第二部ー9話
「じゃあ辞めることに決めたんだ?」
あの夜から一週間が過ぎ、陽向は傷口の抜糸を済ませた帰りに、病院近くのファミレスで大希と待ち合わせた。
柏はいったん有給を消化し、そのまま退職を決めたという。
その際、柏から、自身の教育係が心を病んで自殺してしまったことや、あの会社が社員をそこまで追い詰めるような企業であることを聞いた。
柏が辞めるから自分も辞める、というのは、社会人としてどうかとは思うが、陽向自身、柏なくしてあの会社でやっていける自信もない。なによりあんな目に遭ったあのオフィスに、足を踏み入れるだけで恐怖心が先立つ。
新入社員の陽向には、まだ有給休暇もない。それでも、いったんは退職して、もう一度新しい職を探すことにした。
そう報告すると、大希はどこかホッとしたような顔で、頷いた。
「今回の妖は片付けたけど、ああいう企業の空気は澱んで妖を呼びやすいから、いい判断だと思うよ」
「はい。……まあ、また就職活動することになっちゃうんですけど」
眉を下げてオレンジジュースを飲む陽向に、大希は曖昧に頷いた。
チチッ!
ディギがテーブルの上で尾をぱたりと振る。
「ディギさんたちは、ペット不可の場所にも入れていいですね」
陽向が笑うと、チチッと軽やかに返る。
大希は苦笑を浮かべ「ペット、ねぇ」と呟いた。
「霊なのに茹でた鶏食べたの、不思議ですね」
「まあ、ね」
普通のフェレットならば、人間の食べ物などをやれば体に悪い。けれど、霊ならば、そういうところは問題ないんだろうか。
テーブルの上のフライドポテトをじっと見つめるディギに「食べたいんです?」と尋ねると、チッと短い返事が返った。
「こら、ディギ。お前調子に乗るなよ?」
ヂッ!
「ポテト、体に悪いですかね? 霊だから大丈夫ですか?」
大希を見つめて訊くと、「まあ……何を食べたところで、問題はないよ」と曖昧な答えが返った。
「じゃあ、どうぞ」
摘まみ上げてディギの口元に差しだすと、チッ!と機嫌の良い声をあげて、ぱくりと長いポテトを一飲みした。
「わ、喉につかえませんか?」
心配する陽向の視線の先で、ディギは尾を一振りして答えた。
その向こうで、大希の肩に乗る、水色の麻呂眉のスイと目が合った。
「スイさんも食べますか?」
声を掛けると、そろりとテーブルの上に降りてきたスイは、陽向の差しだすポテトを注意深くフンフンと嗅いでから、その端っこをそっと囓る。そのままもぐもぐと囓り、一本を完食すると、すぐに大希の肩へと戻って行った。
「お前もか……」
呻くような大希の言葉に、陽向は小首を傾げた。
「あんまりあげないほうが良かったですかね?」
「いや……。……まあ、いいよ」
大希は軽く眉間を押さえると、苦笑を浮かべて首を振った。
「傷は大丈夫?」
「はい。抜糸もしたし、やっとビニールカバーなしでお風呂に入れます」
五月とはいえ、既に汗ばむ日も多い。傷口を濡らさないようにカバーで覆ってシャワーを浴びるのは地味に面倒だし、傷の周辺も痒くなる。今日からはその煩わしさもなくなるかと思うと、心も軽くなるというものだ。
「無理はしないで」
「ありがとうございます。でも、仕事はすぐ探し始めないとです」
今回、ケガを負ったことは、実家に伝えていない。ただ、会社がどうしても合わないから辞めるとだけは連絡してあった。
両親は、とりわけ父は、一度実家に帰ってきたらどうかと勧めてくれたけれど、ゴールデンウィークに帰省したばかりだし、とやんわりと断った。
仕事がどうしても決まらず、いよいよとなれば実家に帰らなければいけないけれど、今はまだそれをしたくはない。
陽向はアイスコーヒーを飲む大希を窺い見てから、もう一本ディギへとポテトを差しだした。
「先輩、この子たちって……」
本当にフェレットの霊なんですか? そう訊きかけて言葉を呑む。
そこまで踏み込んだら、いけない気がした。
「ん?」
「よく食べますね」
差しだしたポテトをまたたくまに平らげるディギの姿に、大希は再び嫌そうに顔をしかめた。
「まあ……そうだね」
チチッ♪
再びそろりと寄ってきたスイも、同じようにポテトを食べた。
大希の膝の上でテーブルに前足をかけるフウだけは、陽向と目も合わさない。
「フウさんは、人見知りさんですね」
呼びかけてフウに差しだしてみたポテトを、ディギが横取りして丸呑みした。そのディギに向けて不服そうに鳴いたフウは、大希の膝の上で丸くなる。ふて寝のようにも見えて、陽向は小さく笑いを漏らした。
「渋沢さん」
「はい」
「もし、どうしても仕事が決まらなかったら……」
大希は、そこまで言うと言葉を切った。何かが続くかと思えた言葉は、それきり宙に浮いて、陽向は先を引き取るように口を開いた。
「決まらなかったら……いったんバイト、ですかねぇ。大学の時のバイト先とか」
「そっか。うん、そうだね」
頷く大希を前に、ディギにポテトを分け与える。
『てっきり彼氏なのかと思っちゃった』
柏の言葉が思い出される。
今、自分たちはどう見えるだろう。カップルに見えたり、するんだろうか。
そんなことを考えた自分に、馬鹿だな、と陽向は思う。傍からどう見えたところで、自分たちは単に、大学時代の先輩と後輩でしかない。
ポテトもすっかりなくなって、陽向たちは店を出た。
「塩が少しでも濁ったら、早めに連絡して。それとなにかあったら……」
「すぐ連絡します!」
陽向が先の言葉をさらうと、大希は軽く目を瞠ったあと、すぐに笑った。
その笑顔を目にして、改めて陽向は思う。
大希が好きだ。こうして会えるのが嬉しくてたまらない。どこまで行っても片想いでしかないのに、と考えながら、陽向は軽く会釈して大希に背を向ける。
細いため息は、陽向の胸の熱を逃がすには、少しの役にも立たなかった。
《第二部 了》




