第二部ー5話
陽向の会社の外で、彼女と合流した翌々日のこと。
朝イチで送られてきた分家の調査結果を目にした大希は、ベッドから降りることもなく眉間に皺を寄せた。
陽向の言葉通り、あの会社に勤めていた二名がゴールデンウィーク明けで退職した。
厳密に言えば現在は有休消化中。そして、その二名共が、所在不明らしい。
自主退職を決めた成人だ。旅行などに出ていても不思議ではない。普通なら、そこまで気に留める話ではない。
問題は、今回の調査結果で、ここ数年あのビルで、辞めた後の足取りが掴めない者が複数いると判明したことだ。
あの会社に集中していれば少しは警察の目も向いたかもしれないが、それらは他のテナントにも散って発生している。成人の、ましてや退職後の行方不明など、事件性がなければ、噂に上ることすらない。
「……偶然か?」
ヂヂッ!
シーツに飛び乗ってきたディギが、抗議するように声をたてる。
宥めるようにひと撫でした大希は、再びスマホの画面に視線を落とす。
偶然とも思えないことは他にもあった。
イヅナは壁や硝子をすり抜けられる。僅かながら生命力を消費するので、率先してはやらせないが、あの会社の入っているビル──通りに面した側の窓硝子をイヅナは通り抜けられなかった。
イヅナは妖の一種だ。そのため、神社や寺などの神域では行動が制御される。神棚やお札のある部屋でも、神域ほどではないにしても同様だ。
そのため、窓硝子を通り抜けられないとわかって真っ先に疑ったのは、オフィスによくある神棚やお札の存在だった。
『神棚はないです。お札も……たぶんないです』
少し考えて陽向はそう言っていた。
実際スイたちに各フロアを確認させたが、それらしいものは見当たらなかった。
わかりやすい場所にないだけで、どこかで何かを祀っているんだろうか。
あの土地そのものの因縁も考えられなくはないが、それならばもっとわかりやすくイヅナが反応するはずだ。
陽向に憑いている小物の数も、相変わらずではあるが不審な増減もない。
あれほど塩が濁っているにもかかわらず、だ。
髪をかき上げた大希は、とりあえず朝食を済ませて出掛けるかとベッドを降りた。
冷蔵庫を開けると、陽向が買ってきたスポーツドリンクやゼリー飲料がまだ残っている。冷凍庫にも、カットされたネギなどが入っているし、台所の調味料も少しだけ増えた。
そんな陽向の痕跡を数えるように視線をめぐらせた大希は、深い溜め息を落とす。
こんなはずではなかった。
遠ざけたはずなのに、あの頃より近づいてはいないだろうか。
責任は負うべきだ。陽向が妖に害されることがあってはならない。そこにはもちろんイヅナからの害も含まれる。
陽向に憑いた小物を祓うだけなら、きっと遠巻きにするだけでもできる。
でも、塩を渡し、それが反応するほどの大物が近くにくればそうはいかない。
せめてあの会社からは距離を取って欲しいと思う。
話を聞く限り、陽向の勤務先はブラック企業に片足を突っ込んでいる。勤めている者のあいだでも、病んだり辞めていく人間は日常茶飯事で、気に留めなくなっていくのも容易に想像がつく。
ああいう場は、人の気が澱んで歪む。
本当は、辞めろと言いたい。
けれど、大希にそんな権利はない。なにより、あの会社に決まるまで、陽向がどれほど心をすり減らして就職活動を続けたか、内定が取れて安堵したかを知っているから、尚更それが言えなかった。
ちょこまかと台所までついてきた三匹は、大希の足下を横切る。
『わっ、足元にいると危ないですよ』
あの日の陽向の声が耳に蘇る。
イヅナをペットのように扱い、茹で鶏を振る舞い、なぜか『さん』付けで呼ぶ。
チチッ!
ゼリー飲料を手に取って冷蔵庫を閉めると、ディギが腕に飛び乗ってきた。
生き物とは違う、重さを感じさせない白い妖。
彼女の目に、イヅナは可愛いだけの生き物に映ったんだろうか。
「あの子はダメだよ」
ヂッ!
抗議の声を上げるディギと、足下で小首を傾げるスイとフウとを順番に見つめて、大希は再度呟いた。
「あの子は、ダメだ」
◇ ◇ ◇
今日は無事、陽向を19時までに帰らせることができた。
柏はちょっとした達成感を覚えながら、キーボードを叩く。
最近はどこの企業も、新卒を大事に育てるところが多いと聞くけれど、この会社の体質は相変わらずだ。
人は替えがきくもの。そういう考えが根底にあるとしか思えない。
残るのは体力があり、暴言にもめげない図太さがある者、どこまでもマイペースを貫ける者ばかりだ。背負い込みすぎれば病んでいくし、無理をすれば体調を崩す。
優しい人から壊れていく。
柏はどうかといえば、暴言は受け流すし、出来ないことは回避する。そうして、この四年、ここで生き延びてきた。
もちろん、そこには今は課長となった宮下と教育係だった竹沢のバックアップがあった。
(あんな人じゃなかったんだけどな……)
ぬるくなったコーヒーを口に含み、誰もいない課長席に視線を投げる。
竹沢は宮下と同期だった。
仕事を教えてくれたのも、当時の課長や部長から守ってくれたのも竹沢で、新入社員だった頃には毎日彼の負担にならないようにとそればかりを考えていた。
今の陽向を見ていると、あの頃の自分を思い出す。
大丈夫だよ。気にしないで。そうくり返してくれた竹沢だけでなく、柏の同期もひとりとして残っていない。
柏も、この春で辞めるつもりだった。
課長に昇進してからの宮下にも失望したし、もうこれ以上ここで頑張る必要はないんじゃないかと思ったからだ。
けれど、陽向が来た。
新入社員の教育係に。そう言われた時には全力で断ったけれど、それが聞き届けられることはなかった。
やって来た陽向は、ここにひとり残していけば、すぐに病んでしまうのではないかと心配になるほど、真面目で努力家だった。
「もう就職できないんじゃないかと思ってたので、内定が取れた時は嬉しくて」
はにかむ陽向に、早く辞めた方がいいとは言えなかった。
なにしろ、彼女は貴重な『新卒』というカードを、この会社に使ってしまったのだ。
半年も経たずに辞めるのは、さすがに転職に支障がでるだろう。
せめて、転職に困らない程度には育ててあげよう。
柏はそう腹を括っていた。
あの頃、負担をかけるばかりだった柏に「このくらい大丈夫!」と笑ってくれた竹沢の気持ちが、少しだけわかる気がした。
陽向は、自分が守ってあげなくてはいけない。そうでなければ──。
「柏さん、まだ残りますか?」
隣の課の女性が帰り仕度を始めて、柏は急いでファイルを保存すると「私も一緒に出ます」と答えた。
本当はもう少しキリのいいところまで進めたかったけれど、ここに一人残されるのは絶対に回避したい。
柏はなるべく窓の方に視線をやらないようにしながら、急いで荷物を鞄に詰め込んでいく。
朝ならいい。ひとりでもここにいられる。でも、夜は駄目だ。
窓硝子に蛍光灯が映り込むような時間に、一人でいるのは絶対に無理だ。
あれを目にして以来は──。
「セキュリティロックしますね」
柏はそう言って防犯システムの設定をすると、同僚と共にそそくさとオフィスを後にした。




