救済3:ぼく産後鬱だからおっぱい吸いたい!戦いを譲る悪女!
王都デイチャー地区・南110番街。
そこは、煤とスモッグに遮られた、常に灰色の帳が下りているスラム街であった。
下水道はとうの昔に崩壊し、路地裏には正体不明の汚水と腐臭が淀んでいる。
その泥濘の道の交差点を、一陣の風が吹き抜けていた。
「……ルミナリア様、足元がお悪うございます。……私の靴をお踏みになって歩かれますか?」
「結構ですわ、シャルロッテ。公務なのですから、私の足で歩かなければ、実体験として、意味がありませんもの」
豪奢なフリルドレスに身を包んだラプラス公爵家令嬢ルミナリアと、彼女の背後にピタリと張り付くメイド、シャルロッテ。
二人の周囲には、王都警察と魔導省が特別に用意した不可視の『防護結界』が張られていた。
110番街は、シャルロッテがかつて「育ての親」と共に過ごしたスラムである。
彼女たちが歩みを進めるたび、路地の暗がりから血走った目をした浮浪者たちが飛び出してきては、刃物や鈍器を振り下ろそうとした。
しかし、彼らの凶刃がルミナリアたちに届くことはない。
不可視のバリアが彼らを優しく、しかし、絶対的な力で弾き返すのだ。
骨を折るでもなく、ただ「汚物を払う」ように、暴力そのものを無効化していく。
ルミナリアは、日傘を傾けながら周囲の惨状を見渡した。
道端で幻覚剤を注射し合いながら笑い転げる若者たち。
子供を鎖に繋いで物乞いをさせる親。
臓器を売るための値札をぶら下げられた少女。
すべての悪徳、すべての絶望、すべての醜悪が、この南110番街には煮詰まっていた。
「……私は、思い上がっていましたわ」
ルミナリアは、唇を噛んだ。
彼女は天才である。経済学、心理学、そして確率論を極め、机上の理屈で世界をコントロールできると信じていた。
だが、ここは違う。
ここにあるのは、計算式など通用しない、純粋な『人間』という、悪の現象の集合体だった。
(私は、世界を舐めていた。底なしの泥沼は、ここにあったのだわ……)
無菌室の姫は、己の無力さと認識の甘さに打ちのめされそうになっていた。
その時である。
「待てこの人殺しィィィ!!」
路地の奥から、金切り声と共に女が飛び出してきた。
その前を、半狂乱になって逃げる薄汚れた男が走っている。男の顔はアルコールと薬物でどす黒く変色し、目玉は異常なほどに見開かれていた。
「シャルロッテ?」
ルミナリアが振り返ると、狂犬メイドの表情から、いつものねっとりとした甘い笑顔が消え失せていた。
漆黒の瞳孔が、氷のように冷たく凝視している。
「……ルミナリア様、あれ……私の『育ての両親』です」
シャルロッテは淡々と告げた。
男と女は、バリアに弾かれてルミナリアたちの足元に転がった。
「また、子供を産んだのですか?そして、また、虐めているのですか?」
シャルロッテが見下ろし、感情のない声で尋ねた。
その言葉に、息を切らした女が泣き叫んだ。
「違う……違うんだよシャルロッテ!この男が……このクズが、昨日、子を殺したんだ!!」
「……殺した?」
ルミナリアが息を呑んだ。
男は、地面に這いつくばりながら、よだれを垂らし、信じられないことを喚き始めた。
「だ、だって仕方ないじゃないか!彼女のおっぱい、俺が吸いたいのに、子供に取られたから!ぼくのおっぱいッッッッ!!!!」
「……は?」
天才ルミナリアの脳が、一瞬、処理を停止した。
「ぼくおっぱい吸いたいのに!おまえ、おっぱいとった!やだ!ぼくやだ!おっぱいくれないのやだ!」
男は、いい年をした大人の分際で、手足をバタバタとさせて幼児のように泣き喚いたのである!
彼は本気だった!
彼にとって、妻が産んだ子供とは、愛すべき我が子ではない!
「生まれながらにして、自分の妻の肉体を奪う不倫相手」だったのだ!
「あいつ、俺の彼女のおっぱいを毎日毎日チュッ!チュッ!って吸いやがって!……チュッ!チュッ!って!チュッ!チュッ!ってだよ?……俺のエッチする時間も奪い、俺の飯も奪った!だから昨日、首絞めて殺して、さっき焼いて裏山の墓に埋めてやったんだよ!……あ、食えばよかったかな……ちきしょう!マズった……食えばよかった……ニリアム・ソースがまだあったんだ。レギントンソルトと……あ、クリムの種あったっけ……香味がないとやなんだよな……あんたも人肉、食う?」
「な、なんの話ですの!?レギントンソルト?……?な、なんですのそれは……?じ、人肉……!?」
男は、おぞましい正当化を始めた。
「そ、人肉。西カワセの第七地区とかで流行り出したんだけど、本当は南地区が起源なんだよね。猫獣人の赤子の肉が美味いんだけど、獣人は抵抗するからねえ。いや、そもそも。だいたいなあ!俺は今『産後鬱』なんだよ!エッチしてないストレスで気が狂いそうだったんだ!だから赤ん坊殺すくらい仕方ないだろう!俺は被害者だぞ?……あんた、おっぱいちっせえな。まあいいや。じゃ、おっぱい吸わせて。……人肉食うんでしょ?じゃあご馳走してやるんだから、先おっぱい吸わせて。ほら!ほら早く!あ、ダイアゴン鉱石か、ジーク・デルクの財布かバッグ買ってくれたら許してあげる。もちろん王都3番街のダイマツ百貨店でね?ほら、早く!……おーい!アケミ!コウジ!タカハルーッ!こいつがなんでも買ってくれるってさ!……お前今言ったよな?なんでも買うって言ったよなああああ!!!!」
「??……????………??????????」
勝手に話を進める男から、意味不明な固有名詞が、機関銃のように繰り出される!
そして、恐喝!
すきあらば、恐喝!
だめだ!
限界だ!
ルミナリアの全身を、かつてないほどの激しい怒りと吐き気が、ついに、駆け巡った!
醜悪!
醜悪!
知性も倫理も、獣以下の欲望にまで退行した胸糞の悪い泥!
ルミナリアは、殺意と共に『ゲーム』を開始しようとした。
(……今すぐ、殺す!)
「ルミナリア様?」
しかし、ルミナリアの前に、スッと白い手が差し出された。
シャルロッテである。
彼女の顔を横から見たルミナリアは、息を呑んだ!
シャルロッテの目が、いつも、ルミナリアが極悪人を葬る時に見せるのと同じ、光の宿らない『死神の目』をしていたからだ!
「ここからは、私の管轄です」
シャルロッテは、なんと……どういうわけか、男の胸ぐらを片手で掴み、軽々と宙に吊り上げた。
「ぷぎっ!?……なんだお前!?……お前てめえお前!自分が吸ってたおっぱいがし、し、知らないガキに奪われて吸われる絶望など、お前は知らないだろう!エッチしたいのに!ごはん欲しいのに!くれないのは、差別!」
宙吊りにされながらも、男は狂ったように己の被害者意識を叫び続ける。
シャルロッテは、微塵も表情を動かさず、ただ死を宣告する天使のように美しく微笑んだ。
「差別?……わかりました。では。……ならば、平等に、同じ目に遭ってもらいますわ。……さあ! あなたの罪に、選択を!」
ルミナリアの決め台詞を、シャルロッテがトレースした。
「一つ。その赤子に永遠に詫び続けること」
「二つ。私に『すべて』を奪われ、文字通り破滅すること」
男は、ゲラゲラと下品に笑った。
「馬鹿かお前馬鹿!お前、おま、俺が謝るわけないだろ!むしろお前から全て奪っ……」
「そう。」
次の瞬間。
男の眼球、耳、鼻、口、そして毛穴という毛穴から、おぞましい音と共にどす黒い体液が噴き出した。
「あ……ぎゃ……あ、あ、あああああああああああああああああああッッッ!?」
男の体が、内側から風船のように膨張していく。
シャルロッテは、ただ男を睨んでいるだけだった。
否、彼女の内に眠っていた『魔導士』としての力が、極限の怒りによってついに覚醒を果たしていたのだ。
シャルロッテの右手から、空間をヒビ割るような漆黒の火花が散っている。それは、世界から『命の理』を強制的に引き剥がす、暴力的な黒魔術の顕現だった。
「ひぃぃぃぃぃぃっ!や、やめ……!!」
「自分の欲望だけで命を奪ったのですから、平等に、差別なく、あなたからも奪ってあげます」
乾いた破裂音が響いた。
男は、『破裂』して死んだ。
シャルロッテの目はまだ飢えていた。
その視線が、地面で震えている女へと向けられる。
「ひ、ひぃぃ……!シャルロッテ!シャルロッテ、ちゃん?……私悪くない!殺したのはあいつで!」
「ええ、知っています。ですが」
シャルロッテの言葉は鋭利な刃だった。
「あのような男と分かりながら、子供を産み落とした。それは事実でしょう?そして、男が子供を虐待するのを見て見ぬふりをした。それは事実でしょう?あなたが男を追いかけていたのは、赤子を殺された悲しみではなく、単に、今日の遊ぶ金欲しさ、ではありませんか?」
図星を突かれた女の顔が、醜く歪んだ。
「なんだお前は!産んでやった親に向かってなんだその口の利き方は!私は被害者だ!慰謝料を寄越せ!その金持ち令嬢から金を引っ張れ!死んじまえ!死ね!死ねよ!…………あっでも金ズルになる人連れてきたら許してあげるわよ。愛してるわ。一番大好きだから。信じて。私があなたを守るから。愛してる。好きよ。…………あ、金ズルは連れてこなさそうね。ならば、死ね!死ね!死ね!死ね!一番嫌いなんだよ!死ね!死ねい!」
極限の恐怖の中でも、女の頭にあるのはやはり、卑しい金銭欲だった。
「二択を……いや……」
シャルロッテが指を鳴らす。
途端に女の体が痙攣し、男と全く同じように肉体が膨張し、瞬く間に破裂して肉塊へと変わった。
馬鹿男を選び、共犯者として悪意を培養した女もまた、同罪の馬鹿なのである。
その場の楽さに甘えて、離婚をしない女の馬鹿さは、女自身の罪なのである。
路地に、二つの潰れた肉塊が転がった。
しかし、シャルロッテの行動はここで終わらなかった。
「ルミナリア様、少々お目汚しを」
シャルロッテは、右手を高く天へと掲げた。
巨大な黒い稲妻がシャルロッテの腕に絡みつく。
彼女は、地面に転がる二つの肉塊から、無理やり『何か』を掴み出した。
それは、たった今死んだばかりの育ての両親の、生々しい「生命力」であった。
「なにっ……!?」
付き従っていた政府の役人や護衛たちが、そのあまりにも冒涜的な黒魔術を前に恐怖で後ずさる。
「やめろ!空間が崩れる!」
役人が叫ぶが、シャルロッテは一瞥もくれない。
彼女は、両親の命脈を、自らの手のひらで無慈悲に「すり潰した」。
命を燃料へと変換する、純粋な暴力。
そして、その強大なエネルギーを空へ向けて放出した。
「さあ、戻りなさい」
シャルロッテの瞳から、一筋の美しい涙がこぼれ落ちた。
その瞬間。
黒魔術の禍々しい光が、突如として眩いほどの『白銀の光』へと反転した。
空間がねじ曲がり、裏山の墓地から「それ」が召喚された。
火葬され、灰となっていたはずの赤子の遺骸。
シャルロッテは、両親から奪い取った膨大な生命力を、その灰に無理やり叩き込んだ。
失われた骨が再構築され、燃え尽きた内臓が編み直され、灰となった肉が血色を取り戻していく。
白銀の光の中で、自らの命を削りながら赤子を抱きかかえるメイドの姿を見て、全員が言葉を失い、膝をついた。
「……おぎゃあ……」
産声が、路地裏に響き渡った。
火葬されたはずの赤子が、シャルロッテの豊かな胸に抱かれ、穏やかに息を吹き返したのだ。
「……あ、あぁ……」
ルミナリアは、日傘を落とし、震える両手で口を覆った。
彼女の胸に、恐怖ではなく……激しい感動と畏敬の念が押し寄せた。
シャルロッテは、息を乱しながらも、優しく微笑んで赤子をあやした。
そして、ルミナリアの隣で腰を抜かしている政府の役人の胸に、その温かい命を押し付けた。
「この子は……王都の孤児院へ。お願いいたしますわ」
「は、はいッ……!」
役人は、涙を流しながら赤子を抱きしめた。
「この子は、親の愛を知りませんでした。ですが、これからは違います。どうか、悪を知らない、美しい場所で……」
シャルロッテの言葉には、机上の空論ではない、彼女自身の、真実の祈りが込められていた。
静寂が戻った路地裏。
赤子の泣き声だけが、希望のように響いている。
シャルロッテは、ルミナリアの方へ振り返り、いつものように甘く、底知れぬ狂気を孕んだ可愛らしい笑顔を浮かべた。
そして、路地の端に転がる、育ての親だった二つの肉塊に向かって、スカートの裾をふわりと摘み、完璧なカーテシーをしてみせた。
「ゲームオーバー、ですわ!」




