第二部ー8話
壁に掛けられた時計の針は、20時を少し回っている。境界の向こうの時計も同様だ。映り込んだ世界にも関わらず、文字盤が反転していない。
「スイ」
チチッ
短く鳴いてスイが大希の肩へとやってきた。
「あの時計から繋がるはずだ。ディギの気配を頼りに行けばいい」
ディギがあちら側にいたのは僥倖だった。本当なら、宿主の指示も待たずに勝手なことをするなと叱るところだが、おかげで取り込まれた陽向をひとりにせずに済んだ。
それに、あちら側にいるディギの気配を辿れば、スイが迷うことはない。
「渡ったら陽向を護れ。それとディギに、合図に合わせてあちらの時計を壊すように伝えろ。そのまま喰っていい」
両側から依代を破壊すれば、反転した領域は崩れる。あとは、隠れ蓑を失った妖を、ディギが喰えばいい。
指示を受けたスイが、チッ!と短く鳴いて壁時計目がけて飛んでいく。
スイが潜る瞬間、壁ごと空間が歪んだものの、白い尾はするりと時計に吸い込まれていった。やがて、窓硝子の向こう側にスイの姿が現れる。すぐに淡い光が陽向を包み、取り囲んだ人間たちから陽向を隔てた。
安堵の息を吐いた大希は、壁時計に視線を移し「フウ、変化」と掌を差しだす。
フウが淡い緑色の光を発し、大希の手の中で一振りの刀へと姿を変えた。ぐっと柄を握る手に力を込めてから、正面に構える。
窓硝子へと視線をやれば、ディギが尾を揺らして、大希の合図を待っていた。
大希はディギに軽く目配せしてから、駆け出す。窓硝子の向こうでも、ディギが宙を滑り一直線に時計に向かった。
大希がデスクに飛び乗り、時計に刀を突き立てたのと、ディギが時計に牙を立てたのは同時だった。
刀の柄から伝わる固い手応えに抗いながら、ねじ込むように押して、そのまま壁ごと斬り裂く勢いで、真下へと刃を振り下ろす。
ディギも、あちら側から妖を喰らっているのだろう。刃を突き立てた亀裂から、朱色の光が漏れ出す。
柄越しの抵抗が軽くなったと思った瞬間、壁からすさまじい冷気が吹き出し、飛ばされた大希は床に背を打ち付けた。
オフィスの中の、硝子という硝子が砕け散るような音が轟き、女が悲鳴をあげた。大希はすかさず立ち上がり、窓へと視線を投げた。
あれだけの音を立てたのに、窓硝子にはヒビひとつない。
そして、その前には、陽向が立ち尽くしていた。
陽向の左腕が、血に染まっている。
「渋沢さんっ」
大希が駆け寄って傷を確かめると、陽向はそこで初めて自分のケガに気づいたとでもいうように小さな声をあげた。
「さっきまで平気だったのに、気づいたら痛くなってきました」
困ったように笑った陽向の顔色は白い。
大希は、自身のデイバッグから応急処置のセットを取り出す。陽向の腕の傷を洗い流すように消毒液をかけると、陽向が歯を食いしばって呻いた。
これは縫うことになるな。
考えながら、ガーゼを押し当て、圧迫するように手早く包帯を巻く。その包帯にもじわじわと血が滲んだ。
「先輩、用意周到ですね……あ、その前に、助けてくれてありがとうございました」
大希はなんと言っていいものか言葉に迷った。
こんな怪我を負わせておいて、助けたなんて言えるだろうか。
何も言えずにいる大希をよそに、陽向は「あ」と声をあげて、蹲る女の元へと歩み寄った。
「柏先輩! ケガないですか? 大丈夫ですか?」
「……し、しぶ、渋沢さ、……ごめ、腕、ごめんね」
床に尻をついたまま謝罪をくり返す柏に、「私は大丈夫です!」と言って膝をついた陽向は、労るように相手の背を撫でた。
大希は、暗い夜の闇を映す窓硝子と、そこに映り込むオフィスに目を凝らす。
陽向を取り囲んでいた大勢の人間は消え去り、怪異の気配もない。ただ、こちら側を映すばかりだ。
イヅナたちに命じると、今度は三匹ともがするりと窓硝子の向こうとこちらを行き来した。境界も間違いなく消失したらしい。
肩へとやって来たディギの顎を大希がひと撫ですると、チチッと満足げな声をあげる。妖を喰らい、腹が満ちたのだろう。
「よくやった」
チッ!
得意げなディギに、大希は複雑だ。
イヅナが大希の指示を待たずに陽向を助けに向かった。結果として陽向を助け出すことができたとはいえ、その行為そのものはひどく危うい。
イヅナが彼女を伴侶と見做すのだけは、看過できない。
「あの子はそういうんじゃない」
陽向に聞こえないように低く告げても、目を合わせたディギは、すぐにフイっと顔を背けた。
ディギに、こんこんと説教してやりたいことはある。けれど、今はまずやることがあった。
「渋沢さん、病院に行くよ。柏さんも、念のため一緒に診て貰おう」
短く聞こえた陽向と柏とのやりとりを思えば、柏が怪異の影響を受けて陽向を傷つけた可能性がある。となれば、普通の病院では警察に通報されかねない。
ここは九重に縁のある病院に連れて行くべきだろう。
大希はスマホを手にすると、分家にタクシーと病院の手配を依頼する。ついでに、このビルの所有者への連絡も頼む。窓硝子は無事だが、時計と共に斬った壁は酷い有様だ。それに加えて、念のため他のフロアも再度くまなく確認しておきたい。
「渋沢さんっ」
切迫した柏の声に振り返ると、「びっくりしました……」と陽向が椅子の背に掴まり、白い顔で苦笑を浮かべていた。
陽向のブラウスの袖は赤く染まっている。それなりの出血で、貧血かもしれない。
柏は立ち上がることは出来るようになったようで、陽向のケガをしていない方の腕に手を添えて、隣に立っている。こちらは、ひとりで歩くのに支障がなさそうだ。
大希はデイバッグを前に抱え直すと、陽向に背を向け、床に膝を突いた。
「背負うから乗って」
肩越しに振り返って告げると、陽向は「大丈夫ですよ! 歩けます」と首を振る。その顔色は蒼白なままだ。
一刻も早く病院に連れて行きたい大希は、立ち上がって笑顔で陽向に圧をかけた。
「抱っこがよければしてあげるよ?」
「えぇ……」
困り顔の陽向に「倒れてケガを増やしたい?」とダメ押しすると、「……おんぶでお願いします」と小さな声が返り、大希は再び床に膝を突いた。
「あ、でも先輩。先輩の服、汚れちゃいます」
自身の血を気にして眉を下げる陽向に「今更だよ。いいから早く」と促す。
ようやくのろのろと乗ってきた陽向を背負い、立ち上がる。
「すみません、重いですよね」
申し訳なさそうな陽向の声に、耳元で話すのはやめてくれ、と大希は思う。背中に感じる柔らかな感触も、かなり気まずい。
けれど、今はそれどころではない。
「柏さんは大丈夫ですか? 歩けますか?」
「あ、はい、大丈夫です」
「ゆっくりでいいので。無理そうな時はすぐに声をかけてください」
「はい、ありがとうございます」
柏から二人の鞄を受け取って持ってやると、「あ、鞄は私持ちましょうか」と陽向が再び耳元で声をあげた。
「渋沢さんは、少し静かにしてようか」
「……すみません」
大希は柏の歩調に気を配りながら、歩き出す。
チチッ
ディギの声だけが、やけに軽やかに響き、今度こそきっちり説教してやる、と大希は強く心に決めた。




