約束の花畑
「姉様!」
ノアが庭に出ると、エリサは本を片手に椅子に座っていた。顔を上げて、いつものように穏やかに微笑む。
「どうしたの?ノア。」
「姉様とお話ししたくて!」
「ついさっきまで一緒に話してたでしょ。それに、今からあなたは勉強しなきゃいけないんでしょう?こんなところに来ててもいいの。」
「だって難しいんだもん…先生が教える内容わかんない。」
そう言うと、エリサは少しだけ困ったように笑った。
「じゃあ少しだけね。」
「やった!じゃあいつも通りの本読んで!」
「もう内容覚えちゃったでしょ。ほんとに好きよね。」
彼女は迷いなく、その絵本を手に取った。
表紙の角は少し擦れていて、何度も読んだ跡がある。
「あるところにとても仲の良い姉弟がいました…」
ノアはエリサの声で聞くこの物語が好きだ。結末も、言葉の順番も、全部知っているのに。何度も聞いてしまいたいと思う。
「姉様。あのお花畑ってどこにあるんだろ。」
「一緒に行ってみる?」
「でもどこにあるかわからないでしょ。そもそもこれは絵本だし…」
「もしかしたらどこかにあるかもしれないよ。」
(いつか僕もあんな花畑に行けたらな…)
だが、絵本の現実は違う。
「もしかしたらどこかにあるかもしれないよ。」
エリサはそう言って、絵本を閉じた。否定しない。けれど、断言もしない。その曖昧さが、彼にとってはなぜか心地よかった。
「いつか見つけに行こうね。一緒に。」
「…うん!」
少しだけ空を見上げた。木々の隙間から差し込む光が、きらきらと揺れている。
しばらくすると、アメリアが庭に現れた。
「お嬢様、坊ちゃん。お飲み物をお持ちしました。」
「ありがとう、アメリア。」
「わぁ、僕の好きなジュース!」
グラスを受け取ると、ひんやりとした感触が手に伝わる。一口飲めば、甘さが口いっぱいに広がった。
「おいしい。」
「それはよかったです、坊ちゃん。」
アメリアはいつも通り穏やかに微笑んでいた。
「ノア。」
「なぁに?」
「勉強は…あとでちゃんとやろうね。」
「…うん。あとで。」
「先生も褒めてくれてたのよ。ノアはすごいって。だから頑張ろうね。」
「……うん。がん、ばる。」
絵本を読み終えて、少し話して、またお茶を飲む。気づけば、空の色がゆっくり変わっていた。
「今日はここまでにしようか。」
「もうそんな時間?」
「空がオレンジ色よ。続きはまた今度ね。」
こんな日常がずっと続いていく。
(嫌なことはあるけど、それでも幸せ。ずっとこのままだったらいいのに。)
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それからの日々は、とても穏やかだった。
朝は庭に出て、2人で一緒にお茶を飲む。ノアは昼から勉強を少しだけした。先生が家に来たからだ。
「ではこちらは分かりますか?」
「……ここわかりません。」
「こちらですか…」
(怒られるかな…)
ノアはそう身構える。先生は怒る人じゃないとわかっているのに。
「こちらはこれをここに移動させるんですよ。」
「じゃあ、これもこっちにしたらいいの?」
「はい。その通りです。さすが坊ちゃん理解が早いですね。」
わからないところがあっても先生が教えてくれる。難しいことに変わりはないが、嫌な気はしない。むしろ
「大丈夫です。ゆっくりでいいのですよ。」
と優しく声をかけてくれる。
「こちらは昨日やったところですね。」
「…あ、ほんとだ。」
「ちゃんと覚えていらっしゃるのですね。流石です。…それでは本日はここまでにしておきましょうか。お疲れ様でした。」
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勉強から開放され、ノアはまた庭に戻る。
アメリアが飲み物を持ってきて、エリサは本を読む。彼はその隣で地面に落ちた花びらを指で集めたり、空を眺めたりする。
「今日もいい天気ね。」
「うん。ずっとこうだったらいいのに。」
彼女は何も言わず、ただ微笑んだ。
「姉様、今日もあの絵本読んで。」
「また? 昨日も読んだでしょう。」
「うん。でも好きなんだもん。」
エリサは少しだけ笑って、結局その本を開いてくれる。ページをめくる音も、声の調子も、いつも同じだった。
「……こうして、姉と弟は再び花畑で出会いました。」
その言葉を聞くたび、彼の胸の奥がきゅっとする。しかし、その理由を考えようとはしなかった。
日が経っても、何も変わらない。エリサはいつもそこにいて、アメリアもいて、庭の景色も同じ。
ノアは不思議と日付を数えなくなっていた。いつの間にか、昨日と今日の違いがわからなくなっていたのだ。
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ある日、ふとエリサが言った。
「ノア。」
「なぁに?」
「最近、あのお花畑の話をしないね。」
「…だって、今はいいかなって。」
「そう。」
「ここ、好きだし。」
彼女の目は、いつもより少しだけ真剣だった。
「ねえ、ノア。」
「うん?」
「たまには、外へ出てみない?」
風が庭を通り抜ける。木々が静かに揺れた。
「外?」
「ええ。ずっと約束していたでしょう。」
彼女は立ち上がって、ノアの前にしゃがむ。
「一緒に、花畑へ行きましょう。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。嬉しいはずなのに、なぜか足がすくむ。
「……今じゃなくてもいいんじゃない?」
「どうして?」
「だって……」
言葉が続かなかった。
ここを離れたくない。そう言ってしまったら、何かが壊れてしまいそうで。
「また今度でも……」
「ノア。」
エリサは優しく、でも逃がさない声で彼の名前を呼んだ。
「今度じゃなくて、今日にしよう。」
手を引かれ、言うがまま彼女について行く。瞬きする度に景色が変わる。あっという間に。
次に瞬きした時には、一面に美しい花が咲き誇った花畑だった。
一面に広がる花の海に、思わず息をのんだ。
「すごい…」
見渡す限り、色とりどりの花が揺れている。絵本で何度も見たはずの景色。けれど、紙の上のものとは比べものにならないほど、鮮やかであたたかかった。
「ここ……」
「覚えてる?」
静かに問いかける。
「絵本の…」
「約束の花畑。」
風が吹くたび、花々がさざ波のように揺れる。甘い香りが空気に溶けて、胸いっぱいに吸い込まれていく。
「本当に、あったんだ…」
嬉しいはずなのに、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「ノア、ずっと来たがっていたでしょう。」
「…うん。」
エリサは微笑んだ。
「姉様、なんでここにあるって知ってたの?」
「……」
「姉様…?」
「あなたとの約束果たすことができてよかった。」
彼女はそう言って、ゆっくりと花畑を見渡した。
「この場所にあなたと来たかったの。」
「…姉様。」
「大きくなったら一緒に来ようって約束したもんね。」
「僕はまだ…小さいよ。」
「……そんなことない。だって今のあなたは私と同い年だもの。」
今まで意識していなかった。いや、意識しないようにしていた。
瞬きをして自分自身を見る。小さな少年の姿から、自分への決別を決めた時のノアの格好に変わっていた。
「ずっとここにいてもいい。あなたが望むなら。でも、それをあなたは望んでいないんでしょ。」
エリサは、そっとノアの額に手を置いた。昔、泣いたときにそうしてくれたみたいに。
「ノア。私は優しいあなたが好き。あなたが誰よりも優しいのは私が知ってる。だから、笑って。あの時から私があなたの足枷になっていたこと知ってたわ。でも、あなたは独りじゃないのよ。大切な仲間ができたじゃない。」
花畑の景色が、ほんの少しだけ滲んだ。色が、輪郭が揺らぐ。
「…姉様。」
「うん。」
「ここ、ずっといちゃ……だめ?」
「……」
エリサは答えなかった。代わりに、背後から静かな足音が近づく。
「坊ちゃん。」
アメリアだった。
「あなたのことをずっと見てきました。辛い時も、どんな時でもあなたは誰かのために生き続けた。私の記憶が奪われたことで、オブリビオンに対しての憎悪が止まらないのでしょう。しかし、復讐なんかに囚われないでください。私はあなた様のそばにいられてこんなにも幸せなのだから。」
「……」
「生きている限り、前に進まなければなりません。」
アメリアは、深く一礼する。
「私たちは、背中を押すことしかできない。ノア。」
「……」
「行って。」
花畑の風が、一気に吹き抜ける。
花びらが舞い上がり、視界を覆った。
「…約束、果たしたよね。」
「ええ。」
「なら……」
「うん。」
エリサは最後に、いつもの優しい笑顔を向けた。
「今度は、あなたの番。現実でこの花畑を見つけて。そしたらまたあなたに会いに行くわ。」
「……姉様。アメリア。…ありがとう。」
その瞬間、花畑の光が弾けた。
姉様とアメリアの姿が消えた。そして代わりに鍵が落ちていた。その鍵を拾うと、目の前に扉が現れた。
「絶対に見つけてみせるよ。この花畑を。ここじゃなくて僕の生きる世界で。」




