第二部ー6話
終業間際に舞い込んだ仕事は思いのほか多く、定時を大幅に過ぎてなお、一向に終わる気配がない。
陽向は、柏と並んで黙々と入力をこなしていた。
室内にはふたりがキーを叩く音だけが響く。
ふぅと柏が小さく息をつく気配に、そっと窺い見ると、こちらを見ている柏と目が合った。
「大丈夫? お腹すいてきたね」
「はい。あ、先輩。まだかかりそうですし、私、コンビニで何か買ってきましょうか?」
データは残すところ三分の一。どう見積もってもまだ一時間はかかるだろう。
「あ、ううん、いい、いい。終わらせちゃお! チョコ食べる? もうね、引出ひとつお菓子箱だから」
笑いながら言って差しだされた個包装のチョコを受け取った陽向は、「ありがとうございます」とすぐに口に入れた。その甘さに、ほんのわずか疲れが和らぐ心地になる。
「そういえば、こないだ迎えにきてたの、彼氏?」
「迎え?」
小首を傾げた陽向はすぐにそれが先日会社の下にいた大希のことだと思い至り、違います、と手を振った。
「大学の時の先輩です。近くまで来たからって、たまたまで」
「そうなんだ? 仲良く帰ってったから、てっきり彼氏なのかと思っちゃった」
「いえ、全然! ……そんなんじゃないです」
そんな風に見えたのか、と意外に感じる。有り得ない話なのに、と苦笑するしかない。
そして、どちらの『先輩』にも迷惑を掛けている。
陽向は申し訳なさを覚えながら言葉を続けた。
「それより、先輩。私が一人前じゃないばっかりに、すみません。今日もこんな遅くなっちゃって」
「謝ることなんてなんにもないよ。この仕事量じゃ、渋沢さんでなくても残業だったよ。気にしないで。むしろいてくれて助かったよ」
柏は笑ってくれたけれど、先ほどからどう考えても柏のこなしている量の方が圧倒的に多い。
陽向は、作業中も、迷う度にマニュアルを参照していた。急ぐ余り間違えてしまえば二度手間になってしまうからではあるものの、覚えていればもう少しくらいは効率よく作業できるはずなのだ。陽向はそれがとても歯がゆかった。
「だいたい、入社して二ヶ月で一人前になる新入社員なんていないよ。私だって、二ヶ月なんて、教育係の先輩におんぶに抱っこ状態だったもん。渋沢さんのほうが全然できてるくらい」
「柏先輩の教育係……って、その方はまだいらっしゃいますか?」
「……いないよ」
「そうなんですね。会ってみたかったです」
陽向がそう言うと、柏は、ふっと小さく笑って、そうだね、と呟いた。
「……優しい先輩だったよ」
「なら、柏先輩みたいな方だったんでしょうね」
「え?」
ふいに、電話の音が響いた。
陽向と柏は顔を見合わせる。
この時間、外線入電は留守電の応答に自動で切り替わる。呼び出し音すら鳴らない設定のはずだ。
静かなオフィスにコール音が響き続ける。
留守電に切り替わる気配もなく、陽向は受話器をとった。
社名を名乗り、耳を澄ませる。けれど、聞こえるのはくぐもった雑音ばかりだ。
「お声届いてますか?」
陽向が少し声を張っても、やはり聞こえるのは雑音ばかりで、助けを求めるように柏を見た。
「どうした?」
「それが、雑音ばかりで全然声が聞こえなくて」
「……切っていいよ。切らせていただきます、って言って切っちゃいな」
言われたとおりに陽向はひと言断ってから受話器を置いた。
「なんでしょう。故障ですかね」
息を着いた途端、オフィス内の電話が一斉に鳴り出す。しかも、内線電話まで鳴り出した。
とりあえず外線は今切ってしまった相手かもしれない。そう思って受話器に手を伸ばした陽向に「取らないでっ」と柏が声をあげた。思いのほか強い言葉に、陽向がぴしりと固まる。
「あ、ごめん。ほら、もう時間外じゃない? 担当に連絡できるわけでもないし、今日はもう電話は取らなくていいよ」
少し早口でそう言った柏は、心なしか呼吸が浅い
「それより今日はもう切り上げようか。ここまで出来てれば間に合うよ、大丈夫」
柏の言葉が合図だったように、電話が一斉に鳴り止んだ。戻ってきた静寂に、柏は自身のパソコンを落として、どこか慌てながら片付けを始める。
「内線はどこからだったんですかね」
「もう全部明日でいいよ」
柏にしては雑な物言いを少し不思議に思いつつ、陽向はパソコンを落とした。
「鍵締めの準備するね」
柏がそう言って、セキュリティシステムの方へ向かうのを見送っていると、印刷機が音をたてた。陽向も柏も印刷はしていない。ファックスが来たのだろう。そう考えて、窓際に置かれた印刷機に足を向ける。
印刷された紙を手にした陽向の目に入ったのは、A4の紙に大きく書かれた二文字。
死ね
反転された鏡文字だ。
「なにこれ……」
再び音をたてた印刷機が吐き出した紙にも、同じように鏡文字で同じ言葉が書かれていた。
悪戯にしては随分とタチが悪い。しかも機械は繰り返し同じ紙を吐き出し続ける。このままでは紙切れ待ったなしだ。
「どうかした?」
セキュリティシステムの設定を終えて戻ってきた柏が、陽向が手にした紙を覗き込んで息を呑んだ
「悪戯ファックスです。……電源切っちゃいましょうか」
「……う、うん。そうだね」
ファックスを兼ねているので複合機の電源は落とさず帰るのが通常だが、陽向はスイッチをオフにした。ウィンと小さな音をたて、機械は動きを止めた。
ホッとしたのも、つかの間、二人の前で印刷機は再び音をたてて同じ言葉が印刷された紙を吐き出した。しかも、通常では有り得ない速度で、次々に紙が吐き出されていく。
『なにかあったら連絡して』
大希の声が過る。これはきっと『そういうこと』だ。
陽向はポケットに手をやって、はっとする。塩もスマホも鞄の中だ。
踵を返して自身の机に戻り掛けた陽向の耳に、柏の声が届いた。何を言ったか聞き取れず振り返ると、蒼白な顔で床を見つめている。
「先輩?」
「もう……いや」
そう呟いた柏は、床を凝視したまま両手で柏自身の髪の毛を鷲づかみにした。
「もういやっ! いやっ! 最悪っ!」
ヒステリックな声をあげる柏に、陽向は呆然とするしかない。
次の瞬間、柏は近くの机にあったカッターを手にした。あっけにとられる陽向の前で、柏は、ゆっくりとカッターの刃を押し出して、それを凝視する。
「せ、んぱい?」
カッターを持つ手をのろのろと持ち上げて、あろうことか柏自身の首に当てがった。
「柏先輩っ!」
我に返った陽向が、カッターを持つ柏の手に飛びつく。
縋る陽向を振り払おうとする柏ともみ合いになり、刃が陽向の腕を掠めた。腕から流れ出した赤い血を目にした柏が、驚愕に目を見開いてカッターを放り投げた。
「いやぁぁぁぁっ!」
叫び声を上げる柏に突き飛ばされた陽向は、よろめいて、咄嗟にロールスクリーンの紐に手を掛けてしまった。
するすると音もなくスクリーンがあがり、暗い窓硝子に蛍光灯とオフィスが映り込む。
「──っ!?」
真っ黒な硝子に映っているのは、窓の前に立つ陽向とオフィス。ただ──人がいた。それも大勢の人間が、昼間のオフィスのように忙しそうにデスクで作業している。
思わず自身の背後を振り返る。
誰もいない。ただ、柏が窓の前に蹲って、両手で自身の頭を抑えながら、なにかをずっと呟いていた。
陽向の心臓が早鐘を打つ。
見間違いだ。きっとそうだ。そう思いながら、恐る恐る窓に視線を戻す。
ヒッと息を呑んだ。
硝子の向こうにいた全員が、昏い目でこちらを見つめていた。




