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私を遠ざけた先輩は、妖を狩る人でした—IZUNA あの恋のつづきの話—  作者: 稀葉
第二部 ガラス一枚の向こう側

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第二部ー7話

 陽向の心臓が早鐘を打つ。息を詰めながら後ずさり、机にぶつかってよろめいた。


 ヂヂッ!

 

 いつかのフェレットの声が聞こえた気がして顔を上げると、夜の闇を呑み込んだような暗い窓硝子には、再び目を見開く陽向の姿とやけに明るい蛍光灯、それと無人のオフィスが映し出されていた。


──え……?


「もたもたしてんなっ!」


 背後から野太い男の怒声が響き、肩を跳ねさせた陽向は、振り向いて悲鳴をあげそうになった。

 オフィスの席は、パソコンに向かうスーツ姿の男女で埋め尽くされていた。


『足ひっぱってんのわかってんのか!?』


『会社舐めてんだろっ』

 

『給料泥棒がっ』


 いくつかの怒声が飛び交う。それなのに、誰もが黙って、虚空を見つめるような眼差しを各自のモニタに向けていて、声の主は見当たらない。


 目の前には、尾の先だけが鮮やかな朱色の白いフェレット──ディギが陽向に背を向け、低く唸り声を発していた。

 

 学生気分じゃ困るんだよ!、役立たずが!、などと時折響く声は、陽向がオフィスで耳にしたことのある言葉も、そうでない言葉もあった。

 ただ、わんわんと反響する声そのものは、聞き覚えがない。

 

「ディ、ギさん……」

 

 わななく唇から零れた声もひどく震えている。

 自分の状況がわからない。なぜ今ここにディギがいるかも。


「柏先輩!?」

 

 ハッとして呼びかけ、陽向は首を巡らせた。

 先ほどまで窓の前に蹲っていたはずの、柏の姿はない。ただ、床には先ほど大量に送られてきたファックスが散乱していた。その文字は、鏡文字ではなくなっていた。


 死ね。

 

 死ね。

 

 死ね。

 

 文字から声が浮き上がってくる錯覚に陥る。


 フロアに視線を戻すと、知らない顔ばかりの中に、ゴールデンウィーク明けに退職したはずの社員がいることに気づき、陽向は思わず目を凝らした。

 

 なんで、ここに……?


 その社員が、おもむろに顔を上げ、陽向の方を見た。

 やがて、ひとり、またひとりとモニタから顔をあげ、人形じみた動きで首をめぐらせ、陽向へと視線を向けてくる。

 彼らはゆらりと立ち上がると、ゆっくりとこちらに向かって歩き始めた。

 陽向は浅く息を吐きながら、逃げ場を探す。

 出口はふたつ。どちらも廊下に続くドアだ。

 走れば抜けられるだろうか。けれど、デスクの通路はどこも人がいて、すり抜けることは難しそうだ。

 

 ヂヂッ!


 ゆらゆらと体を揺らし歩いてくる彼らは、陽向を取り囲むように徐々にその輪を詰めてくる。


 どうしよう。どうしたらいい? どこに逃げたらいい?

 

 焦りに呑まれる陽向の前で、ひとりの男がディギに向かって拳を振り下ろした。

 

「ディギさん!」


 ひらりと身を躱したディギを、陽向は飛びつくようにして胸に抱き込んだ。

 腕の中で唸り声をあげるフェレットに「ディギさん! 危ないですから」と宥めるように声をかける。ディギは、陽向を見上げ、チチッと短く鳴くと、するりと腕の中から飛び出した。

 あ、と思った時には、宙に浮いたディギが、白い光のように走った。

 陽向の眼前を、半円を描くように飛ぶその軌跡に、近づいてきていた人々が少しだけ後ずさる。

 すぐに陽向の前へと戻ってきたディギは、陽向の胸の高さで宙に浮いたまま、低く唸って周囲の人間たちに首を巡らせる。

 

──浮いて、る?

 

 フェレットの霊のようなもの。そう聞いてはいたけれど、こうして目の当たりにするまでは半信半疑だった。


──本当に、普通のフェレットじゃないんだ。

 

 じっとディギを見つめる陽向の背後で、バンッ! と壁に物がぶつかるような音が響き、息を止めた。

 飛び退くようにして背後を見ると、暗い窓硝子の向こうに大希の姿があった。

 

 来てくれた。

 

 陽向の胸に安堵が広がる。

 大希は、繰り返し硝子窓を叩き、何事か叫んでいた。力強く叩かれる硝子は、割れないのが不思議なほどの音を立ててはいるものの、大希の声まではこちらに届かない。

 

「先輩っ!」

 

 陽向も声を上げてみる。

 硝子越しに大希とまっすぐに目が合った。

 大希は再び何かを叫ぶが、唇の動きでは何を言っているのかわからない。陽向はゆるゆると首を振った。

 軽く目を瞠った大希は、小さく頷く。

 その大希の隣では、二匹のフェレット、スイとフウの姿があり、ディギと同じようにこちらを向いて毛を逆立てていた。

 大希が手近な紙に何かを書いてこちらに示す。鏡文字で反転はしているが、読める。

 

 その部屋を出るな。

 

 頷いた次の瞬間、大希の目が見開かれる。

 どうしたんですか、と訊こうとした陽向の手首が、間近に迫った男に強く掴まれた。

 

 

 

◇   ◇   ◇

 

 

 

 大希が陽向の会社を訪れたのは、新しい塩の小瓶を渡すためだった。

 ガードレールに腰掛けて、手の中の小瓶を弄ぶ。

 

 今日約束を取り付けて、明日渡す。そんな選択肢も浮かんだけれど、陽向の塩を濁らせている原因が特定できていないだけに、日延べするのも気が進まず、いつかと同じように会社の下で待つことにしたのだ。

 

 近くまで来たから。そんな言い訳を疑いもせず陽向は信じる。そんなもの、方便でしかない。

 

 遠ざけたいだなんて、口先だけだろう。そう責める自分と、陽向に必要なものを渡すためなのだから仕方がない、ともっともなことを考える自分もいる。


 着いた頃にはまだうっすらと明るかった空も、ネオンを映す夜へと移行した。こんな夜道をひとりで帰るのは危ない。そう考えてしまうことすら、都合のいい言い訳ではないのか。

 自嘲する大希の耳に、ヂッ!と短く鳴くディギの声が届いた。

 

「あ、こらっ!」

 

 ビルに吸い込まれていくように駆けていくディギに、大希はガードレールから立ち上がった。その足下で、スイとフウも短く唸る。

 大希はすぐにディギを追って駆け出した。


 陽向のいるはずのオフィスのフロアは、しんと静まっていた。

 関係者以外立ち入り禁止。大きな表示は出ているものの、オフィスのドアは開け放たれ、廊下から中の様子を窺うことはできた。

 煌々と明るいオフィスに、人の姿がない。

 

「ディギ?」

 

 先に来ているはずのイヅナの姿がないのを訝しみながら歩を進めると、窓際に女がひとり蹲っていた。

 

「大丈夫ですか?」

 

 声を掛けながら近づいた大希は、散乱する紙に目を留めて一瞬足を止めた。

 死ね。鏡文字だ。しかも、嫌な気配を纏っている。

 

「何があったんですか」

 

 女の肩に手を掛けて軽く揺する。

 ゆるゆると顔をあげた女の焦点がゆっくりと合った。

 

「……はずなのに」

 

「なんですか」

 

 焦る気持ちを懸命に宥めながら、精一杯静かに尋ねた大希に、女はわななく唇で言葉を紡ぐ。


「竹沢せんぱ……いて、いるわけないのに……し、死んだって……自殺、したって……」

 

「……自殺したはずの人が、いたんですか?」

 

 陽向の姿がない。けれど、見覚えのあるバッグがデスクの上にある。やはりまだ帰っていないのだ。

 陽向はどこなのかとすぐにでも問い詰めたい衝動を抑えながら、大希は問いを重ねた。

「窓……窓に、たくさん、いないはずなのに……誰も……」

 

「窓?」

 

 女は緩慢な仕草で窓硝子を指差す。その手が血に濡れているのを見て取り、視線を走らせて女にケガがないことを確認する。

 ならばその血は、誰のものなのか。

 胸苦しさを覚えながら女の指差す先に視線をやれば、一カ所、窓のロールスクリーンが上がっていた。

 確認するために近づいて、大希はすぐに窓に取りすがった。

 陽向がいた。ディギも。大勢に取り囲まれている。


「渋沢さんっ!」

 

 声を上げるが、陽向がこちらを見る気配もない。

 ディギは彼らを陽向に近づけまいと牽制はしているが、食わない。この状況で食わないのは、宿主(ひろき)の命令がないからではないだろう。おそらく彼らは食える存在ではない──核もない、妖でもない存在なのだ。

 

「スイっ、フウっ、渡れるか?」

 

 二匹のイヅナは窓硝子の前を漂うが、すり抜けることはできないようで、ただ窓硝子にカリカリと爪を立てた。

 イヅナが潜れない。ここが境界なのは間違いない。

 そして、ここに映り込む範囲を出てしまえば、陽向が完全に取り込まれてしまう。

 どうしたらいい!?

 苛立ち紛れに大希は両手で力強く窓硝子を叩いた。肩を跳ねさせた陽向が振り返る。

 途端にホッとした顔をされて、大希は複雑な気持ちになる。

 まだ、届かない。

 

「渋沢さんっ! そこから動かないでっ!」

 

 どうにか境界を崩せないかと窓硝子を叩きながら、声を張る。

 陽向も声をあげた。口の動きで、きっと「先輩」と言ったのだ。けれど陽向の声がこちらに届くことはなかった。

 

「そこから、うごかないでっ」

 

 ゆっくりと口の動きを見せるように言ってみても、陽向はゆるりと首を振る。わからないらしい。

 ならばと、大希は手近な紙にペンを走らせた。


 その部屋を出るな。

 

 掲げ見せた紙に、陽向が頷く。

 伝わった。そう安堵したのもつかの間、いつの間にか陽向の近くまでやって来ていた男が彼女の手首を掴んだ。


「渋沢さんっ!」

 

 ディギが素早く男の手に噛みつくと、男はディギを払いのけるようにして後ずさった。

 よく見れば、陽向の腕は赤く染まっている。ケガをしているのだ。

 猶予がない。一刻も早くあちら側から引き出す必要がある。

 

 あそこにいるのが自殺したはずの人間たちならば、妖によって囚われている魂の可能性が高い。ならばあそこは妖の生け簀のようなものだろう。

 本体が、いるはずだ。こちら側に。そこから、あちら側へと道を開いている。

 陽向を取り囲む人の輪が、じわじわと狭められている。

 食えもしない相手を前に、ディギだけではどうにもならない。

 スイとフウは、どうにか境界を越えられないかと窓硝子の前を右往左往したままだ。

 落ち着け。そうくり返す。

 必ずある。空間を繋ぐ何かが。

 大希は、窓硝子の向こうの景色とこちらとに注意深く目を凝らす。

 

 狭間を反転させるものが。妖の本体に繋がるものが。

 

 ふと、それに気づいた大希は、口角を引き上げた。

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