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7 公爵の誤算と、ヒロインの冷徹な交渉術

 白昼の騒動が収まった後のヴァレンシュタイン公爵邸には、どこか奇妙な緊張感が漂っていた。

 普段ならば、王国屈指の武門たる公爵家の前庭で声を荒らげる者など皆無であり、ましてや当主たるオズワルドが正面切って庇おうとしたにもかかわらず、その当主を「邪魔です」と押し退けて自ら前へ出て相手と対峙した客人の存在など、屋敷の歴史始まって以来の出来事だった。


 前庭を警備していた衛兵たちは、交代の時間を迎えてもなお興奮冷めやらぬ面持ちで、詰所の片隅でひそひそと言葉を交わしていた。


「見たか、あのお嬢様の身のこなし」

「ああ。子爵令息がどれほど喚き散らしても、眉一つ動かさずに手帳を開いて証拠の存在を突きつけていた。公爵閣下が二歩も後退りされた瞬間は、我が目を疑ったぞ」

「か弱く守られるだけの令嬢だと思って丁重に接していたが、とんでもない。あの方は自分の足で戦う術を知っている」


 使用人や衛兵たちのエヴリンに対する視線は、単なる「閣下が連れてこられた哀れな保護対象」から、「決して侮ってはならない明確な意志を持つ客人」へと、明らかに変化していた。


 その当人であるエヴリンはといえば、周囲のざわめきなどどこ吹く風で、東側客室の机に向かい、持ち込まれた書類仕事の検算に没頭していた。

 机上にはインク壺と数本の羽ペン、定規。そして王都中央区の代筆屋から持ち込まれた商取引の確認書類が寸分の狂いもなく揃えられている。


 午後を回り、西に傾き始めた日差しが窓ガラスを通して床に細長い四角形を描く。

 ペンの先が羊皮紙を引っ掻く規則正しい音だけが、静謐な室内に満ちていた。


「セドリック様への対応で半時ほど作業が中断したけれど、この進捗なら夕刻の鐘が鳴る前には、南区の金物問屋の伝票照合も完了するわね」


 エヴリンは手元の紙片に小さく印をつけ、肩を軽く回す。

 セドリックが門前で醜態を晒して逃げ帰ったことは、彼女にとって勝利でも快挙でもない。予定されていた実務の途中に発生した、些細な障害を淡々と排除しただけに過ぎなかった。


 だが、その日の夕刻。

 クロウフォード伯爵邸で起きていた出来事は、些細などという言葉では到底片付けられないものだった。


   ◇


 重苦しい夕闇が迫るクロウフォード伯爵邸の居間では、冷え切った紅茶のカップを前に、エドガー伯爵が頭を抱えていた。

 その正面では、長椅子に深く沈み込んだセドリック・ランベールが、爪を噛みながら虚空を睨みつけている。

 公爵邸の門前でエヴリンに退路を断たれ、這々の体で逃げ出してきた元婚約者の姿には、貴族らしい威厳など欠片も残っていない。


「……それで、公爵邸の門前で騒ぎ立てた挙句、何もできずに逃げ帰ってきたというのか」


 エドガーの絞り出すような声に、セドリックは苛立ちを露わにして顔を跳ね上げた。


「何もできずにではありません! あの女が、過去に私が個人的に送った書簡まで保管していたのです! あれを公の場に持ち出されれば、私の立場どころか、ランベール子爵家そのものが社交界で泥塗れになります!」


「元はと言えば、貴様が迂闊な文面を残したのが原因だろうが!」


「今さら過去の手紙のことを言われてもどうにもならんでしょう! それより伯爵、あの女は本当に公証院へ手続きを持ち込む気です! 正式な返還請求が公証院の記録に残れば、父上や親族にも隠し通せなくなる。そうなったら、私は確実に廃嫡だ!」


 セドリックは髪を乱暴にかきむしり、声を上ずらせた。

 居間の入口の陰からその様子を窺っていたドロテア夫人とコレットも、顔色を青ざめさせている。ドロテア夫人は扇を握りしめ、エドガーの背中へすがりつくように言った。


「あなた、どうにかできませんの? セドリック殿が廃嫡されてしまっては、コレットの体面はどうなりますの。今さらあの方との婚約を解消したところで、姉の婚約者を奪った上に借金で放逐された男に乗り換えたなどと社交界で噂されれば、コレットの嫁ぎ先が完全になくなってしまいますわ!」

「お母様の仰る通りです!」


 コレットも涙を浮かべながら訴える。


「お姉様が全部悪いのです! あんな手紙を持ち出してセドリック様を脅すなんて、なんて意地が悪いのかしら! お父様、お姉様を今すぐ連れ戻してください! 父親の言うことに従わせて、公証院への申告をやめさせれば済む話ではありませんの!」


「連れ戻すと言っても、あいつがいるのはヴァレンシュタイン公爵邸なのだぞ!」


 エドガーが机を激しく叩く。その顔には激しい焦燥と恐怖が混ざり合っていた。


「よりによって、なぜ王国屈指の武門である公爵邸にあの娘が匿われているのだ! 相手は治安統括総監だぞ。我が家のような弱小伯爵家が正面から乗り込んで引き渡せと要求できる相手ではないわ!」

「ですが、あの子は我がクロウフォード家の血を引く娘ですわ!」


 ドロテア夫人が声を尖らせる。


「いくら公爵閣下といえど、他家の未婚の娘をいつまでも囲っておく名分などないはずです。父親が命じれば、娘が従うのが当然ではありませんか! それにあの子がいなくなってから、屋敷の支払期限の確認も、商会からの問い合わせの返答も滞る一方ではありませんか。連れ戻して以前のように実務をやらせ、公証院への書類を取り下げさせれば、すべてが元の平穏に戻るのです!」


「……元の平穏、か」


 エドガーは重いため息をついた。

 三番街穀物商会への追記条件の承認は辛うじて済ませたものの、来週には織物問屋への決済が迫り、領地からの小作料の減免申請の照会も積み上がっている。

 これまではエヴリンがそれらを事前に整頓し、何の問題もなく回っていたはずの日常が、今やエドガーの肩に重くのしかかっていた。

 娘を冷遇し、都合よく雑務を押し付けていた自覚など彼らにはない。

 父親である自分が命じさえすれば娘は従うはずだという身勝手な思い込みと、面倒な役回りをこなしていた存在が手の届かない場所に逃げ込み、自分たちを脅かしているという不都合に、苛立ちを募らせているだけだった。


「……セドリック殿」


 エドガーが低く呟いた。


「エヴリンが公証院へ書類を提出する予定は、具体的にいつだ」


「門前で喚き散らしていた様子では、明日か明後日には正式な書面を提出すると息巻いていました。公証院へ正式に受理されれば、公証官の手によって我が家へ正式な通知が送達されます。そうなれば、もう内々に揉み消すことはできません」

「ならば、明日だ」


 エドガーの瞳に、追い詰められた人間特有の浅薄な光が宿る。


「公爵邸の門を突破することはできんが、あいつ自身が公証院へ出向くか、あるいは書類の提出のために代理人と接触する瞬間があるはずだ。そこを押さえる。父親の権威をもって連れ戻し、書類の提出をやめさせるのだ」

「お父様……!」


 コレットが安堵したように息を漏らした。


   ◇


 夜。ヴァレンシュタイン公爵邸。

 二階の奥にある主書斎の重厚な扉を、エヴリンは静かにノックした。


「エヴリンか。入れ」


 中から低く落ち着いた声が返ってくる。

 エヴリンが扉を開けて室内に入ると、そこには壁際の大書架に囲まれた広大な空間が広がっていた。

 天井まで届く棚には軍事記録や領地経営の法規集がびっしりと詰まり、ほのかな蜜蝋の香りと古い紙の匂いが漂っている。

 部屋の中央に置かれた巨大な濃い色の木机の前で、オズワルドが眼鏡をかけ、書類に目を落としていた。

 普段の軍礼服ではなく、上質な薄手のシャツに濃紺のベストを重ねた姿だったが、その引き締まった長身躯から漂う威圧感は些かも衰えていない。


「夜分に失礼いたします、公爵閣下。明日の信書発送に関する確認に伺いました」


 エヴリンは手元に抱えた革表紙の手帳と、数枚の清書された羊皮紙を胸元に抱えたまま、机の前に進み出る。


「ああ、座れ」


 オズワルドが机の向かいの革張りの椅子を示した。

 エヴリンは会釈をして腰を下ろすと、持参した書類を机の上に整然と並べていく。


「ハインツ経由での通信規約に基づき、明日午前中に王都公証院へ提出予定の『預託金不正引き出しに伴う返還請求申告書』の控え、および添付証拠目録です。内容に治安上の懸念や、公爵家に不当な累が及ぶ記述がないかご確認ください」


 オズワルドは眼鏡の位置を指先で微かに直し、書類を引き寄せた。端正な顔立ちが書類の文面を追うにつれて次第に険しさを帯びていく。


「王都為替商の台帳謄本、宝飾店および仕立て屋の売買伝票控、筆跡鑑定書。それに……セドリック・ランベールからの直筆書簡二通の写しか」


「はい。昼間の門前での騒動を見る限り、セドリック様が自発的に返還に応じる見込みは皆無と判断いたしました。したがって、公証院を通じて正式な返還請求書を発送させ、セドリック様本人へ公的な通知を送達させる手続きに移行します」


「……随分と厳しい文面だな」


 オズワルドは一枚の羊皮紙を指先で弾いた。青灰色の瞳が眼鏡の奥からエヴリンを見つめる。


「請求金額四百二十万ゼルの元本返還に加え、督促に要した事務費用の付加。さらに期日までに返済または返済計画が示されない場合、以後は公証院その他の正式な手続きに従って厳格に回収を求める旨の警告まで盛り込まれている。相手に言い逃れの余地を一切残さない構成だ」


「当然です」


 エヴリンは微動だにせず、平然と言い放つ。


「相手は公の場で私に無実の罪を着せ、自らの横領を隠蔽しようとした卑劣な輩です。中途半端な請求を出せば、『適当に言い訳をして引き延ばせば誤魔化せる』と甘く見られます。最初から退路を塞ぎ、抵抗することがかえって自らの立場を悪化させると理解させねば、確実な回収は望めません」

「しかしだな、エヴリン」


 オズワルドは書類を机に置き、眼鏡を外して眉間を軽く揉む。その表情には、納得しきれない違和感が滲んでいた。


「回収に必要な範囲を越えているように見える。相手は子爵令息だ。公証院からこのような厳しい通知が届き親族の耳に入れば、セドリックは廃嫡へ追い込まれる可能性もある。そこまで条件を積み重ねて、相手を極限まで追い詰める必要があるのか?」


「自業自得です。他人の預託口座に手をつけ、見栄のために豪奢品を買い漁ったのはセドリック様ご自身の意思です。その結果として廃嫡されようと、私が手加減をする理由にはなりません」


「手加減しろと言っているのではない」


 オズワルドの声がわずかに低くなる。


「そこまで隙なく追い詰めれば、相手に余計な反発を招くのではないかと言っているのだ。逃げ場を失った人間がどう動くか、君は考えたことがあるのか? 昼間の門前での騒ぎなど、まだ公然と喚いているだけマシだ。本当に追い詰められた人間は理屈を投げ捨てて、もっと危険な行動に出るかもしれん」


「実力行使に出ようとすれば、公爵閣下の治安部隊が取り押さえてくださるのでしょう?」

「エヴリン」


 オズワルドの眉間に深い溝が刻まれた。


「私の力を、自分の強硬な手段の後始末として当然のように計算するな」


 その言葉は低く、そして鋭かった。書斎の空気がピンと張り詰める。

 エヴリンの背筋がわずかに強張った。彼女は唇を引き結び、青灰色の瞳を見据え返す。


「……私のやり方が間違っていると仰るのですか」


「間違っているとは言っていない。だが君の提示する文面は、必要以上に相手を追い詰めているように見える。回収を確実にするためだとしても、そこまで徹底的に叩く必要があるのかと聞いているのだ」


「回収を確実にするために、最も効果がある方法を選んでいるだけです!」


 エヴリンは机に両手を置き、きっぱりと言い返す。


「甘い顔を見せれば、相手は必ず付け入る隙を探します! 曖昧な余地を残せば、また別の言いがかりをつけて引き延ばそうとするに決まっています! 二度と同じことを繰り返せないよう、徹底して退路を塞ぐのが最も確実で安全な方法です!」


「そのやり方が、かえって相手を暴発させる引き金になるかもしれんと言っているのだ」


 オズワルドはため息をつき、椅子の背もたれに体を預ける。


「君の論理は通っている。証拠も十分に揃っている。だが相手を追い詰めすぎることが、常に最善の結果を生むとは限らん。君の反撃は時として苛烈に過ぎる」

「苛烈でなければ、私はとっくに実家で都合よく使われ続けていました」


 エヴリンの唇から零れ落ちた言葉は冷たく、そして酷く乾いていた。


「家族の情も婚約者の言葉も、私にとってはただの重荷でしかありませんでした。少しでも弱みを見せれば、理不尽な要求を押し付けられ、反論する隙すら奪われていた。反撃する術を持たず、客観的な証拠を持たなければ、何を言っても押し切られていたのです。自分を守るためには、曖昧な余地を一切残さないことだけが、唯一の防壁だったのです」


 オズワルドは息を呑み、言葉を詰まらせる。

 エヴリンの表情には怒りも涙もなかった。ただ、理不尽な環境を自らの知性と警戒心だけで生き抜いてきた者特有の、頑なな防衛の意思があるだけだった。


 オズワルドは、彼女がなぜこれほどまでに徹底した反撃にこだわるのか、その背景にある過酷さを垣間見た気がした。

 反撃の手を緩めれば足元をすくわれる。その経験則が、彼女の思考を極限まで合理化させているのだ。

 だがそれでも、オズワルドの胸の内に生じた違和感は消えない。正当な要求であるはずなのに、なぜ彼女のやり方がこれほどまでに引っかかるのか。

 オズワルド自身にもまだ、その違和感を明確な言葉にすることはできなかった。


「……書類は預かる」


 オズワルドは静かに息を吐き、机の上の申告書を手元に引き寄せた。


「私が確認できる範囲では文面に不足は見当たらない。明朝、ハインツに命じて公証院へ届けさせよう」

「……受理、ありがとうございます」


 エヴリンは小さく顎を引いた。勝った、という感覚はなかった。

 ただ、この強引な男が、自分の言い分に不服そうに眉をひそめながらも、頭ごなしに却下しなかったことに奇妙な落ち着きを覚えていた。


「ただし、エヴリン」


 オズワルドは眼鏡を机に置き、鋭い眼差しで彼女を見据える。


「公証院へ手続きが進めば、相手側もいよいよ追い詰められる。クロウフォード伯爵もセドリックも、君を直接抑え込むために何らかの接触を図ってくる可能性がある。明日以降、屋敷の外とのやり取りには細心の注意を払え。私の目が届かない場所へ、一人で出向くことは絶対に許さんぞ」


「……承知しております。自分の安全くらい、自分で計算に入れています」

「その計算に他人の突発的な凶行まで織り込めると思うなよ」


 オズワルドは呆れたように息を漏らし、手を振った。


「もう夜も更けた。部屋に戻って休め」

「はい。失礼いたします」


 エヴリンは淑女の礼を取り、書斎を後にした。


   ◇


 廊下に出ると、夜の静寂がエヴリンの火照った頬を冷やす。重厚な絨毯を踏みしめながら、彼女は自らの胸元に手を当てた。


(過剰ね……)


 オズワルドの渋い顔を思い出す。

 効果があるから、やる。

 相手に反撃の隙を与えないために徹底的に詰める。

 それは彼女が生きていくための絶対の正解だったはずだ。それなのに、なぜあの男はあそこまで不服そうに「そこまで追い詰める必要があるのか」と問うてきたのか。


(甘いのよ、あの人は。力があるから、相手に逃げ場を残す余裕があるだけだわ)


 そう自分に言い聞かせながらも、オズワルドの言葉が胸の片隅に小さく刺さったまま消えなかった。


 一方、クロウフォード伯爵邸では深夜まで灯りが消えることはなかった。

 居間の長椅子でコレットは硬く冷えた指先を握りしめ、憎悪に満ちた目で暗い窓の外を睨みつけている。


(お姉様……絶対に許さない。私からセドリック様を奪い、お父様に叱責させ、こんな惨めな思いをさせて……!)


 追い詰められた愚か者が、自らの破滅の足音から目を背けるために選んだのは、さらなる反発と短絡的な行動だった。


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