第四話
駅の階段を重い足で一段一段踏みしめながら、陽向は細く息を吐いた。
膝のケガは徐々によくなってきているけれど、それと入れ替わるように、近頃家の中で少し変わったことが起きていた。
朝、きちんと蛇口をしめたはずの洗面台で、帰ってきたらちょろちょろと水が流れていたり、浴室のフックにかけていたはずのシャワーが落ちていたり。
シンクの下からカサコソと音がして、ネズミだろうかと覗いてみても何が音をたてていたかはわからない。
極めつけは視線だ。家の中で、常に誰かに見られているような気がしてしまう。
最初に疑ったのはストーカーだ。
でも戸締まりはきちんとしているし、陽向のマンションはエントランスでパスワードを打ち込まないと入れない程度のセキュリティはある。
帰宅して、鍵が開いていたこともない。
そもそも、自分を狙う物好きがいるなんてありえない。
『……なにかあれば連絡してって言ったのに』
大希の言葉に、『転んでケガをしましたって、報告するんです? それは……変じゃないですか?』と尋ねた時のことを思い起こす。
あの時、何か酸っぱい物でも飲み込んでしまったような顔で『それはそうなんだけど』と同意していた大希は、他にもまだ何か言いたそうな顔をしていた。
連絡を、したい。でも、したくない。
会えたら嬉しいと思ってしまう。けれど、片隅には絶えず気まずさや申し訳なさが横たわる。
大希は、大学に入ったばかりの陽向に、初めて親切にしてくれた異性の先輩だった。
顔を合わせるのは大抵が大学の図書館で、レポートの資料やノートの取り方をよくアドバイスしてくれた。
大希と会うと、なぜか重い気持ちが晴れて、体まで軽くなるような気がしたから、名前を聞くまでは『サプリ先輩』と心の中で呼んでいたのは、陽向だけの秘密だ。
『渋沢さん、大希先輩と仲いいの?』
ふたりで話す姿を見かけたという友達に、『仲がいいというほどでもないけれど』と答えながらも、陽向にとっては一番距離が近い先輩だった。
『セフレが多いって聞いた』
『モテそうなタイプだよね』
友達に聞かされる噂の中には、誰それが告白してフラれたという話も多かった。
実際、大希はモテるだろうと思う。
背が高くて、物腰は柔らかい。近寄りがたいかといえばそうでもなく、笑顔は、実家の隣で飼われていたゴールデンレトリバーのような人懐こさがあった。
そんな大希に、陽向が惹かれないはずがなかった。
ただ、告白なんてするつもりはなかった。それはさすがに烏滸がましいと思ったし、少し距離が近い後輩くらいのポジションに居られるなら、それで充分だと思っていた。
『たぶらかしてない。あっちが勝手に寄って来てるだけだよ』と言う大希の言葉を聞いてしまうまでは。
迷惑をかけないようにしなければ、と気をつけてはいたけれど、既にそう思われていたと知った陽向は、以来、大希に寄っていくのをやめた。
再会は、ただただ驚いた。大希の方から話しかけてくれて、嬉しかった。
お陰で聞かれたくなかったことまで聞かれてしまったけれど、それは自身の軽率な行動が招いた結果でしかない。自業自得だ。
偶然任せの今、連絡しなければこのまま会えないのだとしても、『迷惑な後輩』が『単なる後輩』くらいの印象に持ち直せるなら、それはそれでいいのではとすら思えてくる。
本当は、不安に耐えきれず、昨夜スマホを手に取った。
でも、なくならないように机に貼っていたはずの大希の名刺が見当たらなかった。
部屋中探して、最後に机の上のプリントをめくったその下から出てきた。
これだから自分はダメなのだ、と溜め息しかでなかった。
念のため名刺に書かれた電話番号を手帳に書き留め、スマホにも登録したけれど、最初にスマホを手にした時の小さな勇気は霧散していた。
陽向の足を重くさせている原因は、それだけではなかった。
今日の面接だ。
受付に行くと、予約をしたはずが名簿に名前がなかったのだ。
申込時の確認メールを提示して、すぐに手違いだとわかったまではよかったものの、順番を待っていたらなぜか飛ばされた。
気づいた係の人が慌てて最後に呼んではくれたけれど、予定外だとでも言いたげな面接官の質問は、内容も態度もハナから採用する気はないと告げていた。
きっと、今回も選ばれない。
階段を上り終えた陽向は、深く息を吐いた。
今日は、モンブランを二個買ってもいいと思う。
喉の奥にせり上がる熱を飲み下しながら、あのおいしいモンブランを食べて元気になろうと決めて、どうにか足を踏み出す。
大学では、友人たちが数日後に迫った内定式について話していた。
気を遣わせるのが申し訳なくて、陽向は話の輪に入らないまま、聞くともなしにそれを聞いていた。
何が、いけなかったんだろう。できる努力はしている。
頑張っているつもりなのに、うまくいかない。
どうして、選んでもらえないんだろう。
見飽きるほどのお祈りメールでいくら活躍を祈られたって、それは『お前はうちにはいらない』と告げているにすぎない。
選ばれない。会社にも──誰にも。
陽向はケーキ屋に寄るのも忘れ、ふらふらと足を進めた。
心が暗く塗りつぶされていく。
ふと、あの夜のことが思い出される。
数合わせで急に呼ばれた合コンだった。
得意でないお酒を、舐めるように呑んでいたのを覚えている。
それでも、酔った。
こまかいやりとりは覚えていない。
そんなことをしたって、大希に選ばれるわけはない。わかっていた。
どうしてあんなことをしたんだろう。
ずっと後悔していたけれど、流されたなんて言葉で片付けてしまいたくもなかった。
ソンナダカラ、選バレナイ。
思考がじわりと浸食される。
所詮、オマエハ選バレナイ。
そうだ、と思う。自分が選ばれるはずがない。自分なんかが、誰にも、どこにも選ばれるわけがない。
頭がぼうっとしてくるのに、足は止まらない。膝の痛みも忘れ、徐々に速度が増していく。
選ばれない。どうせ、選ばれない。
オマエヲ選バナイ世界ナラ──……
「渋沢さんっ!」
強く、手首を掴まれた。
「……え?」
咄嗟に何が起きたか理解できなかった。
ただ、陽向が進もうとした方向とは逆の方へと強く引き戻された。
そのままぐいぐいと腕をひかれ、陽向は転びそうになりながら足を動かす。
そこでようやく、手首を掴んで歩くのが大希であると気づいた。
「ここのえ、せん、ぱい……?」
周囲がやけに薄暗い。
耳に響くがさがさとした音は、葉ずれの音にも、人のざわめきのようにも思えた。
ひなぁ、どこ?
母の声だ。
振り向きかけて、
「振り向かないで。返事もしないで」
低く唸るような大希の声と共に、力強く引き寄せられる。
陽向と大希とでは歩幅が違う。だから陽向は、半ば小走りのような速度で必死について行く。
陽向、そっちじゃないぞ
渋沢さん、こっちだよ
こっち、こっち
父の声、それから、よく知る友人たちの声が追いかけてきた。
大希について行くのに必死で、周囲を確かめる余裕がない。
ただ、歪んだ町並みも、暗い穴のような地面も、どこもかしこも異様であることだけはわかった。
陽向っ
追いすがる大希の声に、思わず振り向きそうになる。
ヂヂッ!
動物のような鳴き声と共に、「振り向かないっ!」と強く制される。
ああ、そうだ、と思う。
(九重先輩が、「陽向」なんて呼ぶわけがない……)
徐々に膝の痛みを自覚する。
腕を引かれていなければ、立ち止まっていただろう。
その痛みの感覚と共に、周囲が少しずつ明るくなる。
ようやく大希が足を止めた頃には、陽向の息はすっかりあがっていた。
随分歩いたはずなのに、陽向が立っていたのは改札の前だった。
何が起きたのか理解できない。
ただ、あがった息と、膝の痛み、それから強く掴まれた手首が確かな現実だった。
「狩れそうなら狩っていい。無理ならすぐ戻れ」
大希の声に顔を向けたものの、言われたことが理解できない。
そもそも、今この状況が、わからない。
視線に気づいたように、大希がこちらを見た。
(九重先輩だ……)
「……大丈夫? 見えてる?」
気遣わしげに顔を覗き込まれ、陽向は小さく顎をひいた。
「今の……なんですか……?」
まだ動悸がおさまらない。
走ったせいではない。たった今、自分がひどく不穏なものにのまれていた。その状況だけは、理解できたからだ。
「今のが……怪異ですか?」
「……うん。どこか痛いところはない?」
「いえ……」
遅ればせながら、指先が震えてくる。
「名前を、言える?」
そっと顔をあげて「渋沢、陽向、です」と言うと、ようやく手首が放された。
「少し、話せるかな? そことかで」
大希が指し示した先は、学生たちで賑わうファーストフード店だった。
◇ ◇ ◇
マンションの前まで送ってくれた大希と別れた陽向は、自宅のドアをくぐるなり、その場にしゃがみこんだ。
深呼吸をしてから立ち上がり、大希に渡された小瓶を取り出す。掌に納まる、透明な小瓶には、白い塩が詰められていた。
「怪異っていう、よくわからないものがあるんだってことだけは、信じられそう?」
ファーストフード店で席に着いた大希は、そう切り出した。
紙コップを持つ陽向の指先は、まだ震えている。
頷く陽向を労るように見つめた大希は、「ここまでのことがあったってことは、僕に連絡が必要なこと、起きてたと思うんだけど。どう?」と穏やかに尋ねた。
陽向がここ数日続いていた異変をぽつぽつと話すと、眉間に皺を寄せた大希が長く息を吐いた。
叱られる。
そう思って身を縮こまらせた陽向に、けれど大希は責めるようなことを口にしなかった。
「アヤシイ宗教とかではなくて……話せば話すほど胡散臭いか。とりあえず、今度は何かあればちゃんと連絡すること」
「はい」
「取り急ぎ、間に合わせに渡しとく」
そう言って、大希は小瓶を差し出した。そうして、陽向が口を開くよりも先に「お金はいらないから」と続けた。
「それから──」
大希の言葉に、陽向は神妙に耳を傾けた。
小瓶は、家に居る時は部屋に置いてさえあればいいという。
大希は「ただし、出掛ける時には必ず持って出て」と釘を刺した。
アヤシイ宗教ではないのかもしれない。実際、部屋の中の嫌な視線はなくなっていた。
お清めの塩ということだろうか。
大希と一緒にいる間には思いつかなかった疑問が生まれてくる。
アヤシイ宗教ではないけれど、つまり大希は僧侶や神主みたいなものだろうか。
なにより、陽向は今、心がすっきりとしていた。
内定が取れたわけでもないし、モンブランは買い損ねてしまった。
それでも、なんだか、どうにかなると思える程度のゆとりを取り戻していた。
「やっぱり、サプリ先輩だ」
小さく笑った陽向は、指先で小瓶をそっとつついた。
ふいに陽向のスマホが震える。
大希だろうか。さすがにそれはないか、と思いながら画面を確認して、鼓動が嫌な音をたてた。
陽向の初めての相手──伊藤からのメールだった。




