第二部ー4話
うどんを食べ、陽向の買ってきてくれた薬を飲んだ大希は、翌日には熱も下がり、すっかり回復した。
元々、イヅナを宿しているせいで長く寝込む方ではないけれど、久しぶりの酷い風邪だったはずが、声まで綺麗に治っている。
ここまですっきり治ると、一気に不安が押し寄せる。
──奪ったのではないか、と。
陽向がいた時とは打って変わって、イヅナたちは畳に転がったり、窓辺で外の観察をしたりと思い思いに寛いでいる。
大希の視線に気づいたディギがこちらを向いたので「なんであの子を連れてきた?」と低く呟く。
チチッ!
機嫌のいい声をあげたディギは、本棚の上へと駆け上がり、素知らぬ顔であくびをする。
イヅナは呪いだ。九重家の──大希にとっての。
イヅナは宿主の命令により狩った妖を糧とする。
ならば、狩りをしなければ、その糧が足りなければどうするか。
人の生気を喰らうのだ。
しかも、その相手は宿主ではない。
宿主に近しい、宿主が大切に想う女性の生気を食む。
躰を重ねる相手からも僅かばかりの生気を奪うから、同じ相手と日を空けずに行為をくり返せば、相手はみるみる弱っていく。
生気を奪われ尽くせば、人は死ぬ。
けれどイヅナはやるのだ。宿主を助けることこそが、最優先だから。
大希はスマホを手にした。
衝動的に陽向へ電話をしかけて、迷う。もしも彼女が弱っていたなら、どうするつもりなのか。
自身を落ち着かせるように息を吐く。
仮に陽向から奪ったせいで大希の風邪が治ったのだとしても、この一回で倒れるほどのことにはならないはずだ。
それならば、自身のすべきことはただひとつ。妖を狩り、イヅナの腹を満たさなくてはならない。
シャワーを浴びた大希は、週に数回、分家から届く怪異関連の報告に目を走らせ、今日の狩り場を決める。
「出掛ける」
声を掛けると、イヅナたちはすぐに大希の身の内へと滑り込む。
あとで、陽向に礼のメッセージを送らなければ。それから塩の手配だ。
陽向に渡している塩は、懇意にしている神社で祈祷してもらっているものだ。
宿主に限らず、九重家の人間はその神社で授与される塩をお守り代わりに携帯する者が多い。
陽向に渡したあの小瓶。真っ白だった塩は鈍い灰色に濁っていた。
昨秋初めてあれを渡してから、周期的に新しいものを渡してきたけれど、今回は随分と濁るのが早い。
陽向の通勤経路と勤務先も、ざっとイヅナたちを走らせるか。
やるべきことを考えながら、大希は玄関のドアを押し開けた。
◇ ◇ ◇
今日は朝から社内は騒然としていた。
ネットワークが落ち、停電でもないのにほとんどのパソコンが立ち上がらなくなっていたからだ。
障害発生の情報もなく、ウイルス感染ではないか、電話まで使えないなら設備の故障を疑うべきではなどと、社員が右往左往している。
結局、とにかく業者を手配して見て貰うこととなった。
使えるパソコンは二台のみ。
これは今日は仕事にならないという空気の中、課長の言葉に空気がざわりと揺れた。
「なんのためのクラウドだ。生きてるパソコンで印刷して、手作業でできるものは進めておけ。計算機はあるんだ。できることはあるだろう」
本当に緊急なものならたしかにそれは代替手段になる。
けれど、パソコンでやれば五分で済む作業を、一から手作業でやればかなりの時間を要する。復旧を待つ方がよほど合理的だろう。
新入社員の陽向にも、それがひどく効率の悪い話であることは理解できた。
「自分のパソコンを持っているならそれで作業してもいいぞ。取りに帰るのも許可する」
課長の言葉に、誰かが「正気かよ」と呟いた。
陽向はおろおろと周囲を見回して、柏に「あの、私、家にパソコン取りに帰ったほうがいいでしょうか」と指示を仰いだ。
「必要ないよ。だいたい顧客の個人情報を、自分のパソコンで扱うなんてリスキーなこと絶対やっちゃダメよ」
課長も何考えてるんだか、と息を吐いた柏は、社内マニュアルでも読んでればいいよ、と微笑んだ。
言われた通りに入社時に渡された社内マニュアルのバインダーを開いた陽向は、ふと背後のロールスクリーンを振り返った。
ロールスクリーンをあげた方が、窓の向こうの視界も開ける分、室内は明るくなるし、苛々したみんなの気分も幾分やわらぐかもしれない。そう思って、ロールスクリーンの紐に手を掛けた途端、「ダメっ」と声が掛かった。
柏にしては珍しく、鋭く強い声音に、陽向は紐からパッと手を放し、反射的に「すみませんっ」と謝った。
「あ……、その……ほら、モニターに光も映り込んでしまうから、ここは普段開けないの。だからそのままにしておいてね」
柏の曖昧な笑みに、陽向はほんの少し引っかかりを覚えた。
今日は窓際にいる社員のパソコンは全滅だ。モニタに光が映ったところで、誰もパソコンでの作業などしていない。
それでも、開けない方がいいのだなと素直に頷き、自席へ戻って再びマニュアルを開いた。
営業職など、外回りを口実にできる者からオフィスを出て行く。
静かになっていく室内に、柏も「いっそ今日は休みにしてほしいよね」などと苦笑を溢す。
その声が耳に届いたのか、「おい、柏」と課長の声が響いた。
「これを重要度別に選別しろ」
軽く十センチの高さはある紙の束だ。
「……今日中にやらないとどうにもならないというものは、既に各担当が先様に連絡済みですが?」
「明日復旧しなかったらどうする? どうせ暇でぼけーっとしてるだけなんだろ。給料分は働けよ」
息を吐いた柏は紙の束を受け取って、自席へと戻ってくる。
げんなりとした顔つきに、陽向もそれはそうだろうと思う。
ネットワークが復旧すれば不要になる作業だ。労力をかけるだけのメリットが限りなく薄いことは、陽向にすら理解できることだ。
それでも、上司がやれというならば断れないのも、社会人であれば仕方ないのだろうと思った。
「先輩。私も手伝えますか? 重要度はわかりませんけど、取引先別に分けるとか、書類の種類別に分類するとか……私にできそうなこと、ありますか?」
陽向が声をかけると、ハッとしたようにこちらを見た柏は「じゃあ一緒にやろうか。ちょうどいいから、書類の見方も教えるね」と笑みを作った。
課長は時折席を外し、そのたびに誰かの悪態が耳に届く。
誰かが発する悪意に満ちた言葉は、逃げ場のない空間では自身をも消耗させる心地になる。陽向はなるべくそれらに意識を向けないようにしながら、柏の教えに耳を傾けた。
ネットワークが復旧したのは、午後になってからのことだった。
案の定、課長に振られた仕事は無駄になり、手作業で行っていた書類の分類も無駄になった。
もっとも、柏は「明日同じことが起きたら嫌だから」と作業のクラウドバックアップはもちろんのこと、社内指定のUSBメモリへの保存にも余念がない。
いつの間にか課長の鞄はなくなっており、社内の残っていた数人で急ぎの作業を片付けた頃には20時を回っていた。
「私ももう切り上げて鍵閉めするから、渋沢さんも帰っていいよ」
柏の言葉に、やっと帰れるという安堵と、先にここを出る申し訳なさとがない交ぜになる。
陽向のそんな心中も見越したように、「私ももう帰るから大丈夫」と微笑む柏に、陽向は丁寧に頭を下げて会社を後にした。
他のフロアはもう誰もいない。オフィスの外の廊下も、余計な照明を落としているのか薄暗い。
昼は柏と外に食べに行ったけれど、それきり何も食べていない。けれど、空腹のピークももう超えていた。
帰って早くシャワーでも浴びたい。
そんなことを考えながら、エレベーターのボタンを押す。
軽やかな電子音と共に扉が開く。
ため息をついて乗り込み一階のボタンを押すと、チチッといつかと同じ声が響いた。
「え……?」
見下ろすと、小さな黒い双眸と目が合う。尾が朱色のフェレットなんてそうそういない。
「ディギさんっ!?」
チチッ
するするとディギが陽向の肩に乗ると、ポーンと軽やかな音を立ててエレベーターが止まった。
まだ一階ではない。
他のフロアの人も残っていたのだなと思いながら、扉が開くのを見つめる。
ヂヂッ! ヂッ!
低い声でディギが唸る。
ビルの中は動物禁止だろうか。そう心配しながら乗り込んでくるはずの人間を確認するように顔をあげた陽向の視界には、ただ真っ暗なエレベーターホールが広がっていた。
「あれ?」
ヂヂッ!!
誰もいない。
「もう一台のほうに乗ったとかですかね。……ディギさん、ここまでひとりで来たんです?」
ヂッ!
ディギが返事でもするようなタイミングで鳴くのが可笑しくて笑いが漏れる。
大希の家からここまではそれなりの距離だ。さすがにひとりで来て迷子になったというわけでもないだろう。
それでも、フェレットが一匹でエレベーターの乗るだろうか?
誰かがわざと乗せたとも思えない。
大希に連絡しなければと思いつつ、エレベーターの閉ボタンを押すと、今度こそエレベーターは一階まで下りた。
扉が開いた途端、ディギが外へと飛び出していく。
「わっ、ディギさん、危ないですよ!」
急いで追いかけると、ガラスの押し戸を開けてもいないのに、ディギはするりと外へと出て行く。
「……え?」
扉を押し開けて外に出ると、ディギは男の肩へと駆け上った。
「九重先輩?」
ビルの外、街灯に照らされたガードレールに腰掛けていたのは大希だった。
「お疲れ様。スマホに連絡入れてたんだけど、ちょうど近くで仕事があったから、寄ってみたんだ」
慌てて自身のスマホを取り出した陽向は、大希から一時間以上前に連絡が来ていたことを確認して眉を下げた。
「お待たせしてすみません」
「いや、仕事のついでだったから、それは全然。それより随分遅かったね。いつもこんな感じなの?」
ガードレールから立ち上がった大希と肩を並べて、ゆっくりと駅へと足を向ける。
「いつもはもうちょっと早いんですけど、今日はちょっとトラブルがあって……あれ? 先輩、ディギさんがいないです」
大希の肩にいたはずのディギの姿がない。きょろきょろと探す陽向の耳に、チチッと軽やかな声だけ響いた。
「え? ディギさん?」
「あいつなら大丈夫だから。とりあえず送ってくよ」
「大丈夫って、だって」
「なんて言うか、……ただのフェレットじゃないから大丈夫。見えないだけでちゃんと居るからさ」
「……フェレットの、霊?」
「んー、……まあそんなとこ」
ヂヂッ!
小首を傾げた陽向の耳に、不服そうなディギの声が響いた。
「渋沢さん、塩、見せて貰っていい?」
「あ、はい。……え」
取り出した塩の小瓶に、陽向は小さく息を呑む。
夜目のせいではない。朝見た時よりも更に濃い灰色へと変わっている。
大希も軽く目を瞠ると、陽向の手からそれを受け取り、顔の前に掲げて何かを探すように見つめた。
「先輩、それって……」
「何か変わったこと起きてる?」
「変わったことと言うか……」
陽向は、今日ネットワークや電話が繋がらず、パソコンも全部ではないけれどほとんどが使えなかったこと、業者が来たけれど原因はわからないまま、午後になって急に回復したことなどを順番に説明した。
「使えたパソコンに共通点はある?」
「先週使ってなかったパソコン、ですかね。ゴールデンウィークで二人辞めてしまって。その人たちのパソコンだけ使えました」
「二人も辞めたの?」
「はい。五月病? なんかそんな感じみたいです」
朝礼での課長の言葉を思い返しながら口にすると、「渋沢さんは平気?」と大希が気遣わしげな声で尋ねた。
「私は大丈夫ですよ。でも、指導係の先輩が、私のせいで負担が大きくなってないか心配です」
「それも心配だろうけど」
大希はそこで言葉を切ると、息を吐いて「渋沢さんも気をつけて」と続けた。
「ありがとうございます。九重先輩は体調大丈夫ですか? 病み上がりに無理するとぶり返しちゃいますよ」
「お陰様で大丈夫。こないだは買い物とかありがとう」
「どういたしまして」
答えながら、陽向はホッとする。大希が元気になったことだけではない。踏み込みすぎて迷惑だと思われていた自覚があるから、こうして自然に話せていることに安堵した。
「ねえ、渋沢さんの会社ってさ、窓側にお札とか神棚ってあったりするかな?」
思いも寄らない質問に、陽向の足が止まった。
神棚とお札。少なくとも神棚がないことは確かだけれど。
「神棚はないです。お札も……たぶんないです」
注意深く見ているわけではないけれど、カレンダーや告知関連の掲示物はあっても、お札が貼られていた記憶はない。
「そう……」
「なにか、ありそうですか?」
「……ないといいな、と思ってるよ。でも、何かおかしなことがあったら、迷わずすぐ連絡して」
いつかの妙な領域の記憶が過り、背筋がぞわりと冷たくなる。
陽向は神妙な面持ちで、こくりと頷いた。




