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第三区 後半/レース終了

 足払いで『クイックシルバー』を返り討ちにしたハヤブサは、そのためにほんの数秒、時速390キロメートル台にまで落ちこんだ。体勢を立て直したときには前方のカムイとの距離が広がっている。ハヤブサは舌打ちし、心肺機能と冷却機能を限界まで稼働させ、スピードを上げる。

「さぁ長かった『トライアンフ』もいよいよラスト200キロメートル! 観客たちの盛り上がりも最高潮です!」

 実況の声はハヤブサの耳に入っていない。彼の視線はカムイの背中を捉えて離さず、その胸のうちにひとつの激しい感情を沸き立たせていた。

「やはり来たね」

 通信機を介して不意にハヤブサの耳に飛びこんだのは、カムイの声だった。負傷しているはずなのに、彼女の呼吸の乱れはごくわずかだった。

「わかっていたよ。君の走りは正しい道を走る人間の走りだ」

「そうかい。くっちゃべる余裕があるのかよ」

「正直なところ、あまりない。だけどキミにひとつだけ、聞いておきたいことがあって」

「さっさと言え」

「キミは、なぜ走る?」

 ハヤブサは内心、どきりとした。

「ゴール直前になると、ランナーはみんな考えるんだ」

 落ち着いた口調でカムイは語る。

「『こんなに苦しいことになんの意味がある』? 『命を失うかもしれないのになぜ走る』? はっきり言おう、この問いに答えられないまま勝つことはありえない!」

 そのとき、ハヤブサは走り続けるカムイが、肩越しにこちらを一瞥したのを見た。そして彼女の燃えるような瞳と、ヘルメットのバイザー越しにたしかに目が合ったのを感じた。ハヤブサは目を見開いた。

「答えろハヤブサ! キミはなぜ走る!?」

「……おまえは……おまえはどうなんだ、カムイ!」

 言い返した直後、ハヤブサは、カムイのはっきりした嘲笑を感じとった。カムイは興味を失ったように再び前を向く。

「がっかりだ」

 カムイはそう言い放ち、通信を切った。そしてスパートをかける。彼女は時速419キロを突破していた。カムイの背中がどんどん遠ざかっていく――

「――おい、待てよ」

 ハヤブサの唇から、漏れた。

「俺を置いてくなよ。待ってくれよ……行くなよ……なんで俺の前にいるんだよ……っ!」

 唐突にハヤブサは理解した。頭の中にかかっていた霧が雷鳴に吹き飛ばされ、雲ひとつない蒼天が広がった。そこには誰もいなかった。G.G.も、スズメも、貧民街のみんなも、カムイも、クイックシルバーも、その他大勢のランナーたちもいなかった。青空の下、ハヤブサはただひとり、熱い体を伸ばして走っていた。

(ああ……そうか。やっとわかった)

 ハヤブサはわずかにうつむいた。

 彼の口端が吊り上がる。周囲の歓声が、やかましい実況の声がどこかに消える。痛みに満ちた全身のすみずみに活力が広がっていく。上唇を舐める。顔をあげる。カムイの姿を正面にとらえる!

「俺は、俺の前を走る奴がどうしても我慢ならねぇんだッ!」

 カムイが奥歯を噛んだ。すると彼の体に激痛が走り、体に打ち込まれていた幾本もの杭が体からせり上がり、抜ける。途端に体が今まで以上に熱くなり、全身の血管にニトロを流しこまれたような感覚があった。命が爆発した。

「バカ野郎ッ! 早すぎる!」

 モニターを見ていたG.G.が怒鳴る。スズメが青ざめ、彼の体にすがりつく。

 リミッターを吹き飛ばしたハヤブサは加速。筋繊維が細胞のひとつまで全力で稼働し、金属骨格が軋みをたてる。余計な感覚はすべて遮断され、脳までが最速を生み出すための機構の一部と化す。

「ここですさまじい追い上げだぁああああああああああああッ!! 測定結果は時速450キロ! 信じらんねぇ! 『ハヤブサ』が『韋駄天』に迫る、迫る、迫るゥ! 残距離100キロメートル突破!」

「理由を見つけたな!」

 カムイが歓喜の声をあげた。彼女もまた、もはや孤児院の子供たちのことなんかこれっぽっちも考えてはいなかった。最速の称号を得るにふさわしい舞台にようやくたどり着き、肌がざわめき、胸が震える。彼女は笑った。

「やっぱりキミは最高のランナーだ! だけど最速は、僕だ!」

 カムイが奥歯を噛み締めた。すると血流がますます加速し、彼女の全身を縛り付けていたベルトのようなスーツの部品が弾け飛ぶ。筋肉が肥大化し、彼女の走ったあとが摩擦熱で燃え上がる。

「『韋駄天』の名は伊達じゃない!」

「『"韋駄天"カムイ』がさらに加速ぅううう! 一度縮まりかけた差がふたたびジワジワと広がっていく! どうする!? ハヤブサ!」

「まだまだぁっ!」

 ハヤブサが怒鳴って、さらにもう一度奥歯を噛みしめる。すると彼の足がさらに速まり、スーツの表面の色が徐々に変わりはじめる。それに気づいたとき、G.G.は真っ青になった。

「赤熱化してる! あいつ、ラジエーターの電力まで走りに回しやがった!」

「死ぬつもりか! かかってこい!」カムイが言い放った直後、遥か前方、残り50キロメートルの果てに、道路をまたいで見えたのはゴールテープだった。

「ゴール目の前だぁッ! 長かった『トライアンフ』! 無数の命が散った『トライアンフ』! とうとうゴールが見えた! 墜落都市最速のランナーは誰かがもうすぐ決まる! 願いを叶えるのは果たして誰だ!」

「僕だ!」

  カムイがラストスパートをかけ――ようとして、彼女はハッとした。右腕がだらりと垂れ下がって動いていない。脳内で分泌された大量のアドレナリンが右鎖骨の粉砕骨折の痛みをごまかしていたのだが、そのせいで完全に用を果たさなくなってしまっているのに気がつくのが遅れていた。

(動かない腕なんてッ! 無駄な重量ッ!)

 彼女は走りながら右腕を掴み、渾身の力で引きちぎった。断面から大量の血が噴き出すが、人工筋肉の強烈な収縮によりすぐに止まる。そのとき彼女はほんの一瞬、自分の後方に視線をやった。笑顔が漏れた。

 ハヤブサがわずか数メートルの距離にいた。

「並んだぁあああ! 『韋駄天』『ハヤブサ』が並んだぁあああ! ゴール前50キロ地点! ふたりのスピードはなんと時速500キロ以上! こんなスペックのボディが製造されていたのか!?」

「わかっちゃいねぇな」G.G.がタバコを捨てた。

「人間にはな、意地ってもんがあるんだよ」

「お兄ちゃん、がんばれーっ!」

 モニター越しのスズメの叫びは当然、レース中のハヤブサの耳には届かない。だがその瞬間、ハヤブサはたしかに、彼女の声を聞いた。

「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!」

「『ハヤブサ』さらにスパート! 残り40キロ!」

「うぁああああああああああああああああああッ!!!」

「『韋駄天』がもう片方の腕もパージッ! 残り30キロ!」

「最速は――」

「『ハヤブサ』ラジエーター融解! 残り20!」

「――僕だッ!」

「『韋駄天』さらに姿勢を低くする――アッ!?」

「あっ」カムイの体が宙を舞った。

 彼女のランナー・スーツの靴裏が、負荷と熱と摩擦に耐えかねてどろどろに溶けていた。そのせいで地面を蹴った瞬間に彼女の足はずるりと滑り、大きく姿勢を崩した彼女の体は適切な力加減を見失って、小さく跳んでしまったのだ。

 時速506キロで飛びながら、彼女は着地しようと手を突き出そうとした。直後、両腕はさっき自分が切り捨ててしまったことを思い出した。ゴール前10キロメートル地点、カムイは、顔面からアスファルトに向かって落下していた。

(ああ……そうか。僕の負けか)

 なぜだか、カムイには周囲がとんでもなくゆっくりと見え、そして頭は冷静だった。彼女はヘルメットの下、小さく目を伏せる。

(悔いはない……このレースにも、人生にも……ああ、でも、ごめんね、シスター、バカな子で……僕は一足先に神さまのところへ――)

「――ふざけんな!」

 すぐ近くで聞こえた怒声に、カムイの意識は急速に引き戻された。彼女の体は何か硬くて熱いものに受け止められて、直後強い衝撃がくる。何かが猛烈な速さで削れ続ける音と衝撃が暫く続き、カムイは激しく回転し、そして放り出された。

 回転がおさまってしばらくすると、彼女は自分がまだ生きていることに気がつく。カムイは全身の骨折に呻きながら、なんとか体を持ち上げた。

 カムイは道路の真ん中にいた。通りの両脇の無数の観客たちは数分前の興奮と熱狂がうそのようだった。わけがわからずに周囲を見渡すと、彼はそこに居た。

 ハヤブサだった。彼はカムイから少し離れたところで、大の字になって寝そべっている。路面には1キロ以上にもわたって彼の体が削れ続けた痕跡が残っている。

「まさか……」

 カムイは歯を食いしばり、苦痛に顔を歪めながら、芋虫のように炎天下のアスファルトを這う。ほんの数メートルしか離れていないのに10分以上もかかった。あまりにも遅かった。

「ハヤブサ……キミは、僕を、かばったのか……」

 カムイはハヤブサのそばまで寄り、息も絶え絶えに言った。ヘルメットの下、瀕死のハヤブサがニヤリと笑ったのがわかった。

「……なぜ助けた」

「俺が知りてぇよ……」

 カムイの問いかけに、ハヤブサはひとことで返した。ふたりの会話はそこで終わった。カムイは倒れ伏し、ハヤブサは呼吸で上下する胸のほか、もう立ち上がることすらできないようだった。

「あー……なんだコイツは!?」

 思い出したように響く実況の声が、むりやりテンションを高めようとしている。

「こんな結果、誰が予想できた!? 1位『"韋駄天"カムイ』と2位『ハヤブサ』がゴール前8キロメートル地点で共倒れ! ふたりはぴくりも動かない! なんてこった、ほかに走れるランナーはいないのか!? 残りは111名、いやさらにリタイアが出て86名だが、どいつもこいつも片足だったり死にかけだったりで――あっ――オイ、オイオイオイオイマジかよ!?」

 急に実況が興奮しはじめる。彼の様子に、観客たちが訝しげにみな空を見上げる。

「いた! いた! いたぞ! まだ走っているランナーがいたぞ! ゴールから700キロメートル以上、廃墟になった第二区のどまんなか、まだ諦めずに走り続けているやつがいるぞ! 登録名は『マジロウ』ッ!! なんてこった、彼が最後のランナーだぁ!」

 観客たちが歓声をあげた!

「こんな展開を誰が予想したでしょうか! 無名、低スペックの、誰も注目していなかった小さなランナーが、この第8回『トライアンフ』唯一の走者だ! 小さな手足を懸命に振り、泣きそうな顔をしながら、それでも彼は諦めなかった! これを勇気の勝利といわずなんと言うのか! がんばれ『マジロウ』ッ

! 勝利がキミを待ってるぞ! がんばれ! がんばれ! がんばれーっ!」

 実況がはじめた『がんばれ』コールは、すぐに観客たちにも波及しだした。誰もが腕を振り、声を張り上げ、マジロウを応援していた。声援が声援を呼び、小さく無力な宇宙人の子供が勝利するのを、墜落都市中が待ち望んでいた。血みどろの道を、ひとつの無垢な勇気が踏破するのを人々か熱望していた。

 長い時間があり、とうとうマジロウがゴール前に姿を現したときには、声援は最高潮に達していた。マジロウも疲労にフラフラしながらも、声援に押されて走り続けていた。

 やがて、マジロウがカムイとハヤブサのそばを通った。彼は申し訳なさそうに軽く会釈をして、走り続ける。その後ろ姿に、カムイが頬をゆるめた。

「ああ、僕、あのランナー、知ってる……」

「……俺もだ」

「あの子なら、いいかな……負けても」

「……そうだな。優勝は、あいつのものだ……」

 ハヤブサが片手を持ち上げて、ヘルメットを脱いだ。血と汗にまみれた顔に、黄昏の熱い潮風が吹きつけた。彼は、満足げに笑った。



 レース開始から7時間、現地時間18時12分42秒に『マジロウ』はゴールした。

その記録波、今まで地球上で行われたすべてのサイボーグ・レースの記録のなかでも、ぶっちぎりに遅い記録だった。




(まさかこんな日が来ようとはな……)

 栄カンパニーの執務室で、栄十蔵はテレビを睨んで思案げな表情をしている。画面には、報道陣に囲まれて困惑しているマジロウが映っている。

(このランナーが勝ったのはまったくの偶然だ。二度はない。次回の『トライアンフ』に出すならば、カムイを続投させるか、それとも2位のハヤブサとかいうランナーか……)

 チャンネルを切り替える栄。画面には道路に倒れたままのカムイとハヤブサが映っている。その映像を見た彼は、はっとして目を見張った。

「まさか……! カメラ、寄ってくれ」

 カメラがズームし、ヘルメットをしたままのカムイと素顔のハヤブサがアップになる。それを見て、彼は確信した。

 栄は顔の眼帯をもぎとった。顕になった彼の左目の周りには、縁取りのような黒いあざかある。

「生きて、いたのか……神威……!」

 栄のあざは、ハヤブサのそれとよく似ていた。栄の目には涙が浮かび、彼はひとり、誰にも見られないようにそれを拭った。



 そうして、3年に1回の地球最大のレース『トライアンフ』は終了した。

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