第二話
陽向と別れた大希は、大学へと足を向けた。カフェから歩いて三十分ほどの道のりは、学生時代の慣れた道だ。
陽向は家に帰ると言っていたから、ここで顔を合わせる心配もない。
正門脇の守衛室で記帳を済ませた大希は、懐かしさを覚えながらゆっくりと中庭へと進んでいく。
陽向が在学している間は大学に近寄ることもないと思っていたから、こうして構内を歩くのは一年半以上ぶりのことだった。
土曜日の14時半。午前中で講義はとうに終わり、行き交う学生もまばらだ。
少し前には自分もここに居たのに、それが随分と遠く感じる。
イヅナたちも、芝生の匂いを確かめるように地面に鼻を寄せたり、きょろきょろと周囲を見回してみたりと、かつては毎日通った場所を確かめるような素振りだ。
「ディギとスイは構内の小物を片付けておいで。フウは僕とだ」
チチッと短く鳴いてイヅナたちが応じる。
ディギとスイは音もなく地面を蹴ると、空中へと身を滑らせて風のように構内へと飛んでいく。
肩へと駆け上ってきたフウは、これからどうするのかとでも言うように、鼻先で大希の頬をつついた。
指先でフウの顎を撫でた大希は「フウは僕と敷地をまわる。見つけ次第どんどん狩っていい」と低く告げる。
端から見れば独り言だ。人の目が少ないのは、都合がよかった。
陽向に憑いた小物たちは、かなりの数にのぼっていた。
在学中、顔を合わせるたびに片付けてやっていた頃を思い返す。
陽向は、害のある妖もない妖も寄せる性質だ。
それがうまく拮抗して、小物たちが牽制しあい、際限なく増えていく、ということは起こらずにいた。
だからといって、放っておいていいかといえばそういうものでもない。
小物の妖自体は野良猫並みにありふれた、そこらによく漂っている存在だ。
妖に善悪はなく、ただ、好むものへと寄っていき、独占したければ他を排除する。欲しければ奪い取る。良くも悪くも、欲望に素直に動く。
小物たちが出来ることといえば、小さな物を少しだけ動かすとか、人間を躓かせるとか、その程度にすぎない。
ただ、数が増え、同じ欲に染まり出すと話は変わってくる。
性質の悪いものは憑いた人間の魂魄を喰らい、その肉体を奪って成り代わろうとするのだ。
今日、陽向に憑いていたものたちにそんな気配はなかったけれど、数が増えれば、そういうリスクが増していく。
フウはちょこまかと動き回っては、猫が鼠を狩るように、小さな妖を食んでいく。
大希はその移動に合わせ、タチの悪いものが潜んでいないか、気を配りながら歩く。
ふと、自販機が目に留まった。
真夏の陽射しに比べれば随分和らいだとはいえ、まだまだ暑い。
冷たい飲み物を買おうと、ICカードを取り出した大希の視界に図書館が映る。
そういえば、初めて陽向の姿を目にしたのも、この自販機の前だったと思い出す。
次の講義までの合間、自販機で買った茶を口に含んだ途端、図書館の前を歩く女の子が派手に転んだ。
小学生のような転びっぷりに、大希は口にしたばかりの茶を吹き出しそうになった。
隣を歩いていたのは友達だろうか。目を丸くして、大丈夫かと助け起こしている。
意識を切り替えてよく見れば、転んだ子には小物がやたらと憑いており、すりむいた膝のケガを囃すように漂っていた。
──狩ってこい
イヅナに小さく合図を送ると、またたく間に彼女の周りの小物たちが一掃された。
以来、見かけるたびに彼女には小物たちが集まっており、寄せやすい子なのだとすぐにわかった。イヅナたちのおやつにするにはちょうどいい。そう思っていた。
陽向と初めて言葉を交わしたのは、図書館だった。
たくさんの本を抱えて、入口のドアを開けるのに四苦八苦していた。
開けてやると、「ありがとうございます」と相変わらずたくさんの小物たちを纏わりつかせながら、頭を下げた。
「勉強熱心だね」
「いえ、これは半分くらいは友達に頼まれただけなので」
特別熱心ってわけではないです、と照れたように笑う。
話を聞けば、大希の二歳下、新入生だった。
初めてのレポートに戸惑っている陽向に、教授の好みをよく知る大希が、使う資料をアドバイスした。
その後も、陽向とはよく図書館で顔を合わせた。
徐々に交わす言葉が増え、陽向は構内で大希の姿を見かければまっすぐ駆けてきて挨拶するようになった。
例えは悪いが、飼い犬が主人の元へと駆け寄るような、尾がついていればパタパタと振っているような様だった。
自惚れではなく、好意を向けられていると思った。
大希にとっても、真面目で素直な、可愛い後輩だった。
ただ、残念ながら彼女は、妖が見えるでなく、感じることもできない、ただ寄せやすいだけの一般人だった。
大学3年の終わり。春休み目前のこと。
いよいよ就職活動が本格化する時期。家業を継ぐと公言していた大希は、友人たちに羨まれることが多かった。
就職先を選ぶ余地があるほうが、よほど羨ましい。
そうは言えない大希が、同級生と少しだけ隔たりを感じ始めていた頃のことだ。
「そういや、あの子さ」
「あの子って?」
「よく一緒にいるじゃん。あの、よくすっ転んでる一年生」
「……ああ、うん。渋沢さんね。彼女が?」
視界の端にファイルを抱えた陽向の姿を捉えながら、大希は殊更そちらから視線を逸らして友人へと向き直った。
「お前、あの子と付き合ってんの?」
空気が、微かに震えた気がした。
それは大希の動揺に反応したイヅナの息づかいか、それとも陽向の気配だったか。
大希は少しだけ声のトーンをあげて「は? 僕が? あの子と?」と笑みを浮かべた。
「ないない。あの子、処女っぽくて面倒そうだし」
「うっわ、えげつな! お前、見た目は真面目そうなんだからさ。清純な子たぶらかさずに、セフレだけで満足しとけよ」
呆れたような友人の言葉に、大希はなおも軽薄な笑みで応えた。
「たぶらかしてない。あっちが勝手に寄って来てるだけだよ」
「お前、ホント最悪な」
知ってる、と思った。最低だ。
彼女が傷つくのを承知で、酷い言葉を聞かせている自覚はあった。
今考えれば、もう少しやりようがあっただろうと思う。
でも、あの時の大希は、ただ焦っていた。
ちょうどその前日に、イヅナが大希の命令なしに陽向の周りの小物を狩ったのを目にしたからだ。
通常、宿主の命令なしに、イヅナが狩りを行うことはない。──伴侶や、その候補と見做した相手を守る時以外は。
その日を境に、陽向が大希へと駆けてくることはなくなった。
『こいつが例の奴だろ? 相手して貰えるようになったんだ?』
『処女、捨てた甲斐あったな』
小さく震える唇で「やめて」と呟く姿が思い出される。
本来それは、捨てるようなものではない。
以前より格段に増えていた、陽向にまとわりついていた小物たち。
彼女が自分を粗末に扱ったゆえの結果なのか、それとも就活がうまくいっていないことで落ち込む心につけ込まれているのか判断はつかない。
そもそも、陽向の就職の内定が決まらないのが妖のせい、という可能性も排除できない。あれだけの量になってくると、体調に作用したり、多少の実害が出ていても不思議ではないからだ。
チチッ。
耳元でイヅナの声がする。
いつの間に戻ったのか、ディギが大希の肩に乗り、狩り終わったと主張していた。
視線の先では、フウが大きなあくびをして伸びをしている。こちらも終わったようだ。
「……早くないか? ちゃんと狩ってきたか?」
ヂッ。
不服そうな声で、顔の前に浮いたスイが応える。当然だろうと言わんばかりの顔つきだ。
背筋をざらりと撫でられるような、嫌な感じがする。
大学にしては小物が少ない。
陽向に集合しているわけではない。それならば、彼女はもっと多くの小物にまみれていたはずだ。
──どこかに、集まっている?
イヅナたちは、他にもっといないかと首をめぐらせている。食い足りないのだ。
イヅナは喰らう妖の力で、腹の満ち具合が決まる。小物など、いくら喰わせたところでおやつにしかならない。
そろそろ、中級程度のものを食わせたいところだ。
どこかに集まっているなら、もしくは小物を集められるほどに強い妖がいるならば、好都合かもしれない。
大希ももう一度注意深く周囲に気を配ってから、イヅナたちに身の内に戻るように命じた。




