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私を遠ざけた先輩は、妖を狩る人でした—IZUNA あの恋のつづきの話—  作者: 稀葉
第二部 ガラス一枚の向こう側

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第二部ー1話

 ぬるく湿った空気の中をのんびりと歩く。

 霧雨は、水色のクラゲが漂う傘を撫でるように濡らしていく。

 アスファルトからは、雨の降り始めの独特の匂いが立ちのぼり、陽向はゆっくりと大きく息を吸い込んだ。


 チチッ!

 

 ふいに小鳥のような、ネズミのような声が響く。

 首を巡らせた陽向の視界に映ったのは、ブロック塀の上からこちらを見下ろす白いフェレットのような生き物だった。

 

 

 

◇   ◇   ◇

 

 

 

 社会人になると時間がなくなるよ。

 そんな風に聞いたことはあったけれど、大学でも講義に加えて週に数回はバイトに行っていたことを考えれば、そう大差はないのではないか。

 そう思っていた陽向が、実感としてその言葉の意味を思い知るまで二週間もかからなかった。

 

 就職活動で一向に内定が取れなかった陽向に採用通知が届いたのは、街がクリスマスイルミネーションに彩られ始めた頃のことだった。

 内定が取れないまま年末年始実家に帰省するのは、さすがに親戚に何を言われるかわからない。そんな不安を抱えた師走に、陽向はようやく胸をなで下ろした。

 

 家から会社までは40分ほど。通勤経路も、ゴールデンウィークに入るまでにはすっかり見慣れた景色となった。

 

 研修ばっかりだよ。

 

 まだ仕事ってほどのことはさせてもらってない。

 

 大学の友達とのグループラインには、そんな言葉が踊る。

 研修らしい研修などないままに、連日残業の日々を送る身からすると会社によって随分違うのだなと思う。

 

 オフィスには、ざっと六十人ほどの社員が机を並べている。

 支社のひとつに配属された陽向は、せわしない流れに置いて行かれないように必死でキーボードを叩いていた。


「渋沢っ!」

 

 部屋の奥から課長の怒声が響き、陽向は思わず肩を竦めた。

 

「ちょっと来いっ」

 

 ああ、また怒られる。

 ビクビクしながら椅子から立ち上がると、「課長!」と陽向の隣の女性がすかさず立ち上がった。

 陽向の五期上にあたる(かしわ) 久美(くみ)。陽向の教育係を務める女性だ。

 後頭部できっちりとお団子結びにした髪。凜と伸びた背筋。グレーのスーツを纏う彼女が、陽向を手で制してつかつかと課長のデスクへと向かう。

 

「渋沢さんにミスがあったのなら私の指導不足です。私がお話をうかがいます」

 

 きっぱりとした声音に、課長の近藤はどこかムッとしながらもトーンを落として書類を指し示していた。

 

 心臓がぎゅうと握られたような心地でそれを見守る陽向の元へ、柏が戻ってくる。

 

「すみませんっ! 私がやらかしてしまったせいで……」

 

 隣の椅子に腰を下ろした柏は、ぱちりとひとつ瞬くと、すぐに柔和な笑みを浮かべた。 

 

「大丈夫。やらかしたんじゃなくて、まだ教えてなかったってだけだから。今説明しても大丈夫そう?」

 

「はい! お願いします」

 

 すかさず袖机の引出からノートとボールペンを取り出すと、柏は「もっと肩の力抜いてて大丈夫だよ」と陽向の背を軽く叩いてから、椅子を寄せて説明を始めた。

 

 柏は優しい。入社してからの一ヶ月と少し。彼女はいつも陽向を助けてくれている。

 

 定時を二時間以上過ぎる前には、「新入社員なんだからもう帰りな。しょっぱなから飛ばすとバテちゃうよ」と声を掛けてくれる。迷いながらも先に帰る陽向が、翌朝、定時の三十分前──八時に出社すると、柏はもう自席でキーボードを叩いている。

 こんなに早く来なくていいのに、と微笑んでくれるけれど、きっと陽向が一人前でないせいで、負担をかけているのだろうと申し訳なく感じていた。

 

 説明された作業を黙々と続けていた陽向の背後で、コピー機が音を立てた。ファックスも届くそれを確認するのは新入社員の役目だ。

 届いた書類に目を走らせてから、ロールスクリーンを指先で寄せて窓の向こうを見遣る。

 薄暗いのは夕方近いせいだけではない。厚い雲がどんよりと空を覆っている。

 間もなく降り始めることを報せるように、ゴロゴロと低い地鳴りのような音が響いている。

 座席表を確認して、ファックスの宛名の社員の机に書類を置いてから、もう一度外を見遣る。

 鋭く大きな雷鳴が響き、フロアの女性社員から小さな悲鳴があがった。

 どこかに落ちただろうか。

 すぐに窓の外が白く煙るほどの雨が降り出した。

 定時まではあと一時間ほどだ。おそらく今日も定時には帰れないだろうけれど、それにしてもこの勢いで降り出してしまうと、折りたたみ傘では心許ない。

 息をつきながら自席に座ると、ガラスの小瓶が目に入り、なんとなく手に取る。

 小さな瓶の中身は、塩だ。


 大学の二年上の九重(ここのえ) 大希(ひろき)と再会をしたのは、昨秋のことだった。

 憧れて、大好きで、姿を見つけては駆け寄っていった。大希と友人との会話を耳にしてしまうまでは。

 鬱陶しく思われていたのだろう。そう考えて、構内で姿を見つければすぐに踵を返すようにしていた相手との、思いがけない再会だった。

 

 大希は今、怪異清掃請負業をやっているのだと言う。

 あまりに胡散臭いその響きに、怪しげな宗教にでもハマってしまったのだろうかと心配したけれど、常識では説明のつかない恐ろしい状況に陥ったのを助けてくれたのもまた大希だった。

 

 この小瓶は、その時に大希からお守り代わりにと渡されたものだ。

 瓶の中の塩は渡される時には真っ白だ。けれど不思議と2、3ヶ月で灰色がかった色へと変色していく。そうなったら大希に連絡して、新しい小瓶を受け取る。

 当初は、突然高額請求されることもあるかもしれないと少しだけ身構えていた陽向も、会った時のお茶代すら受け取ってくれない彼に、むしろ払わせてくださいと言いたくなっているほどだ。

 

 外の暗さを映すように、塩が少しだけ陰って見える。

 まだ一ヶ月半も経っていないのに。

 でも、これで大希に連絡する理由ができると思うと、少しだけ気持が浮きたつ。

 にやけそうな口元を引き締めながら、陽向はパソコンのモニタに意識を集中した。

 

 

 

◇   ◇   ◇

 

 

 

『内定がとれました』

 

 陽向からそんな連絡が来たのは、師走も半ばに差し掛かろうとしていた頃だった。

 年が明けても決まらなそうならば、いよいよ大希もツテを辿って就職先を紹介してやるべきではと思い始めていた矢先だったから、これでひとまず安心だと胸をなで下ろした。

 

 陽向と初めて会ったのは、大学三年の時のことだ。

 小学生男子のような派手な転び方に、思わず視線が釘付けになった。

 もっとも彼女がそんな転び方をしたのは、小学生のように駆け回ったせいではない。妖の仕業だった。

 

 陽向は妖を寄せやすい。

 小物の妖たちをいつも周囲に漂わせ、そのくせ本人はそれらを見ることはおろか感じ取ることすらできない。


 チチッ、チチチッ!

 

 肩にしがみつくようにしていたイヅナが声をあげ、大希は周囲に視線を走らせる。

 ビルの谷間、日の落ちた後の、ましてや厚い雲が月明かりすらも閉ざす雨の夜ともなれば、妖が活性化しやすい。

 

 大希の生まれた九重家では、代々男子がひとりイヅナ憑きとなる。

 イヅナとは、イタチやフェレットによく似た妖だ。このイヅナたちが飢えないように、彼らを使役し、妖──彼らの餌を狩るのが大希の生業だ。

 

「あらかた片付いたか?」

 

チチッ!

 

 答えるようにディギが声を上げる。

 まだ食い足りないのか、足下のスイとフウは尾を揺らして、あたりをきょろきょろと見回していた。

 

 日中の蒸し暑さに長袖Tシャツで来た大希だが、バケツを引っ繰り返したような雨ともなると傘はその役目を充分果たすこともなく、濡れた生地が肌に張り付き体温を奪っていく。

 

「お前らはいいな」

 

 どんな撥水加工なのかと言いたくなるほどに、イヅナたちの白い毛は雨に濡れそぼることもなく水滴を弾いている。

 

 チチチ。

 

 わかっているのかいないのか。

 ディギが鼻先で大希の頬をぐいぐい押してくる。

 

 ビルを見上げる。

 陽向の勤めている会社が入っているビルだ。一番上のその階だけは、まだ煌々と電気がついていた。

 時刻は21時を回っている。

 

「スイ。彼女がいるかだけ見てきて。ついでに小物も片付けてこい」

 

 チッ!

 

 短く鳴いたスイが、風のように飛んでいく。

 

 責任が、ある。大希は自身にそう言い聞かせる。

 

 陽向が以前よりも小物を寄せやすくなったのも、真面目な陽向がギリギリまで内定ひとつ取れなかったのも、自身に責任の一端があると大希は考えていた。

 

 酷い言葉で、彼女を遠ざけた。

 それがどんな結果を招くかなど、あの頃の大希にはわかるはずもなく、ただ、これ以上彼女を近づけては危険だという焦りだけがあった。

 

 だから、再会後、大希は定期的に陽向の自宅の周辺や、大学、職場の周囲の妖を祓っている。

 今日も昼に中級を狩って、帰りにここまで足を伸ばしてみた。

 これが罪滅ぼしになるとも思わないけれど、せめてもの責任だ。


 スイはすぐに戻ってきた。

 彼女の姿がなかったらしい。

 

 陽向がいないのはよかったとしても、こんな時間まで社員に残業をさせている会社など大丈夫だろうか。


 大希はイヅナをひと撫ですると、身の内に戻るように短く命じて歩き出した。




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