くして抜け殻となった私を引き取ってくれたのが、分家であるラプラス家だった。
そこで私は、初めて『ルミナリア・フォン・ラプラス』と出会った。
当時の彼女はまだ11歳。
私生活のすべてを無菌室のようなベッドの上で過ごし、少し無理をすれば血を吐いて倒れてしまう、極度の病弱体質。さらには、貴族でありながら『魔力が完全にゼロ』という、完全なる欠陥を抱えたガラス細工のような少女だった。
「あなたが、本家の生き残り。ノア・アトウッドね」
ベッドの上で、小さな令嬢は冷たく私を見下ろした。
私は、ただ黙って首を縦に振った。
希望も、絶望も、私の中にはもう……残っていなかった。
普通であれば、凄惨な事件の唯一の生き残りに対し、同情や慰めの言葉をかけるだろう。
しかし、彼女は違った!
「死んだ魚のような目。不愉快ですわ。私の視界に入るなら、少しはマシな顔をしなさい。……そうですわね、ノア。あなた……今すぐ……『竜人の谷』へ行ってきなさい!」
「……は?」
「竜人の谷ですわ!そこで……うーん……竜人の友達を一人、作ってきなさい!それが私からの最初の命令です」
正気の沙汰ではなかった!
竜人の谷とは、王都から馬車で数週間もかかる辺境であり、凶暴な種族が住む危険地帯である。抜け殻の少年に命じることではない。
だが、当時の私には反抗する気力すらなく、ただ言われるがままに屋敷を出た。
過酷な旅だった!
死にかけて、這いつくばって、竜人の谷へ辿り着いた。そこで私は、アスナ・クライフォルトという里帰り中の竜人のOLと出会い、どうにか「友達」という名目を得て帰還した。
「遅いですわね。では次は『狐獣人の里』で、狐の友達を作ってきなさい。それが終わったら、天空人が住む浮遊島『アーク・ノヴァ』へ行き……私の未来の末路を観てきなさい!」
ベッドから一歩も動けない暴君は、私に次々と無謀な命令を下した。
私は世界中を駆け回った!
見知らぬ土地の風に吹かれ、様々な種族と殴り合い、語り合い、彼らの価値観に触れた。天空の島で、雲海を見下ろしながら深呼吸をした。
そこで私は、ルミナリア様の、いや、この世界の結末を観た。
すべての命令をこなしてラプラス邸に帰還した時。
鏡に映った自分の顔を見て、私は息を呑んだ!
あの日からずっと死んでいたはずの私の瞳に、静かな『光』が宿っていたのだ!
「……フフフ……人間らしい顔になりましたわね、ノア」
ルミナリア様は、相変わらずベッドの上で、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
私は、その時ようやく理解したのだ。
彼女は……心の時間が止まってしまった私を、広大な世界へ放り出すことで『強制的に生き返らせた』のだ。
他者と関わり、痛みを覚え、美しさを知る。その荒療治こそが、病室から出られない彼女なりの、不器用で傲慢な「慈愛」だったのだと。
私は、ベッドの傍らに跪き、深く頭を下げた。
「ルミナリア様。このノア・アトウッド、これより先は、あなた様の忠実なる……」
私がルミナリア様に忠誠を誓おうとした、まさにその時。
「それ」は、再び私の目の前に現れた。
無菌室の窓ガラスが不自然な音を立てて砕け散った。
夜の闇の中から、ベッドルームに這い上がってきた黒い影。
私は全身の血が凍りつくのを感じた。呼吸が止まり、指先一つ動かせない。
『……見つけたぞ、アトウッドの残り滓』
顔のない殺人鬼。
そいつは、私が生き残っていることを何らかの魔術で察知し、「アトウッドの血筋」を喰らい尽くすために、ここまで追ってきたのだ。
「あ……あぁ……っ……」
私の中に、克服したはずのトラウマがフラッシュバックする。
顔が消える。骨を削るナイフの音。血の海。
足がすくみ、声帯が痙攣し、私はルミナリア様を守るために前に出ることすらできなかった。私は、また無力に殺されるのを待つだけの人形に戻ってしまった。
殺人鬼が、ゆっくりと指を鳴らそうとした。
私の顔が、今度こそ消滅する……
「フフフ……夜分遅くに無作法な侵入者ですわね。しかも、ひどく醜悪で、臭い。その野蛮さ。さては……獣人部落の方かしら?」
凛とした、氷のように冷たい声が響いた。
見れば、当時まだ11歳だったルミナリア様が、純白のネグリジェ姿のままベッドの上に立ち上がり、殺人鬼を「汚物」を見るような目で見下ろしていた。
彼女の細い腕は小刻みに震え、今にも倒れそうだった。魔力など一切ない。文字通り、ただの病弱な少女である。
『なんだお前?病人のガキか。魔力のねえ底辺野郎が。お前の顔もついでに喰って……』
「ええ!食べられるものならねえ!」
ルミナリア様は、自らの震えを気力だけで抑え込み、一切の恐怖を見せず、ただ冷酷に微笑んだ。
「それに、あなたは根本的な『計算ミス』をしていますわ。……他者の顔を喰らう際、あなたは対象と魔力を繋いで、相手の魔力を吸い上げているのでしょう?」
『……何を言ってんだ?当たり前だろう!』
「基礎的な力学の話ですわ」
ルミナリア様は、天才的な頭脳で紡ぎ出した『死の理論』を突きつけた。
「水は高いところから低いところへ流れる。魔力も同じ。あなたは自身の魔力を満たすため、他者の魔力にパスを繋いで吸い上げている。……では、もしあなたが『魔力が完全にゼロの真空』にパスを繋いだら、どうなるかしら?」
殺人鬼の動きが、ピタリと止まった。
「私の魔力は、『絶対的なゼロ』ですわ。私の顔を喰らおうとしてパスを繋げば、高圧であるあなたの魔力は、真空である私の内側へと逆流する。……つまり、あなたは魔力を失い、一瞬で崩壊する」
それは、魔法の使えない彼女が編み出した、純粋な『理論とハッタリによる心理的殺戮』だった。
ルミナリア様は、コホリと一つ咳き込み、血の滲む唇で残酷に笑った。
魔力ゼロの、今にも死にそうな11歳の少女が、恐るべき殺人鬼に死神の宣告を下す。
「一つ。今すぐ私に恐れをなして窓から逃げ出し、一生怯えて暮らすこと」
「二つ。私の顔を奪い、私を破滅させること!……まあ、意気地のない低俗なあなたに、できるわけがないわ。……さあ!あなたの罪に、選択を!」
殺人鬼は、混乱した。
『命乞いのハッタリを!』
男は、恐怖を振り払うように叫び、ルミナリア様に向かって魔術を行使した。パスを繋いだのだ。
「……繋ぎましたわね?……繋ぎましたわね?……フフフ!……逃しませんわよ!」
直後。
殺人鬼の顔面を覆っていた「奪われた顔たち」が、ドロリと溶け落ちた。
ルミナリア様の言葉は、ハッタリではなかった。
力学ですらない、単なる算数。
彼女の魔力的な真空に触れた瞬間、殺人鬼の魔力回路が急激な圧力低下を起こしたのだ。
『が……あ!?息が……顔が……!!?』
魔力を失った男は、自身の素顔をとうの昔に失っていたため、顔面が完全に「平坦」な状態へと戻ってしまった。
目もない。鼻もない。口もない。
「ハーッハッハ!……己の無知をあの世で懺悔するがいいわ!……ゲームオーバー、ですわ!」
ルミナリア様は、一切手を出さずに、冷徹な目でそれを見下ろしていた。
男は、自分の顔を掻きむしり、床をのたうち回り、やがて、私の両親と全く同じように、窒息して息絶えた。
完全なる勝利。
自分の親族を皆殺しにした悪を、魔力を持たない11歳の病弱な少女は、己の『知能』だけで打ち破ってみせたのだ!
「……さて。邪魔な虫は駆除しましたわ」
ルミナリア様は、極度の緊張と疲労で膝から崩れ落ちそうになった。
私は、弾かれたように立ち上がり、間一髪でその小さな身体を抱き止めた。
「ルミナリア様……っ!」
「ノア。……言ったでしょう。あなたの命も魂も、私が最も有効に使って差し上げると」
彼女は、血の気の引いた顔で、傲慢に、けれど底抜けに優しく微笑んだ。
私は、この時、すべてを理解した。
この方は、たった一人の従者の魂を救うために、一切の魔力を持たない無力な身体で、己の命をチップにして悪魔の心理戦を仕掛けたのだと。
私は、ルミナリア様の細い手を握りしめ、ボロボロと涙を流しながら誓った。
「ルミナリア様。このノア・アトウッド、我が命と魂のすべてを以て、永遠にあなたをお守りいたします!」
・・・・・・・・・・
「ノア?……紅茶を注ぐ手が止まっていますわよ」
ルミナリア様の声で、私は過去の記憶から現実へと引き戻された。
「……申し訳ありません、ルミナリア様。少々、昔のことを思い出しておりました」
私は深く一礼し、完璧な温度と角度で、彼女のティーカップに香り高いダージリンを注ぎ入れた。
「ルミナリア様ぁっ!私の淹れた泥水も飲んでくださいませぇぇっ!」
「だから近いですわシャルロッテ!ノア、この駄犬をつまみ出しなさい!」
騒がしい日常。
シャルロッテという新しい従者が来て、私の居場所は、物理的には少し狭くなったかもしれない。
だが、それでいい。
私は、この無菌室の太陽を裏から支え続ける。
2度目の命を捧げた主に、私は今日も、完璧な忠誠を捧げるのだ。




