第二部ー3話
軽く息を弾ませて戻ってきた陽向は、大希に寝ているように促すとすぐに何やら作り始めた。
人の立ち動く気配。誰かの立てる音。
そんなものをこの部屋にいて感じるのは、ひどく不思議な心地になる。
「わっ、足元にいると危ないですよ」
チチッ。
小さな台所と6畳間がふたつあるだけの部屋だ。
イヅナの鳴き声も、抑えた陽向の声も聞こえないはずがない。
大方ディギが、彼女のまわりをちょろちょろしているのだろう。
それにしても、と思う。
陽向は妖が見えない。感じることもできない。それなのにディギの姿が見えるということは、ディギが意図的にそうしたということだ。
陽向が買い物に行っている間に、どういうことだと詰め寄っても、涼しい顔で本棚の上に避難したディギを掴まえてこんこんと説教をするほどの体力は、今の大希にはなかった。
「ディギ、邪魔を……ゲホッ」
「先輩? 寝ないならのど飴も買って来ましたよ?」
ひょこりと部屋の入口から顔をのぞかせた陽向は、気遣わしげに眉を寄せた。
その肩にはディギの姿があり、ため息しかでない。
「この子はなんてお名前なんですか?」
「……ディギ」
「ディギさん。かっこいいお名前ですね!」
チチッ!
どこか誇らしげに鳴くイヅナの声を耳にしながら、治ったら覚えていろよ、とひっそり大希は決意する。
「わ! 全部で3匹ですか?」
勢いよく顔をあげて、ぐわんと目眩がする。
陽向の視線の先、本棚の上からスイとフウとが彼女を観察するように見下ろしている。
「お前らまでか……」
呻くように言った大希に、小首を傾げた陽向は「もう少しで出来るので待っててくださいね」と再びシンクの方へと戻っていった。
フウとスイは本棚の上から降りてこない。陽向がこの部屋にいることに戸惑っているのかもしれないし、観察をしているのかもしれない。
それならいっそ姿を見せるなと言いたいけれど、宿主が部屋に入ることを許したのだから『姿を見せてもいい』と判断した彼らを一概には責められない。──ディギ以外は。
「ディギさんは普段何を食べてるんですか?」
チチッ!
「フェレットはフェレットフードとかあるんです? あ、鶏肉茹でたやつ食べますか?」
チチ♪
「先輩、フェレットは茹でた鶏肉食べて大丈夫ですか?」
「……うん」
もうどうにでもしてくれ。
なかば投げやりに頷くと、「よかった」と微笑んだ陽向の「ちょっとだけですよ?」という声の後、ディギのひどく機嫌のいい鳴き声が響いた。
九重の屋敷で神饌として供えられるのは生米や酒だ。それらを口にするイヅナを目にしたことはないけれど、「わ、熱くないですか。慌てなくて大丈夫ですよ」などという陽向の声が聞こえてくるあたり茹で鶏を食べているのだろう。
イヅナが妖以外を食すなど聞いたこともない。それで彼らの腹が本当に膨れてくれるなら、どんなにかいいだろう。
そんなことを考えながら、大希は目を閉じた。
室内においしそうな出汁の匂いが漂い出す。
幼い頃、母が作ってくれた煮込みうどんを思い出す。
『あー、ひろちゃんばっかりずるい!』
『そう言うと思って愛実の分もあるわよ。でもあなたはさっきご飯食べたでしょう?』
頬を膨らませた姉に向けられた、笑み含んだ柔らかな──声。
ひどく懐かしくて、遠く彼方になくしてしまった時間。
「先輩?」
チチッ。
遠慮がちな声に瞼を押し上げる。いつの間にかウトウトしていたらしい。
「おうどん出来ました。少しだけ食べませんか?」
心配そうな陽向の顔があり、一瞬夢と現実の区別が付かなくなる。
チチチ!
大希の頬を鼻先でぐいぐいと押すディギを押しのけて身を起こす。
「失礼しますね」
陽向の手がおでこに添えられた。ひんやりとしたそれはすぐに離れていき、かわりに冷却シートらしきものが貼り付けられた。
「冷凍庫に氷枕入れたんですけど、まだ冷えてないので。いったんこれで凌いで、よかったらあとで氷枕使ってくださいね」
「……うん」
子どものように頷いてから、ハッとする。
「あ、お金払うよ。いくらだった?」
「……いらないです。だって、先輩、塩をくれるのにお布施も受け取ってくれないですし」
「お布施……」
彼女の中では、まだ大希は宗教カテゴリーにいるらしい。
「あちらの子たちのお名前は?」
陽向の頭の上に駆け上ったディギを責めるような顔で、スイとフウが見下ろしている。
「……スイとフウ」
「あの水色の麻呂眉がある子はどっちです?」
「スイ」
「じゃあ背中を緑に染めてる子がフウさんですね。スイさんもフウさんもお邪魔しました」
陽向がぺこりと頭を下げる。
「先輩もお大事にしてくださいね。飲み物とかゼリー飲料とかも冷蔵庫に入ってますけど、できたらおうどん食べて体を温めて汗をかいたほうが、きっと熱も早く下がりますよ」
「ありがとう」
「どういたしまして。じゃ、私帰りますね」
そう言って背を向ける陽向に、「渋沢さん」と声を掛ける。
掛けてから、何を言おうかと大希は言葉を探した。
風邪で弱っているせいだろうか。もう少しだけ居て欲しいような気もする。けれど、それは許されない。許しては、いけない。
「はい?」
「あ、……そう、話があったんじゃ、ゴホッ」
「わ、大丈夫ですか」
小さな掌が背中を撫でる感触。
先ほどまで見ていた母の夢を思い出しそうになる。
「ごめん、大丈夫。話があるんじゃなかった?」
「えーと……」
陽向の視線が泳ぐ。
『ちょうど先輩に連絡しようと思ってたんです!』
買い物に出る前、彼女はそう言っていたけれど、やはりそれは方便だったらしい。
「あ、そう! 塩! 今、こんな感じです」
彼女が取り出した小瓶の塩が、灰色に濁っていた。
前回渡してからまだ一ヶ月半ほどだ。普段に比べると随分早い。
何か、どこかで大物とニアミスするようなことでもあったんだろうか。
心配ではあるけれど、今は手元に新しい塩はないし、一緒に外に出られるような体調でもない。
眉間に皺を寄せる大希をどう思ったのか、「すみません。私は帰るので。ゆっくり休んでくださいね」と困ったように笑った陽向が背を向ける。
「最近、なにか変わったことはない?」
「んー、特に、これといってないです」
「……近いうちに連絡するよ」
「はい」
嬉しそうに目を細めた陽向は、「お邪魔しました」と丁寧に頭を下げると、「ディギさんもバイバイ」と小さく手を振る。
チチッ。
出て行く陽向を見送るように、玄関まで駆けて行ったディギが鳴き声を上げる。
「ディギ、お前あとで説教だからな」
ヂヂッ!
不服そうなイヅナの声が室内に響いた。




